タシ・ジャムツォ(オーベルジュ「エノワ」のレストラン「ジングー」総料理長)
<18歳でチベットから渡米し、シェフになって大分県由布院のレストランにたどり着いたシェフの人生>
生まれ育ったチベットからニューヨークに渡り、シェフになって大分県の由布院にたどり着いた僕の人生に、大きな後悔は1つもない。別府方面から由布院方面に車で走ると、山間を抜けてチベットの草原のような光景が広がる場所がある。僕が18歳まで生活していたチベットも、山に囲まれていた。
僕はチベット自治州ナンワ県で、トラック運転手の父と農業を営む母と、弟と祖父母と暮らしていた。僕が9歳のとき、父は親類がいるニューヨークで働くためチベットを離れた。母は料理がうまくて、モモ(蒸し餃子)やトゥクパ(麺料理)、四川風料理を作ってくれた。祖父は毎朝チベットのパンを焼き、僕にも焼き方を教えてくれた。僕らの家は山の中にあったけれど、親戚は少し離れた草原でヤクを飼っていて、僕らが作った野菜を持っていくとヤクのバターやチュラ(羊)のチーズと交換してくれた。
2008年、僕が18歳の時、父が住むニューヨークに母と弟と一緒に移住することになった。高校に入り高級イタリアンで皿洗いのアルバイトを始めたのだけど、バスケットボールをしているときにけがをしてしまい、長期間バイトを休むことになった。
このとき自分を厳しく怒ってくれたのが、10歳上の兄のような存在で、後に僕の人生を切り開いてくれるフワ・ジェイソンという台湾系のシェフ。彼が09年にスペイン料理店「ボケリア」に移ることになり、僕もついて行くことにした。いま思うと、僕が本格的に料理の世界に足を踏み入れたのはこの時だった。
ジャムツォは「冬のケールが好き」だと語る SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN
でもスペイン料理はおろか西洋料理の世界も初めてだし、当時は英語もよく分からなかった。キッチンで「パセリ取ってきて」と言われても、見たことがないから探すのに苦労した。チベットでは肉は半生で食べるけれど、生野菜を食べることはあまりない。バジルやローズマリーといったハーブはニューヨークで初めて見たし、そういう食材をまずは食べてみて覚えるところから始まった。
ボケリアで20歳まで働き、大学に入ったものの、料理が楽しくなって休学。蕎麦(そば)店「松玄」でユウタさん、ヨシさんという先輩に和食の基礎を教えてもらい、その後はジェイソンの下でアメリカン料理店「ザ・ダッチ」で働いた。
15年からは、ファーム・トゥー・テーブル(農場から食卓へ)のパイオニアで、ニューヨーク郊外にあるミシュラン2つ星レストラン「ブルーヒル・アット・ストーンバーンズ」で働くことになった。前年の誕生日にこの店を訪れて感銘を受け、面接を受けた。ダン・バーバーというスターシェフがいるブルーヒルは、自分たちで育てた野菜や家畜、森で採取したものを使い料理をする。育てたものを食べる、というのは僕が小さい頃からやっていたこととつながっていた。
ブルーヒルはコーネル大学統合植物科学部とコラボしていて、ダンは大学の先生に「味のための野菜」を作ってほしいと依頼していた。大量生産用の野菜ではなく、味を最優先して作る野菜のことだ。ブルーヒルでは野菜はメイン料理のサポート役ではなく、それ自体が主役だったから。
小イカと3種のジャガイモの一皿 SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN
ここで僕は、いま大分で実践していることの多くを学んだ。ジャガイモだけで10種類以上作って味を比べたり、味の合わせ方を考えたり。副料理長を2年間務めながら、18年には休みをもらってイギリスと日本に研修旅行にも出かけた。日本には3カ月いて、(千葉県の日本酒醸造・販売の)寺田本家で発酵を学び、和食やフレンチなどの店で働いた。この時の人や文化との出会いがとても良くて、日本に住んでみたい、働いてみたいという思いが強くなった。
野菜が主役のレストラン
昨年6月にオープンした大分県由布院のオーベルジュ(宿泊施設を備えたレストラン)「エノワ」で総料理長を務めることになったのは、ブルーヒルで食事をしたオーナーが日本にも同じようなコンセプトで、しかもオーベルジュを開業したいと言って、共通の友人タエコさんを通して声をかけてくれたから。僕もオーナーの思いに共鳴し、ブルーヒルを辞めて20年のコロナ禍直前に日本に移住した。そして由布院で自家農園を土から作り始めた。
