ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<「孤独を叫ぶのもロックなら、貴族社会への反抗的態度もロックだ」──歴史ものや伝記作品でロックが果たしている意味とは>
イエス・キリストの最後の7日間を描く《ジーザス・クライスト・スーパースター》に、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯を描く《モーツァルト!》──ミュージカル作品でしばしば見られる「音楽と時代のずれ」。
作品が描く時代には存在しなかった音楽をあえて使う手法はどのような効果を生み出すのか?
オペラや音楽劇の研究を行っている長屋晃一氏の著書『ミュージカルの解剖学』(春秋社)より一部抜粋して紹介する(本記事は第3回)。
※第1回はこちら:ミュージカルは「なぜいきなり歌うのか?」...問いの答えは、意外にもシンプルだった
※第2回はこちら:『レ・ミゼラブル』の楽曲を「歩格」で見てみると...楽譜と歌詞に織り込まれた「キャラクターの心」とは?
◇ ◇ ◇
音楽と時代がずれている、どころかまったく共通しないように思える、そういうジャンルの作品の最初のひとつは《ジーザス・クライスト・スーパースター》(1971)であることはまちがいない。
ロックを用いたミュージカルをロック・ミュージカルと名づけている場合がある。ロックを用いた作品の初期の例に《バイ・バイ・バーディー》(1960)というミュージカルがある。
これは、スターのロック歌手が徴兵されることになり、お別れのキスをする権利をテレビ番組内で募集する、という内容である。しかしながら、これはロックが流行した時代を舞台としている。それに、全編をロックで通すのではなく、あくまでロック歌手のバーディーが歌う「ショー」の機能のなかにとどまっている。
Broadway Center Stage: Bye Bye Birdie | The Kennedy Center
これに対して、全編のテイストとしてロックを用いたのは、《ヘアー》(1967)であったとされている。この作品ではベトナム戦争の反戦メッセージを伝えるために、ヒッピー文化をあらわす音楽としてロックが用いられた。これもやはり同時代の音楽として用いられている。
The Cast of Broadway's "Hair" Performs "Aquarius/Let The Sun Shine In" | Letterman
これにたいして、《ジーザス・クライスト・スーパースター》はまったく異なる。いうまでもなく、ジーザス、すなわちイエス・キリストが生きていたのは2000年前の世界である。
'Gethsemane' Ben Forster | Jesus Christ Superstar - The Shows Must Go On!
そんな時代の音楽をわたしたちは知るよしもないが、作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェバーはおよそイエスと結びつきそうもないロックを選んだ。
イエスが弟子たちを連れて歩きながら教えを説き、修業をしていくスタイルが、ヒッピー文化と重なるところがあったからだろう。また、1960年代から70年代にかけて、ジーザス・ムーヴメントなる運動が起きていた。
(中略)
ある時代には存在しえなかった音楽で、ある時代の物語を語る作品、というのは、そこにギャップがあるほど新鮮味をおびてくる。古典的な物語を、クラシックの「音」で語ることはギャップが少ない。クラシックがそもそも古典だからだ。
それに対して、ロックやヒップホップは非常に新しく映る。第2章でとりあげた《ザ・ウィズ》も、『オズの魔法使い』とさして変わらない古典的キャラクターで構成されていた。新しいのは音楽の側であった。R&Bによる音楽は、もはや古びてしまった物語を新鮮な「現代」の物語へと変える。
しかし、物語の時代設定とのギャップでいえば、《ジーザス・クライスト・スーパースター》の翌年、スティーブン・シュワルツが作詞・作曲し、ボブ・フォッシーが振付をした《ピピン(PIPPIN)》(1972)を忘れるわけにはいかない。
この作品ではまず、オープニングで俳優たち、とくに一人の語り手がわたしたち観客にむかって語りかける「ダイアローグ(ナレーション)」の機能をもったナンバー〈マジック・トゥ・ドゥ〉を歌う。舞台と客席がロックのサウンドを介して同じ時間を共有している。
"Magic To Do" | Watch the West End cast of Pippin perform - The Theatre Cafe
そこから俳優たちは中世のカロリング朝、カール大帝の架空の息子の物語を演じるために、舞台上で着替えていく。中世の物語は、あくまで舞台上の俳優たちが演じているのだ、ということをみせるメタフィクショナルな物語構成で、コンセプト・ミュージカルのひとつに数えられている。
