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木造の腐りやすさが、逆に日本の古社の「建築の形式」を守ってくれた...日本とドイツの「幻の技法」にも改めて思いを馳せる

ニューズウィーク日本版 2025年1月1日 11時0分

藤森照信(東京大学名誉教授) アステイオン
<今、日本の木造建築が世界的な注目を浴びているが、その前にドイツのグリーンパワーが注目されたこともあった...。『アステイオン』101号より「木は腐るのか その2」を転載> 

木造が、日本だけでなく世界でも注目され、それもにわかに注目され、どう対処したものか建築史家は戸惑っている。

木造注目の少し前に、建築緑化注目の一件がドイツであった。ドイツのグリーンパワーが、建築の屋上や激しい場合は壁までも草を植えて建築の断熱性を高め、冷暖房にかかるエネルギーを減らそうともくろんだ。

ドイツのカッセルという町で大規模に実現したと聞き、訪れると、日本ではありえないような雨漏り必至の作り方をしている。聞くと、ドイツでは雨漏りが問題になることはなく、少し漏っても、ご婦人方は「冬の乾燥時に肌がしっとりしていい」と好評なくらいだという。

日本の建築界にとって雨漏りは永遠のテーマだが、ヨーロッパの、とりわけアルプスの北側にとっての永遠のテーマは隙間風らしく、木が狂って隙間の生まれる木造サッシ(窓枠)を禁じている国もある。

雨漏りを気にしなくていいなら楽だ、と羨ましく思いながら、建築史家兼建築家が既に実践していた建築緑化を続けているうちに、グリーンパワーは建築緑化を止め、ソーラーパネルに転じたというニュースが入ってくる。

理由は、緑化とその維持にかかるエネルギーを何年かかけて算出した結果、余分にかかることが判明し、止めることにしたのだという。そんなこと、一棟やってみたらすぐ分かっただろうに......。

政治がらみの、政策がらみの建築関係の主張はアブナイ、との認識をグリーンパワーから学んだ後、地球環境がらみでにわかに起こったのが木造建築への注目だから、心して対応しなくてはいけない。

木造が注目されるのは、森の樹が空中の炭酸ガス(炭素)を吸収して木として固定するからだ。

炭酸ガスの塊としての木は、森で樹として生きているか、里で木造建築に変わるか、石炭となって地中に眠るうちはいいが、しかし、森で倒れて腐るか、里で使われた後廃棄されるか、土中から掘り出されて燃やされるかすると、固定していた炭素は炭酸ガスとなって空中に戻っていってしまう。

木や森には、炭素を固定する能力が備わり、昨今の〝炭素削減〟には確かに貢献するはずだから、日本がしなければならない炭素削減量の一部に計上してもいいと思うが、なぜか世界は認めてくれないらしい。

木造建築が炭素を固定し続けるためには、里で建築に投入された木が腐ってはならない。にわかに話はスケールを下げるが、日本の建築界にとって、古くは大工棟梁は、水が浸みるとすぐ腐る木材をどう守るかに工夫の限りを尽くしてきた。

縄文時代の竪穴式と弥生時代の高床式の防腐性は低く、飛鳥時代に大陸から上陸した仏教建築の防腐性は著しく高かった。屋根には瓦が、主要な木部には朱が、柱の下には礎石が使われ、いずれも水の侵入を遠ざけるからだ。

防腐性を誇る大陸由来の作り方は、直ちに受け容れられ、やがていろんな建築に影響を与え、広まってゆくが、日本での工夫も忘れてはならない。

それが、鎌倉時代の寺院で成立した桔木(はねぎ)で、大きなテコ(桔木)を屋根の内側から軒の裏にかけて見えないように入れて、軒先を持ち上げ、軒の出を長くし、柱の根元に雨が当たるのを防ぐ。これで最大の弱点が克服されたばかりか、加えて美学上の効果も大きく、日本の社寺建築を印象付ける軒の水平性が確立している。

腐る木造を救ったのは仏教の寺院建築に違いないが、とすると、神社のほうはどうしたのか。多くの神社は寺院のやり方を長い時間をかけて少しずつ取り込んで防腐性を向上させてゆくことになるが、仏教以前からの歴史と由緒を誇る古社はその方向を拒む。

古くから続いてきた茅や樹皮葺きの屋根、素木の掘立柱の伝統を守るため、思いがけない手に出た。たとえば伊勢神宮の場合、20年もして木や茅が腐り始めると、建て替える。その時、前の形式はそっくりそのまま踏襲する。

世界のどこでも宗教建築は物質と形式の組み合わせからなるが、日本の古社は、2つを分離し物質を捨てて形式だけを守るという世にもまれな〝奇手〟を編み出した。この物質と形式の分離が無ければ、伊勢神宮は、弥生時代の高床式住宅の姿を今に伝えることなどできなかった。木造の腐りやすさが、逆に、形式を守ってくれた。