僕らの畑では多品目・少量栽培で野菜やハーブを育てていて、その数は200種類以上。毎日畑に行って一番いい時に収穫し、取れた野菜を見てその日のメニューを考える。堆肥には牛糞(ふん)やもみがらのほか調理場で出る食品廃棄物、例えば地物のヒオウギ貝の殻を使い、ごみを出さない循環型農業を実践している。無農薬の有機栽培なので虫との戦いではあるけれど、お客さんには安全で栄養価が高く、何よりおいしい野菜を食べてほしい。
レストランのスペシャリテ「Bouquet」 SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN
コース料理は野菜がメインで、ある日は大分産の小イカに自家栽培のジャガイモ3種(デストロイヤー、インカのめざめ、シャドークイーン)、それに自家製で作るサフランのサワークリームソースとバジルオイルを添えた一皿を。レストランのスペシャリテ(おすすめ料理)は、取れたての野菜をバスケットに入れてお客様にお見せした上で、アップルバター、ターメリックのヨーグルトリンゴバターなどで食べる一皿だ。
デザートは僕の大好きなケールから作ることもある。僕は冬のケールが一番好き。食感が硬くなるけれど、とても甘いし、何より朝は寒さで凍るのに昼になると元気に戻る、その生命力がすごいと思う。お客さんにも、これを食べて栄養をつけてもらいたい。
ここまで来るのに大きな後悔は1つもないけれど、小さな後悔があるとすれば、チベットの祖父母が亡くなったときにニューヨークにいて会えなかったこと。僕はおじいちゃん子だったから。祖父はインドやネパールに行くなど新しいものに寛容な人で、そういうところを僕は受け継いだのかもしれない。
本当にいろいろな人との縁に恵まれ大分にたどり着いた。エノワの名前の由来は「縁の輪」。レストラン名の「JIMGU(ジングー)」はチベット語で「帰る場所」の意味だ。僕だけでなくお客さんにとっても、ここが帰りたくなる場所であってほしい。
【ENOWA YUFUIN】
大分県由布市湯布院町川上 丸尾544
公式Instagram:@enowa.yufuin
Tashi Gyamtso:@tashi__gyamtso
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<18歳でチベットから渡米し、シェフになって大分県由布院のレストランにたどり着いたシェフの人生>
生まれ育ったチベットからニューヨークに渡り、シェフになって大分県の由布院にたどり着いた僕の人生に、大きな後悔は1つもない。別府方面から由布院方面に車で走ると、山間を抜けてチベットの草原のような光景が広がる場所がある。僕が18歳まで生活していたチベットも、山に囲まれていた。
僕はチベット自治州ナンワ県で、トラック運転手の父と農業を営む母と、弟と祖父母と暮らしていた。僕が9歳のとき、父は親類がいるニューヨークで働くためチベットを離れた。母は料理がうまくて、モモ(蒸し餃子)やトゥクパ(麺料理)、四川風料理を作ってくれた。祖父は毎朝チベットのパンを焼き、僕にも焼き方を教えてくれた。僕らの家は山の中にあったけれど、親戚は少し離れた草原でヤクを飼っていて、僕らが作った野菜を持っていくとヤクのバターやチュラ(羊)のチーズと交換してくれた。
2008年、僕が18歳の時、父が住むニューヨークに母と弟と一緒に移住することになった。高校に入り高級イタリアンで皿洗いのアルバイトを始めたのだけど、バスケットボールをしているときにけがをしてしまい、長期間バイトを休むことになった。
このとき自分を厳しく怒ってくれたのが、10歳上の兄のような存在で、後に僕の人生を切り開いてくれるフワ・ジェイソンという台湾系のシェフ。彼が09年にスペイン料理店「ボケリア」に移ることになり、僕もついて行くことにした。いま思うと、僕が本格的に料理の世界に足を踏み入れたのはこの時だった。
ジャムツォは「冬のケールが好き」だと語る SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN
でもスペイン料理はおろか西洋料理の世界も初めてだし、当時は英語もよく分からなかった。キッチンで「パセリ取ってきて」と言われても、見たことがないから探すのに苦労した。チベットでは肉は半生で食べるけれど、生野菜を食べることはあまりない。バジルやローズマリーといったハーブはニューヨークで初めて見たし、そういう食材をまずは食べてみて覚えるところから始まった。