わたしはうかつにも物語の時代設定に対する音楽のギャップの例に《ピピン》をあげてしまったが、このばあい、あくまでロックを歌う現代の若者たちが、中世の物語を演じる、というメタフィクションになる。
だから、こう言いなおすのが適切なのかもしれない、音楽(とそれを演じる若者)に対する演じられる物語の時代設定のギャップが新鮮にうつる作品だと。
時代設定に対する音楽のギャップを考えるうえで、ミヒャエル・クンツェが作詞し、シルヴェスター・リーヴァイが作曲したドイツ語のミュージカル《エリザベート》(1992)と《モーツァルト!》(1999)、あるいはリュック・プラモンドンが脚本・作詞を手がけ、リッカルド・コチャンテが作曲したフランス語のミュージカル《ノートル・ダム・ド・パリ》(1998)、いずれも現在まで人気の高いレパートリーである。
ここでは、音楽ということで《モーツァルト!》について少し触れておきたい。作曲家の伝記をミュージカルにするというのはたいへんに難しい。それをロックで表現した、というところにこの作品に対する新鮮な驚きがあり、いまだに色あせることがない。
MOZART! Das Musical im RAIMUND THEATER - Trailer 2015 - musicalviennaVBW
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはいうまでもなく18世紀の作曲家である。なぜロックでその人生を描くことに説得力が生まれたのだろうか。
劇中で、母を亡くす前後のナンバー〈残酷な人生〉を取り上げてみよう。このナンバーの主旋律の前には、2015年の再演で、前置きとなる導入部分が追加された。その導入では、モーツァルトの《ピアノ協奏曲第20番ニ短調》を中心とし、《ピアノ・ソナタ第3番変ロ長調》と《ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調》が芝居の間にはさまれる。
悲劇的な切迫感をともなった《ピアノ協奏曲第20 番》第1楽章のシンコペーションにのせて、ヴォルフガングが「7 人しか客が来なかった」と嘆く。母アンナ・マリアも客席についている。今度は幼少期の姿をしたヴォルフガングが《ピアノ・ソナタ第3番》を弾いている。客は4人になっている。
ふたたび《ピアノ協奏曲第20番》にあわせて「4人」であることを嘆く。そして母に向かって自分の音楽はいずれ理解される、と強がってみせる。しかし、《ピアノ・ソナタ第12番》を弾くと、客はひとりもいなくなる。そして、母も死んでおり、ヴォルフガングは無理解と孤独に打ちのめされ、〈残酷な人生〉を歌いはじめる。
このナンバーの機能は「モノローグ」で、重いビートとベースの響きが印象的なロックだが、ひじょうに細かな変化をする。その細部にはふみこまないでおく。
このナンバーで確認しておきたかったことは、まずはモーツァルトの「クラシック」の作品にのせた「強がり」があったあとで、「ロック」によってモノローグの孤独と絶望を歌う、ということだ。ロックの意味はなにか。
孤独なモーツァルトが変化するのは、〈僕は特別〉だ。1999年の初演ではなく、2001年のハンブルクでの再演と2015年のウィーンでの再演で〈ザウシュヴァンツ・フォン・ドレッケン〉から差し替えられたナンバーである。
ここでヴォルフガングはグランド・ピアノの上に乗ってエレキギターを奏でながら(つまりナンバーの機能は「ショー」だ)、自分をしばりつけようとするアルコ伯爵にむかって悪態をつく。この悪態は、モーツァルトが手紙で好んで書いたスカトロジカルなジョークがもとになっている。
そして、ヴォルフガングの歌唱に、民衆が手を叩いてリズムをとりながら、この「即興ライブ」を楽しんでいる。
〈僕は特別〉は、内面の「孤独」を自分と自分の分身にぶつけるそれまでのナンバーに対して、民衆の同意(つまり「ユニティ」の機能)を得た、新たな人生の局面が開けた瞬間をあらわしている。伯爵に悪態をついて怒らせる以上に、ヴォルフガングが民衆の作曲家なのだと自覚する。
これ以降のナンバーで、モーツァルトが民衆の「ユニティ(※)」をともなうことはない
(※)登場人物がいっせいに同じ歌とダンスを行うこと。全体で同じ歌詞、同じ旋律、同じダンスを表現することで、舞台上の「世界観のあらわれ」ないし、意思や思想の「共有」か「同意」をあらわす。(本書第3章で詳しく説明されている)
それでは、この《モーツァルト!》がロック・ミュージカルとして成功し、受けいれられたのはなぜか。それはロックという音楽の形式が、つねに権力や権威にたいするアンチテーゼとして存在してきたからだろう。孤独を叫ぶのもロックなら、貴族社会への反抗的態度もロックだ。
既存の社会構造のなかにいられない人間という天才ヴォルフガングをあらわすのに、ロックはじつにふさわしい形式だった。
※第1回はこちら:ミュージカルは「なぜいきなり歌うのか?」...問いの答えは、意外にもシンプルだった
※第2回はこちら:『レ・ミゼラブル』の楽曲を「歩格」で見てみると...楽譜と歌詞に織り込まれた「キャラクターの心」とは?
