ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<ときに悪意を含んで尋ねられるこの問いの答えは、およそ100年前に生まれ、2500年にわたる西洋演劇の歴史を覆した「あるシステム」にある>
ミュージカル好きもミュージカル嫌いも、必ずといっていいほど行き当たる「ミュージカルはなぜいきなり歌うのか。」という問い。
オペラや音楽劇の研究を行っている長屋晃一氏は、この問いに答えることは「じつのところむずかしくはない」という。
長屋氏がミュージカルというジャンルを成り立たせる「型」に着目し、その仕組みを解き明かす『ミュージカルの解剖学』(春秋社)より一部を抜粋して紹介する(本記事は第1回)。
◇ ◇ ◇
「ミュージカルはなぜいきなり歌うのか。」
ミュージカルにかんする本のほとんどが、この問いからはじまる。
それは、ミュージカルといえば歌とダンスだ、という印象がなによりも強いことをあらわしている。同時に、ミュージカルを受けいれられない人が、かならずといってよいほど口にする問いでもある。
この問いを純粋な好奇心で相手にたずねる人はどのくらいいるのだろうか。むしろ、この問いには、ちょっとした悪意が含まれているのではないか。それは、ミュージカルという言葉を口にするだけで目を輝かせている連中を困らせてやろうという意図だ。
ミュージカルの熱烈なファンは、この問いにむっとした顔をするか、こんなすばらしいものを理解できないとは、なんてかわいそうなのだ、といわんばかりに、あわれみの表情を浮かべてこう答える。
「だってミュージカルなんだから。」
悪意をこめてこの問いをぶつける人は、ミュージカルにどうしてもなじめないタイプだ。そうしてミュージカルに距離をおきたくなる心情、それはミュージカルのあの「きらめき」に目をあけていられない(いたくない)人の心理である。たとえば、次のような――
ぼくはミュージカルにはひどい偏見をもっている。紅茶を入れながら急にエプロンお嬢さんが歌い出すとか、掃除人夫たちが急に足並みを揃えてこちらを向いて帽子を飛ばして歌い出すというのが、子供のころにおかしくて、それ以来のタブーになっている。(松岡2005)
引用した松岡正剛の言葉は、ミュージカルが苦手だと告白する人の心情を簡潔に代弁している。おそらくこのミュージカルは《メリー・ポピンズ》だろう。舞台か、それともミュージカル映画のほうかはわからない。
"Step In Time" from MARY POPPINS on Broadway - Disney on Broadway
いずれにせよ、松岡にはそれが子供ながらに幼稚に思え、いい大人たちが物語そっちのけで急に歌ったり踊ったりすることに、いたたまれないむずがゆさを覚えたのだろう。それはわからないでもない。
もっとも、引用した文章のあとには、クルト・ヴァイルの《三文オペラ》とレナード・バーンスタインの《ウェスト・サイド物語》だけは、ミュージカルが苦手な自分でも観ることができたと続く。
わたしが引用した部分は、その結論にいたるための、いわば話のマクラで、この引用で松岡がミュージカルを理解できない、などと非難するつもりはまったくない。ヴァイルとバーンスタインの作品は、人間の本質や社会問題に切り込むような切実なテーマをもっていたという。
つまり、幼稚でなかったのだ。だがその一方で、多くのミュージカルで陽気に歌い踊ることが、どこかばかげた、幼稚なものに見えたのもまた事実なのだろう。
「リアリズム」の魔
冒頭の問い、そして、ミュージカルに違和感をおぼえる理由、その答えはじつのところむずかしくはない。
それはしらずしらずのうちにミュージカルを「リアリズム演劇」と比べていることにある。わたしたちが現在、舞台や映画、テレビやネット配信で親しんでいるドラマのほとんどは、「リアリズム演劇」の延長にある。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアの演出家スタニスラフスキーが提唱した「役を生きる芸術」という理論は、演劇に革命をもたらした。
舞台上の登場人物たちは、あたかも現実のわたしたちと同じように生活し、言葉を発しているように演じられなければならない。
舞台と客席のあいだには、目にはみえない「第四の壁」があり、舞台上の俳優たちは、自分たちをみている観客などいないように演じなければならない。それが「リアル」なのだとした。
それまでの演劇は、言葉のリズムを強調するように、「抑揚」をつけて演じられていた。17世紀以来、つねに演劇の演技は「自然」であることが求められたが、それはスタニスラフスキーのいう「リアル」とは異なる。あくまで、詩的な演劇言語の範囲内での自然さである。
