アリストス・ジョージャウ(科学担当)
<当時使用されていた容器の残留物分析で、アルコールや体液なども含む複雑な「カクテル」の成分が判明>
謎めいた古代エジプトの「マグカップ」には、やはり幻覚作用のある複雑微妙なカクテルが入っていた。予想はされていたことだが、証拠が見つかったのは初めてだ。
このカップは紀元前2世紀頃のものと推定され、研究者たちはこれについて高度な化学分析を実施。その結果、幻覚作用や薬効のある化学物質、発酵させた液体、人間の血液その他の分泌物、さらに複数の香料を含む「複雑な液状の混合物」が入れられていたことが判明したという。
この研究成果はオンライン学術誌サイエンティフィック・リポーツに発表された。このマグカップがセックス絡みの儀式に使用された可能性も指摘されている。
論文の筆頭著者でトリエステ大学(イタリア)化学・薬学部助教のエンリコ・グレコは本誌に、「古代エジプトの儀式で幻覚作用のある物質が使われていたことが、初めて科学的証拠によって裏付けられた」と述べ、こう続けた。「これまでにも図像や文献に基づく仮説はあったが、向精神薬が使われていた事実を示す物理的証拠が出たのは初めてだ」
調査対象は1984年に米タンパ美術館に寄贈されたコレクションに含まれていたもので、古代エジプトの「ベス神」の頭部をかたどったカップだ。ベス神は歓喜や繁殖、家庭の幸福などの守護神であり、グレコによれば、プトレマイオス朝の頃(紀元前305~紀元前30年)にはその役割が「神託的かつ神秘的」な領域にまで及んでいた。
ベス神の頭部をかたどったカップの残留物の成分が明らかに CASSIDY DELAMARTER
「ベス神のマグカップは、これまで具体的な用途が解明されていなかった。しかし今回の研究では最先端の技術を駆使して、この容器の用途と意味を解明できたと思う」
この容器の用途については従来から多くの仮説が立てられていた。だがいずれも古代エジプトの儀式に関する図像資料や伝承に基づく仮説であり、容器に残存する有機物の痕跡の検証はほとんど行われてこなかった。
プレスリリースでは論文の共同著者でタンパ美術館のギリシャ・ローマ部門キュレーターを務めるブランコ・バンオッペンが、「この容器で何を飲んでいたのか、その目的が日常的なものなのか宗教的なものなのか、あるいは何らかの魔術で使われていたのか。そこは分かっていなかった」と述べている。
今回の研究では容器の内側から採取したサンプルの化学的分析とDNA解析を行い、残留物の成分を調べた。結果、容器に入っていたのはプトレマイオス朝のエジプトで儀式に使われていたとみられる液状の混合物であることが明らかになった。
幸せな気分になる物質
検出された有機物の残滓にはペガヌム・ハルマラ(通称ハルメル。「シリアンルー」とも呼ばれる)という植物の痕跡が含まれていた。ハルメルは薬効および向精神作用を持つ植物で、種子に大量に含まれるハルミンとハルマリンというアルカロイドは幻覚症状を引き起こすことがある。
さらに、向精神作用をもたらす別な植物「ルリスイレン」の痕跡も検出された。この植物には軽い鎮静作用や多幸感と関連づけられるアポルフィンと呼ばれるアルカロイドが含まれる。
「特定された物質は幻覚作用や深い瞑想状態、そしておそらくは多幸感をもたらす可能性が高い」とグレコは述べ、さらにこう続けた。
「これらの物質は当時の儀式が極めて洗練されていて、肉体的・精神的な変容を通じて神とつながろうとする意図の下で行われていたことを示唆している。また天然の素材が人間の精神にもたらす影響を彼らが熟知していたことをも裏付けている」
今回の生化学的な研究は、伝説のベス神とこれらの植物や儀式をつなぐ既存の文献資料を補強するものでもある。研究者によれば、ハルメルという植物の古代名やエジプトでの呼称には「bs」や「bss」の文字が含まれており、それが「ベス(Bes)神の植物」を意味していると解釈することも可能だという。
論文によれば、「ベス神信仰に関連する」儀式の1つは予知夢を見ることに関連していた。また古代エジプトの寺院の壁に刻まれたギリシャ語の落書きという「考古学的証言」によれば、ベス神は「神託を与える者」や「夢を与える者」であったと推測できる。さらに、ベス神とルリスイレンを結び付ける図像学的な証拠もあるという。
膣からの分泌物の痕跡も
検査した古代のマグカップからは、フルーツ由来の発酵アルコール分を含む液体や、偶然の混入ではなく意図的な添加と思われる人間の体液の痕跡も確認された。
「血液や膣からの分泌物、それに母乳の可能性があるタンパク質も確認された。これらの液体には何らかの象徴的な意味、あるいは儀礼的な意味があったと考えられ、生命や生殖、再生といったテーマに関連していた可能性がある」とグレコは述べた。
ちなみに、香料にはハチミツやゴマ、松の実、リコリスやブドウなどが含まれており、古代エジプトの神話、おそらくは生殖に関わる神話を何らかの形で儀礼的に再現する目的で加えられた可能性が高いという。
「今回の研究で、ベス神のマグカップに単なる装飾物や実用品以上の意味があることが分かった。こうした容器は複雑な儀式で使われ、極めて重要な役割を果たしていた」とグレコは考える。「その内容物から推定すると、この容器は意識の変容や生殖、予言に関わる儀式で用いられ、向精神性の飲料を作ったり飲んだりするために使われていたと考えられる」
古代エジプトで行われていた儀式の実態が明らかになっただけではない、とグレコは言う。あのベス神が「神秘的変容を具現化」する神であることも分かったのだ。