『ミュージカルの解剖学』
長屋晃一[著]
春秋社[刊]
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長屋晃一
1983年生まれ。愛知県出身。國學院大學文学部卒(考古学)。慶應義塾大学大学院文学研究科にて音楽学を学ぶ。博士課程単位取得退学。修士(芸術学)。現在、立教大学、慶應義塾大学他で非常勤講師。19世紀のイタリア・オペラにおける音楽と演出の関係、オペラ・音楽劇のドラマトゥルギーについて研究を行っている。「ヴェルディにおける音楽の「色合い」:《ドミノの復讐》の検閲をめぐる資料から」(『國學院雑誌』、2023年)、「音楽化される川端康成:歌謡曲からオペラまで」(共著『〈転生〉する川端康成』、2024年)他。また、研究に加えて、舞台やオペラの脚本も手掛けている。オペラ《ハーメルンの笛吹き男》(一柳慧作曲、田尾下哲との共同脚本、2013年)、音楽狂言『寿来爺(SUKURUJI)』(ヴァルター・ギーガー作曲、2015年)他。
<「孤独を叫ぶのもロックなら、貴族社会への反抗的態度もロックだ」──歴史ものや伝記作品でロックが果たしている意味とは>
イエス・キリストの最後の7日間を描く《ジーザス・クライスト・スーパースター》に、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯を描く《モーツァルト!》──ミュージカル作品でしばしば見られる「音楽と時代のずれ」。
作品が描く時代には存在しなかった音楽をあえて使う手法はどのような効果を生み出すのか?
オペラや音楽劇の研究を行っている長屋晃一氏の著書『ミュージカルの解剖学』(春秋社)より一部抜粋して紹介する(本記事は第3回)。
※第1回はこちら:ミュージカルは「なぜいきなり歌うのか?」...問いの答えは、意外にもシンプルだった
※第2回はこちら:『レ・ミゼラブル』の楽曲を「歩格」で見てみると...楽譜と歌詞に織り込まれた「キャラクターの心」とは?
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音楽と時代がずれている、どころかまったく共通しないように思える、そういうジャンルの作品の最初のひとつは《ジーザス・クライスト・スーパースター》(1971)であることはまちがいない。
ロックを用いたミュージカルをロック・ミュージカルと名づけている場合がある。ロックを用いた作品の初期の例に《バイ・バイ・バーディー》(1960)というミュージカルがある。
これは、スターのロック歌手が徴兵されることになり、お別れのキスをする権利をテレビ番組内で募集する、という内容である。しかしながら、これはロックが流行した時代を舞台としている。それに、全編をロックで通すのではなく、あくまでロック歌手のバーディーが歌う「ショー」の機能のなかにとどまっている。
Broadway Center Stage: Bye Bye Birdie | The Kennedy Center
これに対して、全編のテイストとしてロックを用いたのは、《ヘアー》(1967)であったとされている。この作品ではベトナム戦争の反戦メッセージを伝えるために、ヒッピー文化をあらわす音楽としてロックが用いられた。これもやはり同時代の音楽として用いられている。
The Cast of Broadway's "Hair" Performs "Aquarius/Let The Sun Shine In" | Letterman
これにたいして、《ジーザス・クライスト・スーパースター》はまったく異なる。いうまでもなく、ジーザス、すなわちイエス・キリストが生きていたのは2000年前の世界である。
'Gethsemane' Ben Forster | Jesus Christ Superstar - The Shows Must Go On!
