ジョナサン・オルター(元本誌コラムニスト)
<中国との国交正常化から中東和平、ソ連への対応まで、第39代米大統領の外交政策はこれまで評価が低すぎた?>
大半の追悼記事からは伝わってこないが、昨年12月29日に100歳で死去したジミー・カーター元米大統領は、外交政策において先見の明に満ちた指導者だった。
彼の功績は見過ごされがちだが、その影響は重大だ。
ベトナム戦争での徴兵忌避者の恩赦、パナマ運河の返還条約の批准、イスラエル・エジプトの平和条約につながるキャンプデービッド合意の仲介、中国との国交正常化、歴史的な人権政策、旧ソ連のアフガニスタン侵攻への対応による冷戦勝利への足固め。
象徴的な失敗とされる在イラン米大使館占拠事件での人質救出作戦の中止でさえ、実際は大失態とは言えない。
では、カーターの外交政策はなぜこれほど評価が低いのか。理由は2つある。
第1に、彼は非介入主義の最高司令官だった。カーター政権時代は第3代大統領のトマス・ジェファソン以降で唯一、戦場での銃撃も兵士の死傷者もゼロ。こうした平和偏重と大統領らしさをアピールする演出不足のせいで弱い指導者のイメージが生まれた。
第2の要因は、ロナルド・レーガン元大統領を含む保守派による組織的な「弱腰」キャンペーンだ。
イスラエル、エジプトの首脳とキャンプ・デービッド合意を発表(78年9月) ARNIE SACHSーCNPーSIPA USAーREUTERS
カーターは1977年の大統領就任初日に最初の目立たない功績を残した。
徴兵忌避のためカナダなどに逃れた者への全面的な恩赦を発令したのだ。ベトナム戦争終結から2年足らずでの恩赦は長引く「傷」を癒やすための大胆な決断だったが、激しい非難を浴びた。前任のジェラルド・フォードも大統領選でカーターに敗れた後のレームダック期間中に恩赦を与えるよう助言されたが、拒否したほどだ。
カーターはたとえ政治的に不利になっても、常に強い義務感と責任感に基づいて行動した。
パナマ運河の返還条約の批准を米議会に認めさせたのも、その一例だ。76年大統領選の共和党指名獲得レースでは、パナマ運河の返還反対を掲げたカリフォルニア州知事のレーガンが現職のフォードを脅かす支持を集めた。
カーターも条約の批准を目指すのは2期目まで待つべきだと助言されていたが、勇気と政治的手腕を駆使して正しい判断を下した。
中東和平でも同様に、多大な政治的リスクを取った。78年9月、イスラエルとエジプトの指導者をアメリカに招き、極秘裏に和平交渉を取り持ったのだ。キャンプデービッドでの13日間の交渉中に両国首脳は何度も怒り、席を立って帰国すると脅したが、カーターの驚異的な粘り強さによって、和平の枠組みを定める2つの合意に署名した。
鄧小平とホワイトハウスで(79年1月) GLASSHOUSE IMAGES/AFLO
だが、彼らの帰国から程なくして合意は崩れ去った。すると半年後、カーターは側近の反対を押し切ってエジプトとイスラエルを訪問して和平の枠組みを再構築。79年3月26日、両国の平和条約への署名が実現した。
キャンプデービッド合意は、第2次大戦終結以降で最も長続きした外交的成果となった。「彼の中東での成果は、どの歴代大統領もなし得なかった偉業だ」と、カーターに助言していたアベレル・ハリマン米外交官は語る。
中国の急成長の契機に
カーターの功績はアジアにも及んだ。72年に中国への扉を開いたのはリチャード・ニクソン大統領だったが、国交正常化によってその扉を実際にくぐったのはカーターだ。
これは必然的な成り行きではなかった。右派の圧力を受けたニクソンとフォードは実現不可能な「二つの中国」を掲げ、台湾との断交と中国の完全な外交承認に踏み切れなかった。それを79年に実現させたのがカーターだった。
カーターが同年、中国の最高指導者・鄧小平をワシントンに招いた後、鄧は私有財産を合法化した。一連の改革開放政策を機に中国は急速な経済成長を果たし、米中関係は現在、善くも悪くもグローバル経済の基盤となっている。
ただし、カーターは在任中は中国国内の弾圧に対して声を上げなかった。名高い人権イニシアチブは一貫して発揮されたわけではなく、冷戦下の優先事項と衝突した際はしばしば偽善的だった。