<当時使用されていた容器の残留物分析で、アルコールや体液なども含む複雑な「カクテル」の成分が判明>
謎めいた古代エジプトの「マグカップ」には、やはり幻覚作用のある複雑微妙なカクテルが入っていた。予想はされていたことだが、証拠が見つかったのは初めてだ。
このカップは紀元前2世紀頃のものと推定され、研究者たちはこれについて高度な化学分析を実施。その結果、幻覚作用や薬効のある化学物質、発酵させた液体、人間の血液その他の分泌物、さらに複数の香料を含む「複雑な液状の混合物」が入れられていたことが判明したという。
この研究成果はオンライン学術誌サイエンティフィック・リポーツに発表された。このマグカップがセックス絡みの儀式に使用された可能性も指摘されている。
論文の筆頭著者でトリエステ大学(イタリア)化学・薬学部助教のエンリコ・グレコは本誌に、「古代エジプトの儀式で幻覚作用のある物質が使われていたことが、初めて科学的証拠によって裏付けられた」と述べ、こう続けた。「これまでにも図像や文献に基づく仮説はあったが、向精神薬が使われていた事実を示す物理的証拠が出たのは初めてだ」
調査対象は1984年に米タンパ美術館に寄贈されたコレクションに含まれていたもので、古代エジプトの「ベス神」の頭部をかたどったカップだ。ベス神は歓喜や繁殖、家庭の幸福などの守護神であり、グレコによれば、プトレマイオス朝の頃(紀元前305~紀元前30年)にはその役割が「神託的かつ神秘的」な領域にまで及んでいた。
ベス神の頭部をかたどったカップの残留物の成分が明らかに CASSIDY DELAMARTER
「ベス神のマグカップは、これまで具体的な用途が解明されていなかった。しかし今回の研究では最先端の技術を駆使して、この容器の用途と意味を解明できたと思う」
この容器の用途については従来から多くの仮説が立てられていた。だがいずれも古代エジプトの儀式に関する図像資料や伝承に基づく仮説であり、容器に残存する有機物の痕跡の検証はほとんど行われてこなかった。
プレスリリースでは論文の共同著者でタンパ美術館のギリシャ・ローマ部門キュレーターを務めるブランコ・バンオッペンが、「この容器で何を飲んでいたのか、その目的が日常的なものなのか宗教的なものなのか、あるいは何らかの魔術で使われていたのか。そこは分かっていなかった」と述べている。
今回の研究では容器の内側から採取したサンプルの化学的分析とDNA解析を行い、残留物の成分を調べた。結果、容器に入っていたのはプトレマイオス朝のエジプトで儀式に使われていたとみられる液状の混合物であることが明らかになった。
幸せな気分になる物質
検出された有機物の残滓にはペガヌム・ハルマラ(通称ハルメル。「シリアンルー」とも呼ばれる)という植物の痕跡が含まれていた。ハルメルは薬効および向精神作用を持つ植物で、種子に大量に含まれるハルミンとハルマリンというアルカロイドは幻覚症状を引き起こすことがある。
さらに、向精神作用をもたらす別な植物「ルリスイレン」の痕跡も検出された。この植物には軽い鎮静作用や多幸感と関連づけられるアポルフィンと呼ばれるアルカロイドが含まれる。
「特定された物質は幻覚作用や深い瞑想状態、そしておそらくは多幸感をもたらす可能性が高い」とグレコは述べ、さらにこう続けた。
「これらの物質は当時の儀式が極めて洗練されていて、肉体的・精神的な変容を通じて神とつながろうとする意図の下で行われていたことを示唆している。また天然の素材が人間の精神にもたらす影響を彼らが熟知していたことをも裏付けている」
今回の生化学的な研究は、伝説のベス神とこれらの植物や儀式をつなぐ既存の文献資料を補強するものでもある。研究者によれば、ハルメルという植物の古代名やエジプトでの呼称には「bs」や「bss」の文字が含まれており、それが「ベス(Bes)神の植物」を意味していると解釈することも可能だという。
論文によれば、「ベス神信仰に関連する」儀式の1つは予知夢を見ることに関連していた。また古代エジプトの寺院の壁に刻まれたギリシャ語の落書きという「考古学的証言」によれば、ベス神は「神託を与える者」や「夢を与える者」であったと推測できる。さらに、ベス神とルリスイレンを結び付ける図像学的な証拠もあるという。
膣からの分泌物の痕跡も
検査した古代のマグカップからは、フルーツ由来の発酵アルコール分を含む液体や、偶然の混入ではなく意図的な添加と思われる人間の体液の痕跡も確認された。
「血液や膣からの分泌物、それに母乳の可能性があるタンパク質も確認された。これらの液体には何らかの象徴的な意味、あるいは儀礼的な意味があったと考えられ、生命や生殖、再生といったテーマに関連していた可能性がある」とグレコは述べた。
ちなみに、香料にはハチミツやゴマ、松の実、リコリスやブドウなどが含まれており、古代エジプトの神話、おそらくは生殖に関わる神話を何らかの形で儀礼的に再現する目的で加えられた可能性が高いという。
「今回の研究で、ベス神のマグカップに単なる装飾物や実用品以上の意味があることが分かった。こうした容器は複雑な儀式で使われ、極めて重要な役割を果たしていた」とグレコは考える。「その内容物から推定すると、この容器は意識の変容や生殖、予言に関わる儀式で用いられ、向精神性の飲料を作ったり飲んだりするために使われていたと考えられる」
古代エジプトで行われていた儀式の実態が明らかになっただけではない、とグレコは言う。あのベス神が「神秘的変容を具現化」する神であることも分かったのだ。