なお、伊勢神宮について言い添えるなら、20年もしないうちに掘立柱の土中の部分が腐ったり、茅葺きが一部崩れ始めるのを防ぐため、戦後、土中の部分に銅板を巻いたり、茅の中に銅網を差し込む工夫が試みられ、20年経過して調べると、土中に腐りは見られなかったが、茅葺きのほうは効果がなかった、という。

銅イオンには、木材を腐らせる菌糸類(キノコはその地上部)を殺す能力が認められ、現在、伝統的木造建築の保存修理にあたり、見えないところや気づかない辺で銅板は大活躍中。

以上のように、日本の建築界は、ずっと昔から、腐る木造との闘いに力を尽くしてきたから、かつて本誌(76号)で述べたように、オーストリアで小さなゲストハウスを作った時、かの地の共同設計者から「日本では木は腐るのか?」と聞かれ、返す言葉が見つからなかったのである。

共同設計者が手がけたウィーン中央駅の展望台は高さ50mの木造にもかかわらず、屋根もなく角材を鉄骨のように組みボルトで止めただけの作りであったから、確かにオーストリアでは木は腐らないようだが、しかし、そんなむき出しの木造が50年以上の星霜に耐えられるものなのか。

この疑問に答えてくれたのは、丹下健三が手がけた代々木プールの構造設計に参加した経歴を持つ故川口衞(まもる)先生で、ミュンヘンには〈イスマニングの無線木造塔〉なる高さ164mもの木造通信塔があり、遠くから眺めると鉄骨造にしか見えないが、近づくとただの木造で、防腐剤も塗らずにボルトで締めただけの作りに、木の腐る国から来た構造設計者としては信じられぬ思いがしたという。

作られたのは1934年で、ヒトラーの台頭した時期にあたり、第一次世界大戦の敗戦を機に既に始まっていた鉄材不足を補うためだった。

見に行こうと思いながら日を送るうちに、グラグラ揺れて周囲の住民が不安がるから壊されたが、ニュースにもならないし、かの地の構造技術者が学術調査をすることもなかったらしい。

1930年代のドイツには190mもの高塔もあったというから、50年しても100年しても木は腐らないらしいが、見ないことには......とモヤモヤしていると、ポーランドに1つ残っているとの情報を得て、2年前、壊されぬうちにとすぐ訪れた。それが〈グリヴィツェのラジオ塔〉で、190m、164mには劣るが、111mもただごとではないし、遠目には鉄骨、近づくと木造というのも同じ。

幸い、これはポーランドの歴史的記念物として末永く残されるようだ。なぜなら、第二次世界大戦前までこの地はドイツ領で、この木造塔を使ってヒトラーは反ヒトラーのニセ放送を流し、それを理由にポーランドに侵攻しているからだ。

これだけ垂直方向に高い木造の構造が可能ということは、横に倒して水平方向にも長い建物が原理的には可能となる。高さに相当する水平の長さのことをスパン(柱と柱の間の距離)と呼び、ドイツの建築界は木造の大スパン構造に取り組み、ジベルなどの小鉄片と小さな木造部材をうまく組み合わせて少量の木材で大きなスパンを可能にする。

工場や倉庫をはじめ集会場といった本来なら鉄骨がふさわしい大スパン、大空間を木造で作ることに成功する。

この成功をドイツ以上に鉄不足に悩まされていたドイツの同盟国の木の国が見逃すわけはなく、直ちに取り入れ、「新興木構造」と名付け、軍需工場や飛行機格納庫や体育館などで実践し、成果を上げている。

しかし、ドイツも日本も戦争に敗れ、木を駆使して時に高く時に大きな空間を作る技術は一時のアダ花として消えてしまった。

もし、ドイツと日本でこの技術が戦後も生き残り、建築界もさらに工夫を加えていたら、と想像する。腐りやすい日本の木造も戦後の化学工業の力を以ってすれば、木を腐らなくする塗料の発明などそう難しくはなかったし、構造技術を駆使して超高層ビルも可能になっただろう。

現在、にわかに注目されたおかげで腐らない木材も木造超高層も実現へと近づいているが、戦時下の新しい木造のあり方がアダ花で終わらず、その成果が継承されていたなら、日本の木造建築は今よりずっとずっと豊かになっていたに違いない。

藤森照信(Terunobu Fujimori)
1946年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学建築学専攻博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学建築学部教授等を歴任。専門は建築史学。著書に『建築探偵の冒険・東京篇』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日新聞社)、『天下無双の建築学入門』(筑摩書房)、『歴史遺産 日本の洋館』(講談社)など多数。

 『アステイオン』101号
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]
 

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