第2次戦略兵器制限条約の調印を前にブレジネフ書記長(左から2人目)と(79年6月、ウィーン) AP/AFLO
カーターが人権問題を初めて前面に押し出したのは76年の大統領選の最中だった。フォード政権は当時、世界各地で起きている人権問題を無視していると非難されており、カーター政権で国務次官補を務めることになる側近のリチャード・ホルブルックが格好の争点になると提案した。
カーターは48年の世界人権宣言を以前から高く評価しており、アメリカの公民権運動を世界的な動きにしようと決意していた。
この外交姿勢が冷戦に与えた影響の重要性は過小評価されている。反体制派の劇作家でチェコスロバキア大統領に就任したバツラフ・ハベルは、カーターの人権重視が刑務所に収監されていた自分を鼓舞し、ソ連圏の「自信」をくじいたと語る。
一方で、カーターは米ソ関係に旧来のハードパワーも用いた。国防費を大幅に増額し、国防総省はステルス戦略爆撃機B2スピリットやGPSなどの技術を開発して、後にレーガン政権がソ連を威嚇する際に役立った。
79年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻した後、カーターは翌80年1月の一般教書演説で「カーター・ドクトリン」を発表。石油の供給が妨害された場合はペルシャ湾岸で武力行使も辞さないと威嚇した。一方で対ソ連の穀物禁輸は効果がなく、モスクワ夏季五輪のボイコットは当初こそ支持を得たが、すぐに政治的な負担となった。
ソ連のアフガニスタン侵攻を予測し切れなかったことは甘かったという指摘も不当な評価だ。カーターはソ連の侵攻前から、イスラム武装勢力のムジャヒディンにひそかに武器を供給し、ソ連が支援する政府と戦わせていた。
カーターの国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーは後に、「ソビエトのベトナム」をつくりソ連を弱体化させようとしたと認めた。その狙いは成功したが、20年後にタリバンや、アルカイダの創設者ウサマ・ビン・ラディンという形で跳ね返ってきた。
環境問題への先見の明
カーターが注力した第2次戦略兵器制限条約(SALT II)は調印後に米上院で批准が否決されたが、後の米ソの軍備管理を画期的に前進させる土台となった。
80年12月、退任を控えたカーターは、ポーランドで民主化運動を主導していた自主管理労組「連帯」のレフ・ワレサ議長の支持を表明。やがて東ヨーロッパ全域で、ソ連が支援する政権への抵抗運動が連鎖的に発生した。
ワレサは後に、カーターがソ連にポーランドへ侵攻しないよう警告したことが、闘争において重要な瞬間だったと語っている。
カーターの外交政策にとって最大の挫折はイランだが、そもそも79年のイラン革命を彼が阻止できる可能性はほとんどなかった。景気後退と米民主党の分裂に加え、米大使館占拠事件で人質の解放を実現できなかったことが、大統領再選を絶望的にした。
2016年に私が伝記執筆のために行ったインタビューで彼は、イランを爆撃して強硬姿勢を見せていたら再選できたかもしれないが、戦闘で人質と数千のイラン人が死亡した可能性が高いと語った。
カーターはホワイトハウスの屋根に太陽光パネルを設置しただけでなく(レーガンが撤去した)、アメリカ初の包括的エネルギー法案と14の主要な環境法案に署名し、外国産石油への依存から脱却する道筋を描いた。2期目を迎えていたら、当時の科学者が「二酸化炭素汚染」と呼んでいた不明瞭な問題に対処する計画も立てていた。
これも彼の政治的な悲劇の1つだ。
カーターがアメリカを象徴する大統領の1人であることに異論はないだろう。しかし、彼の死を機に、「悪い大統領」や「偉大な元大統領」という安易な分類は終わりにしよう。
大統領を退いた後の無私無欲の姿勢や人道主義的な功績は称賛に値するが、在任中は世界を形作る上ではるかに大きな影響力を持っていた。正当に評価されていない高潔で先見の明のあるこの人物を、今こそ再評価する時だ。
(筆者は自書にカーターの伝記『ヒズ・ベリー・ベスト』がある)
From Foreign Policy Magazine