ボケリアで20歳まで働き、大学に入ったものの、料理が楽しくなって休学。蕎麦(そば)店「松玄」でユウタさん、ヨシさんという先輩に和食の基礎を教えてもらい、その後はジェイソンの下でアメリカン料理店「ザ・ダッチ」で働いた。
15年からは、ファーム・トゥー・テーブル(農場から食卓へ)のパイオニアで、ニューヨーク郊外にあるミシュラン2つ星レストラン「ブルーヒル・アット・ストーンバーンズ」で働くことになった。前年の誕生日にこの店を訪れて感銘を受け、面接を受けた。ダン・バーバーというスターシェフがいるブルーヒルは、自分たちで育てた野菜や家畜、森で採取したものを使い料理をする。育てたものを食べる、というのは僕が小さい頃からやっていたこととつながっていた。
ブルーヒルはコーネル大学統合植物科学部とコラボしていて、ダンは大学の先生に「味のための野菜」を作ってほしいと依頼していた。大量生産用の野菜ではなく、味を最優先して作る野菜のことだ。ブルーヒルでは野菜はメイン料理のサポート役ではなく、それ自体が主役だったから。
小イカと3種のジャガイモの一皿 SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN
ここで僕は、いま大分で実践していることの多くを学んだ。ジャガイモだけで10種類以上作って味を比べたり、味の合わせ方を考えたり。副料理長を2年間務めながら、18年には休みをもらってイギリスと日本に研修旅行にも出かけた。日本には3カ月いて、(千葉県の日本酒醸造・販売の)寺田本家で発酵を学び、和食やフレンチなどの店で働いた。この時の人や文化との出会いがとても良くて、日本に住んでみたい、働いてみたいという思いが強くなった。
野菜が主役のレストラン
昨年6月にオープンした大分県由布院のオーベルジュ(宿泊施設を備えたレストラン)「エノワ」で総料理長を務めることになったのは、ブルーヒルで食事をしたオーナーが日本にも同じようなコンセプトで、しかもオーベルジュを開業したいと言って、共通の友人タエコさんを通して声をかけてくれたから。僕もオーナーの思いに共鳴し、ブルーヒルを辞めて20年のコロナ禍直前に日本に移住した。そして由布院で自家農園を土から作り始めた。
僕らの畑では多品目・少量栽培で野菜やハーブを育てていて、その数は200種類以上。毎日畑に行って一番いい時に収穫し、取れた野菜を見てその日のメニューを考える。堆肥には牛糞(ふん)やもみがらのほか調理場で出る食品廃棄物、例えば地物のヒオウギ貝の殻を使い、ごみを出さない循環型農業を実践している。無農薬の有機栽培なので虫との戦いではあるけれど、お客さんには安全で栄養価が高く、何よりおいしい野菜を食べてほしい。
レストランのスペシャリテ「Bouquet」 SATOKO KOGUREーNEWSWEEK JAPAN
コース料理は野菜がメインで、ある日は大分産の小イカに自家栽培のジャガイモ3種(デストロイヤー、インカのめざめ、シャドークイーン)、それに自家製で作るサフランのサワークリームソースとバジルオイルを添えた一皿を。レストランのスペシャリテ(おすすめ料理)は、取れたての野菜をバスケットに入れてお客様にお見せした上で、アップルバター、ターメリックのヨーグルトリンゴバターなどで食べる一皿だ。
デザートは僕の大好きなケールから作ることもある。僕は冬のケールが一番好き。食感が硬くなるけれど、とても甘いし、何より朝は寒さで凍るのに昼になると元気に戻る、その生命力がすごいと思う。お客さんにも、これを食べて栄養をつけてもらいたい。
ここまで来るのに大きな後悔は1つもないけれど、小さな後悔があるとすれば、チベットの祖父母が亡くなったときにニューヨークにいて会えなかったこと。僕はおじいちゃん子だったから。祖父はインドやネパールに行くなど新しいものに寛容な人で、そういうところを僕は受け継いだのかもしれない。
本当にいろいろな人との縁に恵まれ大分にたどり着いた。エノワの名前の由来は「縁の輪」。レストラン名の「JIMGU(ジングー)」はチベット語で「帰る場所」の意味だ。僕だけでなくお客さんにとっても、ここが帰りたくなる場所であってほしい。
【ENOWA YUFUIN】
大分県由布市湯布院町川上 丸尾544
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