たとえば、19世紀の大女優サラ・ベルナールが残した音声を聞いてみるとよい(YouTube にもあがっているし、フランス国立図書館(BnF)のデジタルアーカイヴGallicaで検索してみれば、ラシーヌの『フェードル』などの朗読を聞くことができる)。
その「抑揚」は、今のわたしたちにはおおげさで、文字通り「芝居がかった」口調に聞こえるにちがいない。
また、やはりベルナールが出演したサイレント映画『椿姫』(1912)を見てみると、現実では決してすることのなさそうな大げさな演技である。しかし、それはベルナールが活躍した19世紀の観客にとってはわかりやすく、心を動かすものであったのだろう。
当時の演劇の身ぶりは、わたしたちの生活の描写ではなく、言語と同じような役割をになう指示的な記号だった。だから、動きや表情が大きくなり、定型的な表現を生みだしていく。
スタニスラフスキー流のリアリズムの時代になっても、そうした大げさな身ぶりは、欧米のコメディ映画やアニメのなかに生きのこっている。
このところ、日本では講談が大変な人気をとりもどしてきている。講談も大げさな言葉の調子やリズムによって内容と情緒を観客に伝える芸術だ。その調子をあえて日常的な会話文や抑揚で語ったら、かえって感情移入できないにちがいない。
【講談】神田伯山「寛永宮本武蔵伝より偽岸柳(第一話)」in 福岡市科学館 - 神田伯山ティービィー
講談の調子とリズムは、日常会話とは異なる抑揚で語られる。それを聞いていくうちに、わたしたちは講釈師の語る赤穂浪士やアウトローの義理人情の世界にひきこまれ、同情したり、はらはらしたりしてる。
そういう伝統芸能がうみだす感情移入は、内容もさることながら、「響き」と「調子」の力によるところが大きい。それらを聞きながら、わたしたちは一緒にそのリズムに乗ってしまう。それは人のさがというものだ。
歌舞伎や文楽、能、狂言、その他の芸能にしても、日常をおくるような口調で語る、という伝統芸能は皆無にひとしい。
それは日本の芸能にかぎらない。世界中の伝統的な芸能のほとんどは、歌舞音曲をともない、独特の言いまわしや口調、強調された演技で上演されている。ジャワの影絵や中国の京劇などを考えてみればよい。芸能とは、そういうものだったのだ。
しかし、スタニスラフスキーが構築した演技理論と、その影響を受けたいわゆるスタニスラフスキー・システムは、そうした19世紀までの演劇観をまったく変えてしまった。
いまのわたしたちが、サラ・ベルナールの演技を「わざとらしい」と思うなら、それはスタニスラフスキー・システムの影響がおおきい。
古代ギリシアからつづく2500年の西洋演劇の歴史のなかで、わずか100年ほど前に生まれた演出法が、大衆的な舞台芸術のすみずみまで支配したのだ。
舞台上の俳優がわたしたちと同じような口調と立ち居ふるまいをすることで、登場人物に共感しやすかった、というのがその理由のひとつであろう。
また、映画やテレビなどの映像メディアでは、俳優の顔や手がアップになることで、大げさな表情を作る必要がなくなったこともある。
それに対して、スタニスラフスキーが登場するよりも前に成立した世界各地の演劇は、「口調」や「身ぶり」がつねに「型」をともない、その「型」をとおして「意味」を観客に伝えてきた。舞台上で演じられる「型」をとおして、観客はその場面や登場人物の心情を想像する。
たいするスタニスラフスキー流の「リアリズム演劇」では、俳優の、そして観客の「感覚」を通してせりふや身ぶりに意味を見出していくように演技することが求められる。
どちらの演劇も「伝わる」ことを求めている。ただ、そのアプローチのしかたが異なるのである。
[引用文献]
松岡正剛「第1007夜 岩淵達治・早崎えりな『クルト・ヴァイル』」、『松岡正剛の千夜千冊』、2005年(2024年7月15日閲覧)
『ミュージカルの解剖学』
長屋晃一[著]
春秋社[刊]
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長屋晃一
1983年生まれ。愛知県出身。國學院大學文学部卒(考古学)。慶應義塾大学大学院文学研究科にて音楽学を学ぶ。博士課程単位取得退学。修士(芸術学)。現在、立教大学、慶應義塾大学他で非常勤講師。19世紀のイタリア・オペラにおける音楽と演出の関係、オペラ・音楽劇のドラマトゥルギーについて研究を行っている。「ヴェルディにおける音楽の「色合い」:《ドミノの復讐》の検閲をめぐる資料から」(『國學院雑誌』、2023年)、「音楽化される川端康成:歌謡曲からオペラまで」(共著『〈転生〉する川端康成』、2024年)他。また、研究に加えて、舞台やオペラの脚本も手掛けている。オペラ《ハーメルンの笛吹き男》(一柳慧作曲、田尾下哲との共同脚本、2013年)、音楽狂言『寿来爺(SUKURUJI)』(ヴァルター・ギーガー作曲、2015年)他。