<中国との国交正常化から中東和平、ソ連への対応まで、第39代米大統領の外交政策はこれまで評価が低すぎた?>
大半の追悼記事からは伝わってこないが、昨年12月29日に100歳で死去したジミー・カーター元米大統領は、外交政策において先見の明に満ちた指導者だった。
彼の功績は見過ごされがちだが、その影響は重大だ。
ベトナム戦争での徴兵忌避者の恩赦、パナマ運河の返還条約の批准、イスラエル・エジプトの平和条約につながるキャンプデービッド合意の仲介、中国との国交正常化、歴史的な人権政策、旧ソ連のアフガニスタン侵攻への対応による冷戦勝利への足固め。
象徴的な失敗とされる在イラン米大使館占拠事件での人質救出作戦の中止でさえ、実際は大失態とは言えない。
では、カーターの外交政策はなぜこれほど評価が低いのか。理由は2つある。
第1に、彼は非介入主義の最高司令官だった。カーター政権時代は第3代大統領のトマス・ジェファソン以降で唯一、戦場での銃撃も兵士の死傷者もゼロ。こうした平和偏重と大統領らしさをアピールする演出不足のせいで弱い指導者のイメージが生まれた。
第2の要因は、ロナルド・レーガン元大統領を含む保守派による組織的な「弱腰」キャンペーンだ。
イスラエル、エジプトの首脳とキャンプ・デービッド合意を発表(78年9月) ARNIE SACHSーCNPーSIPA USAーREUTERS
カーターは1977年の大統領就任初日に最初の目立たない功績を残した。
徴兵忌避のためカナダなどに逃れた者への全面的な恩赦を発令したのだ。ベトナム戦争終結から2年足らずでの恩赦は長引く「傷」を癒やすための大胆な決断だったが、激しい非難を浴びた。前任のジェラルド・フォードも大統領選でカーターに敗れた後のレームダック期間中に恩赦を与えるよう助言されたが、拒否したほどだ。
カーターはたとえ政治的に不利になっても、常に強い義務感と責任感に基づいて行動した。
パナマ運河の返還条約の批准を米議会に認めさせたのも、その一例だ。76年大統領選の共和党指名獲得レースでは、パナマ運河の返還反対を掲げたカリフォルニア州知事のレーガンが現職のフォードを脅かす支持を集めた。
カーターも条約の批准を目指すのは2期目まで待つべきだと助言されていたが、勇気と政治的手腕を駆使して正しい判断を下した。
中東和平でも同様に、多大な政治的リスクを取った。78年9月、イスラエルとエジプトの指導者をアメリカに招き、極秘裏に和平交渉を取り持ったのだ。キャンプデービッドでの13日間の交渉中に両国首脳は何度も怒り、席を立って帰国すると脅したが、カーターの驚異的な粘り強さによって、和平の枠組みを定める2つの合意に署名した。
鄧小平とホワイトハウスで(79年1月) GLASSHOUSE IMAGES/AFLO
だが、彼らの帰国から程なくして合意は崩れ去った。すると半年後、カーターは側近の反対を押し切ってエジプトとイスラエルを訪問して和平の枠組みを再構築。79年3月26日、両国の平和条約への署名が実現した。
キャンプデービッド合意は、第2次大戦終結以降で最も長続きした外交的成果となった。「彼の中東での成果は、どの歴代大統領もなし得なかった偉業だ」と、カーターに助言していたアベレル・ハリマン米外交官は語る。
中国の急成長の契機に
カーターの功績はアジアにも及んだ。72年に中国への扉を開いたのはリチャード・ニクソン大統領だったが、国交正常化によってその扉を実際にくぐったのはカーターだ。
これは必然的な成り行きではなかった。右派の圧力を受けたニクソンとフォードは実現不可能な「二つの中国」を掲げ、台湾との断交と中国の完全な外交承認に踏み切れなかった。それを79年に実現させたのがカーターだった。
カーターが同年、中国の最高指導者・鄧小平をワシントンに招いた後、鄧は私有財産を合法化した。一連の改革開放政策を機に中国は急速な経済成長を果たし、米中関係は現在、善くも悪くもグローバル経済の基盤となっている。
ただし、カーターは在任中は中国国内の弾圧に対して声を上げなかった。名高い人権イニシアチブは一貫して発揮されたわけではなく、冷戦下の優先事項と衝突した際はしばしば偽善的だった。