そんな時代の音楽をわたしたちは知るよしもないが、作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェバーはおよそイエスと結びつきそうもないロックを選んだ。
イエスが弟子たちを連れて歩きながら教えを説き、修業をしていくスタイルが、ヒッピー文化と重なるところがあったからだろう。また、1960年代から70年代にかけて、ジーザス・ムーヴメントなる運動が起きていた。
(中略)
ある時代には存在しえなかった音楽で、ある時代の物語を語る作品、というのは、そこにギャップがあるほど新鮮味をおびてくる。古典的な物語を、クラシックの「音」で語ることはギャップが少ない。クラシックがそもそも古典だからだ。
それに対して、ロックやヒップホップは非常に新しく映る。第2章でとりあげた《ザ・ウィズ》も、『オズの魔法使い』とさして変わらない古典的キャラクターで構成されていた。新しいのは音楽の側であった。R&Bによる音楽は、もはや古びてしまった物語を新鮮な「現代」の物語へと変える。
しかし、物語の時代設定とのギャップでいえば、《ジーザス・クライスト・スーパースター》の翌年、スティーブン・シュワルツが作詞・作曲し、ボブ・フォッシーが振付をした《ピピン(PIPPIN)》(1972)を忘れるわけにはいかない。
この作品ではまず、オープニングで俳優たち、とくに一人の語り手がわたしたち観客にむかって語りかける「ダイアローグ(ナレーション)」の機能をもったナンバー〈マジック・トゥ・ドゥ〉を歌う。舞台と客席がロックのサウンドを介して同じ時間を共有している。
"Magic To Do" | Watch the West End cast of Pippin perform - The Theatre Cafe
そこから俳優たちは中世のカロリング朝、カール大帝の架空の息子の物語を演じるために、舞台上で着替えていく。中世の物語は、あくまで舞台上の俳優たちが演じているのだ、ということをみせるメタフィクショナルな物語構成で、コンセプト・ミュージカルのひとつに数えられている。
わたしはうかつにも物語の時代設定に対する音楽のギャップの例に《ピピン》をあげてしまったが、このばあい、あくまでロックを歌う現代の若者たちが、中世の物語を演じる、というメタフィクションになる。
だから、こう言いなおすのが適切なのかもしれない、音楽(とそれを演じる若者)に対する演じられる物語の時代設定のギャップが新鮮にうつる作品だと。
時代設定に対する音楽のギャップを考えるうえで、ミヒャエル・クンツェが作詞し、シルヴェスター・リーヴァイが作曲したドイツ語のミュージカル《エリザベート》(1992)と《モーツァルト!》(1999)、あるいはリュック・プラモンドンが脚本・作詞を手がけ、リッカルド・コチャンテが作曲したフランス語のミュージカル《ノートル・ダム・ド・パリ》(1998)、いずれも現在まで人気の高いレパートリーである。
ここでは、音楽ということで《モーツァルト!》について少し触れておきたい。作曲家の伝記をミュージカルにするというのはたいへんに難しい。それをロックで表現した、というところにこの作品に対する新鮮な驚きがあり、いまだに色あせることがない。
MOZART! Das Musical im RAIMUND THEATER - Trailer 2015 - musicalviennaVBW
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはいうまでもなく18世紀の作曲家である。なぜロックでその人生を描くことに説得力が生まれたのだろうか。
劇中で、母を亡くす前後のナンバー〈残酷な人生〉を取り上げてみよう。このナンバーの主旋律の前には、2015年の再演で、前置きとなる導入部分が追加された。その導入では、モーツァルトの《ピアノ協奏曲第20番ニ短調》を中心とし、《ピアノ・ソナタ第3番変ロ長調》と《ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調》が芝居の間にはさまれる。