<ときに悪意を含んで尋ねられるこの問いの答えは、およそ100年前に生まれ、2500年にわたる西洋演劇の歴史を覆した「あるシステム」にある>
ミュージカル好きもミュージカル嫌いも、必ずといっていいほど行き当たる「ミュージカルはなぜいきなり歌うのか。」という問い。
オペラや音楽劇の研究を行っている長屋晃一氏は、この問いに答えることは「じつのところむずかしくはない」という。
長屋氏がミュージカルというジャンルを成り立たせる「型」に着目し、その仕組みを解き明かす『ミュージカルの解剖学』(春秋社)より一部を抜粋して紹介する(本記事は第1回)。
◇ ◇ ◇
「ミュージカルはなぜいきなり歌うのか。」
ミュージカルにかんする本のほとんどが、この問いからはじまる。
それは、ミュージカルといえば歌とダンスだ、という印象がなによりも強いことをあらわしている。同時に、ミュージカルを受けいれられない人が、かならずといってよいほど口にする問いでもある。
この問いを純粋な好奇心で相手にたずねる人はどのくらいいるのだろうか。むしろ、この問いには、ちょっとした悪意が含まれているのではないか。それは、ミュージカルという言葉を口にするだけで目を輝かせている連中を困らせてやろうという意図だ。
ミュージカルの熱烈なファンは、この問いにむっとした顔をするか、こんなすばらしいものを理解できないとは、なんてかわいそうなのだ、といわんばかりに、あわれみの表情を浮かべてこう答える。
「だってミュージカルなんだから。」
悪意をこめてこの問いをぶつける人は、ミュージカルにどうしてもなじめないタイプだ。そうしてミュージカルに距離をおきたくなる心情、それはミュージカルのあの「きらめき」に目をあけていられない(いたくない)人の心理である。たとえば、次のような――
ぼくはミュージカルにはひどい偏見をもっている。紅茶を入れながら急にエプロンお嬢さんが歌い出すとか、掃除人夫たちが急に足並みを揃えてこちらを向いて帽子を飛ばして歌い出すというのが、子供のころにおかしくて、それ以来のタブーになっている。(松岡2005)
引用した松岡正剛の言葉は、ミュージカルが苦手だと告白する人の心情を簡潔に代弁している。おそらくこのミュージカルは《メリー・ポピンズ》だろう。舞台か、それともミュージカル映画のほうかはわからない。
"Step In Time" from MARY POPPINS on Broadway - Disney on Broadway
いずれにせよ、松岡にはそれが子供ながらに幼稚に思え、いい大人たちが物語そっちのけで急に歌ったり踊ったりすることに、いたたまれないむずがゆさを覚えたのだろう。それはわからないでもない。
もっとも、引用した文章のあとには、クルト・ヴァイルの《三文オペラ》とレナード・バーンスタインの《ウェスト・サイド物語》だけは、ミュージカルが苦手な自分でも観ることができたと続く。
わたしが引用した部分は、その結論にいたるための、いわば話のマクラで、この引用で松岡がミュージカルを理解できない、などと非難するつもりはまったくない。ヴァイルとバーンスタインの作品は、人間の本質や社会問題に切り込むような切実なテーマをもっていたという。
つまり、幼稚でなかったのだ。だがその一方で、多くのミュージカルで陽気に歌い踊ることが、どこかばかげた、幼稚なものに見えたのもまた事実なのだろう。
「リアリズム」の魔
冒頭の問い、そして、ミュージカルに違和感をおぼえる理由、その答えはじつのところむずかしくはない。
それはしらずしらずのうちにミュージカルを「リアリズム演劇」と比べていることにある。わたしたちが現在、舞台や映画、テレビやネット配信で親しんでいるドラマのほとんどは、「リアリズム演劇」の延長にある。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアの演出家スタニスラフスキーが提唱した「役を生きる芸術」という理論は、演劇に革命をもたらした。
舞台上の登場人物たちは、あたかも現実のわたしたちと同じように生活し、言葉を発しているように演じられなければならない。
舞台と客席のあいだには、目にはみえない「第四の壁」があり、舞台上の俳優たちは、自分たちをみている観客などいないように演じなければならない。それが「リアル」なのだとした。
それまでの演劇は、言葉のリズムを強調するように、「抑揚」をつけて演じられていた。17世紀以来、つねに演劇の演技は「自然」であることが求められたが、それはスタニスラフスキーのいう「リアル」とは異なる。あくまで、詩的な演劇言語の範囲内での自然さである。