第2次戦略兵器制限条約の調印を前にブレジネフ書記長(左から2人目)と(79年6月、ウィーン) AP/AFLO
カーターが人権問題を初めて前面に押し出したのは76年の大統領選の最中だった。フォード政権は当時、世界各地で起きている人権問題を無視していると非難されており、カーター政権で国務次官補を務めることになる側近のリチャード・ホルブルックが格好の争点になると提案した。
カーターは48年の世界人権宣言を以前から高く評価しており、アメリカの公民権運動を世界的な動きにしようと決意していた。
この外交姿勢が冷戦に与えた影響の重要性は過小評価されている。反体制派の劇作家でチェコスロバキア大統領に就任したバツラフ・ハベルは、カーターの人権重視が刑務所に収監されていた自分を鼓舞し、ソ連圏の「自信」をくじいたと語る。
一方で、カーターは米ソ関係に旧来のハードパワーも用いた。国防費を大幅に増額し、国防総省はステルス戦略爆撃機B2スピリットやGPSなどの技術を開発して、後にレーガン政権がソ連を威嚇する際に役立った。
79年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻した後、カーターは翌80年1月の一般教書演説で「カーター・ドクトリン」を発表。石油の供給が妨害された場合はペルシャ湾岸で武力行使も辞さないと威嚇した。一方で対ソ連の穀物禁輸は効果がなく、モスクワ夏季五輪のボイコットは当初こそ支持を得たが、すぐに政治的な負担となった。
ソ連のアフガニスタン侵攻を予測し切れなかったことは甘かったという指摘も不当な評価だ。カーターはソ連の侵攻前から、イスラム武装勢力のムジャヒディンにひそかに武器を供給し、ソ連が支援する政府と戦わせていた。
カーターの国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたズビグニュー・ブレジンスキーは後に、「ソビエトのベトナム」をつくりソ連を弱体化させようとしたと認めた。その狙いは成功したが、20年後にタリバンや、アルカイダの創設者ウサマ・ビン・ラディンという形で跳ね返ってきた。
環境問題への先見の明
カーターが注力した第2次戦略兵器制限条約(SALT II)は調印後に米上院で批准が否決されたが、後の米ソの軍備管理を画期的に前進させる土台となった。
80年12月、退任を控えたカーターは、ポーランドで民主化運動を主導していた自主管理労組「連帯」のレフ・ワレサ議長の支持を表明。やがて東ヨーロッパ全域で、ソ連が支援する政権への抵抗運動が連鎖的に発生した。
ワレサは後に、カーターがソ連にポーランドへ侵攻しないよう警告したことが、闘争において重要な瞬間だったと語っている。
カーターの外交政策にとって最大の挫折はイランだが、そもそも79年のイラン革命を彼が阻止できる可能性はほとんどなかった。景気後退と米民主党の分裂に加え、米大使館占拠事件で人質の解放を実現できなかったことが、大統領再選を絶望的にした。
2016年に私が伝記執筆のために行ったインタビューで彼は、イランを爆撃して強硬姿勢を見せていたら再選できたかもしれないが、戦闘で人質と数千のイラン人が死亡した可能性が高いと語った。
カーターはホワイトハウスの屋根に太陽光パネルを設置しただけでなく(レーガンが撤去した)、アメリカ初の包括的エネルギー法案と14の主要な環境法案に署名し、外国産石油への依存から脱却する道筋を描いた。2期目を迎えていたら、当時の科学者が「二酸化炭素汚染」と呼んでいた不明瞭な問題に対処する計画も立てていた。
これも彼の政治的な悲劇の1つだ。
カーターがアメリカを象徴する大統領の1人であることに異論はないだろう。しかし、彼の死を機に、「悪い大統領」や「偉大な元大統領」という安易な分類は終わりにしよう。
大統領を退いた後の無私無欲の姿勢や人道主義的な功績は称賛に値するが、在任中は世界を形作る上ではるかに大きな影響力を持っていた。正当に評価されていない高潔で先見の明のあるこの人物を、今こそ再評価する時だ。
(筆者は自書にカーターの伝記『ヒズ・ベリー・ベスト』がある)
From Foreign Policy Magazine