悲劇的な切迫感をともなった《ピアノ協奏曲第20 番》第1楽章のシンコペーションにのせて、ヴォルフガングが「7 人しか客が来なかった」と嘆く。母アンナ・マリアも客席についている。今度は幼少期の姿をしたヴォルフガングが《ピアノ・ソナタ第3番》を弾いている。客は4人になっている。
ふたたび《ピアノ協奏曲第20番》にあわせて「4人」であることを嘆く。そして母に向かって自分の音楽はいずれ理解される、と強がってみせる。しかし、《ピアノ・ソナタ第12番》を弾くと、客はひとりもいなくなる。そして、母も死んでおり、ヴォルフガングは無理解と孤独に打ちのめされ、〈残酷な人生〉を歌いはじめる。
このナンバーの機能は「モノローグ」で、重いビートとベースの響きが印象的なロックだが、ひじょうに細かな変化をする。その細部にはふみこまないでおく。
このナンバーで確認しておきたかったことは、まずはモーツァルトの「クラシック」の作品にのせた「強がり」があったあとで、「ロック」によってモノローグの孤独と絶望を歌う、ということだ。ロックの意味はなにか。
孤独なモーツァルトが変化するのは、〈僕は特別〉だ。1999年の初演ではなく、2001年のハンブルクでの再演と2015年のウィーンでの再演で〈ザウシュヴァンツ・フォン・ドレッケン〉から差し替えられたナンバーである。
ここでヴォルフガングはグランド・ピアノの上に乗ってエレキギターを奏でながら(つまりナンバーの機能は「ショー」だ)、自分をしばりつけようとするアルコ伯爵にむかって悪態をつく。この悪態は、モーツァルトが手紙で好んで書いたスカトロジカルなジョークがもとになっている。
そして、ヴォルフガングの歌唱に、民衆が手を叩いてリズムをとりながら、この「即興ライブ」を楽しんでいる。
〈僕は特別〉は、内面の「孤独」を自分と自分の分身にぶつけるそれまでのナンバーに対して、民衆の同意(つまり「ユニティ」の機能)を得た、新たな人生の局面が開けた瞬間をあらわしている。伯爵に悪態をついて怒らせる以上に、ヴォルフガングが民衆の作曲家なのだと自覚する。
これ以降のナンバーで、モーツァルトが民衆の「ユニティ(※)」をともなうことはない
(※)登場人物がいっせいに同じ歌とダンスを行うこと。全体で同じ歌詞、同じ旋律、同じダンスを表現することで、舞台上の「世界観のあらわれ」ないし、意思や思想の「共有」か「同意」をあらわす。(本書第3章で詳しく説明されている)
それでは、この《モーツァルト!》がロック・ミュージカルとして成功し、受けいれられたのはなぜか。それはロックという音楽の形式が、つねに権力や権威にたいするアンチテーゼとして存在してきたからだろう。孤独を叫ぶのもロックなら、貴族社会への反抗的態度もロックだ。
既存の社会構造のなかにいられない人間という天才ヴォルフガングをあらわすのに、ロックはじつにふさわしい形式だった。
※第1回はこちら:ミュージカルは「なぜいきなり歌うのか?」...問いの答えは、意外にもシンプルだった
※第2回はこちら:『レ・ミゼラブル』の楽曲を「歩格」で見てみると...楽譜と歌詞に織り込まれた「キャラクターの心」とは?
『ミュージカルの解剖学』
長屋晃一[著]
春秋社[刊]
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長屋晃一
1983年生まれ。愛知県出身。國學院大學文学部卒(考古学)。慶應義塾大学大学院文学研究科にて音楽学を学ぶ。博士課程単位取得退学。修士(芸術学)。現在、立教大学、慶應義塾大学他で非常勤講師。19世紀のイタリア・オペラにおける音楽と演出の関係、オペラ・音楽劇のドラマトゥルギーについて研究を行っている。「ヴェルディにおける音楽の「色合い」:《ドミノの復讐》の検閲をめぐる資料から」(『國學院雑誌』、2023年)、「音楽化される川端康成:歌謡曲からオペラまで」(共著『〈転生〉する川端康成』、2024年)他。また、研究に加えて、舞台やオペラの脚本も手掛けている。オペラ《ハーメルンの笛吹き男》(一柳慧作曲、田尾下哲との共同脚本、2013年)、音楽狂言『寿来爺(SUKURUJI)』(ヴァルター・ギーガー作曲、2015年)他。