たとえば、19世紀の大女優サラ・ベルナールが残した音声を聞いてみるとよい(YouTube にもあがっているし、フランス国立図書館(BnF)のデジタルアーカイヴGallicaで検索してみれば、ラシーヌの『フェードル』などの朗読を聞くことができる)。
その「抑揚」は、今のわたしたちにはおおげさで、文字通り「芝居がかった」口調に聞こえるにちがいない。
また、やはりベルナールが出演したサイレント映画『椿姫』(1912)を見てみると、現実では決してすることのなさそうな大げさな演技である。しかし、それはベルナールが活躍した19世紀の観客にとってはわかりやすく、心を動かすものであったのだろう。
当時の演劇の身ぶりは、わたしたちの生活の描写ではなく、言語と同じような役割をになう指示的な記号だった。だから、動きや表情が大きくなり、定型的な表現を生みだしていく。
スタニスラフスキー流のリアリズムの時代になっても、そうした大げさな身ぶりは、欧米のコメディ映画やアニメのなかに生きのこっている。
このところ、日本では講談が大変な人気をとりもどしてきている。講談も大げさな言葉の調子やリズムによって内容と情緒を観客に伝える芸術だ。その調子をあえて日常的な会話文や抑揚で語ったら、かえって感情移入できないにちがいない。
【講談】神田伯山「寛永宮本武蔵伝より偽岸柳(第一話)」in 福岡市科学館 - 神田伯山ティービィー
講談の調子とリズムは、日常会話とは異なる抑揚で語られる。それを聞いていくうちに、わたしたちは講釈師の語る赤穂浪士やアウトローの義理人情の世界にひきこまれ、同情したり、はらはらしたりしてる。
そういう伝統芸能がうみだす感情移入は、内容もさることながら、「響き」と「調子」の力によるところが大きい。それらを聞きながら、わたしたちは一緒にそのリズムに乗ってしまう。それは人のさがというものだ。
歌舞伎や文楽、能、狂言、その他の芸能にしても、日常をおくるような口調で語る、という伝統芸能は皆無にひとしい。
それは日本の芸能にかぎらない。世界中の伝統的な芸能のほとんどは、歌舞音曲をともない、独特の言いまわしや口調、強調された演技で上演されている。ジャワの影絵や中国の京劇などを考えてみればよい。芸能とは、そういうものだったのだ。
しかし、スタニスラフスキーが構築した演技理論と、その影響を受けたいわゆるスタニスラフスキー・システムは、そうした19世紀までの演劇観をまったく変えてしまった。
いまのわたしたちが、サラ・ベルナールの演技を「わざとらしい」と思うなら、それはスタニスラフスキー・システムの影響がおおきい。
古代ギリシアからつづく2500年の西洋演劇の歴史のなかで、わずか100年ほど前に生まれた演出法が、大衆的な舞台芸術のすみずみまで支配したのだ。
舞台上の俳優がわたしたちと同じような口調と立ち居ふるまいをすることで、登場人物に共感しやすかった、というのがその理由のひとつであろう。
また、映画やテレビなどの映像メディアでは、俳優の顔や手がアップになることで、大げさな表情を作る必要がなくなったこともある。
それに対して、スタニスラフスキーが登場するよりも前に成立した世界各地の演劇は、「口調」や「身ぶり」がつねに「型」をともない、その「型」をとおして「意味」を観客に伝えてきた。舞台上で演じられる「型」をとおして、観客はその場面や登場人物の心情を想像する。
たいするスタニスラフスキー流の「リアリズム演劇」では、俳優の、そして観客の「感覚」を通してせりふや身ぶりに意味を見出していくように演技することが求められる。
どちらの演劇も「伝わる」ことを求めている。ただ、そのアプローチのしかたが異なるのである。
[引用文献]
松岡正剛「第1007夜 岩淵達治・早崎えりな『クルト・ヴァイル』」、『松岡正剛の千夜千冊』、2005年(2024年7月15日閲覧)
『ミュージカルの解剖学』
長屋晃一[著]
春秋社[刊]
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長屋晃一
1983年生まれ。愛知県出身。國學院大學文学部卒(考古学)。慶應義塾大学大学院文学研究科にて音楽学を学ぶ。博士課程単位取得退学。修士(芸術学)。現在、立教大学、慶應義塾大学他で非常勤講師。19世紀のイタリア・オペラにおける音楽と演出の関係、オペラ・音楽劇のドラマトゥルギーについて研究を行っている。「ヴェルディにおける音楽の「色合い」:《ドミノの復讐》の検閲をめぐる資料から」(『國學院雑誌』、2023年)、「音楽化される川端康成:歌謡曲からオペラまで」(共著『〈転生〉する川端康成』、2024年)他。また、研究に加えて、舞台やオペラの脚本も手掛けている。オペラ《ハーメルンの笛吹き男》(一柳慧作曲、田尾下哲との共同脚本、2013年)、音楽狂言『寿来爺(SUKURUJI)』(ヴァルター・ギーガー作曲、2015年)他。