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なぜ日本の経済学者は「新型コロナ対策」に大きく貢献できたのか?...「政策研究」と「学術研究」のはざまでの挑戦

ニューズウィーク日本版 2025年1月15日 11時0分

大竹文雄(大阪大学特任教授) アステイオン
<日本経済学会「新型コロナウイルス感染症ワーキンググループ」が果たした役割とは? 『アステイオン』101号の特集「コロナ禍を経済学で検証する」より「感染症対策における日本の経済学(者)」を一部抜粋> 

日本の経済学者の貢献

新型コロナウイルス感染症対策に、日本の経済学者は大きく貢献した。緊急事態宣言の効果検証、緊急事態宣言に関わるシミュレーション研究、新型コロナが消費、教育、労働、健康などに与えた影響についての分析である。

例えば、2020年の夏に新型コロナウイルス感染症の感染拡大が生じた際に、緊急事態宣言は発出されなかった。この背景には、第1回目の緊急事態宣言が人流に与えた影響の効果検証を行なった東京大学大学院教授の渡辺努氏らの研究が新型コロナ対策分科会で内閣官房から報告されたことも影響した可能性がある。

彼らの研究の重要なメッセージは、人々の行動変容が主に引き起こされる原因は、緊急事態宣言のような行動制限よりも感染リスクに関する情報であったということだ。

つまり、行動制限という外生的な理由ではなく、感染情報をもとにした人々の内生的な行動変容が人流低下の中心であるということだった。緊急事態宣言による行動制限がもたらす行動変容も存在したが、感染情報によるものが一番大きいというものだ。

一方で、若年者は情報だけではあまり行動変容をせず、緊急事態宣言の影響が比較的大きかったということも分析されていた。この研究は、人々は得られた情報をもとに合理的に行動を決定するという経済学の想定する人間像とある程度一致したものだった。

これに対し、医療や公衆衛生の専門家は、行動を法的に規制しないと、人は人との接触程度を変えないと想定することが多く、感染対策として行動制限を提言する傾向にあった。その中で、渡辺氏の研究は、行動制限という規制に頼らなくても情報提供が重要な政策手段になることをエビデンスで示したと言える。

有識者会議に参加した経済学者は、日本の経済学者の新型コロナ感染症対策に関する数多くの研究をもとに意見を表明できたので、政策にもある程度反映できた。しかし、そのような体制が日本で構築できたのは、2020年の秋以降である。

第1回目の緊急事態宣言の時点では、日本の経済学者の新型コロナに関する研究の知見は、ほとんど集約されず、誰がどのような研究を行なっているのかさえ、有識者会議のメンバーとなった経済学者にはわからなかった。

医学系の研究者は、研究室単位で多くのスタッフを抱えているので、有識者会議に一人の委員が参加すると、その下で多くの研究者が分析作業にあたる。しかし、社会科学系の研究者は、研究室単位で研究をしているわけでなく、基本的に個人研究を行なっている。そのため、新型コロナ対策に資する経済学の研究を有識者の下にあるチームで推進するということはできなかった。

私自身、専門家会議に参加するようになった際に、何を研究するべきかという政策現場からの研究課題を知ったが、その研究を既に誰かが行なっているのか、あるいは誰に依頼すればできるのかがわからなかった。そこで、2020年度から日本の経済学の研究者が参加する最大の学会である日本経済学会の会長となったタイミングで、私は日本経済学会に新型コロナウイルス感染症ワーキンググループ(以下、コロナWG)を設置した。

日本経済学会コロナWG

私は、2020年7月30日に東京大学大学院教授の岩本康志氏にコロナWGの委員長の就任を依頼して快諾を得た。コロナWGは、岩本氏を委員長、私を副委員長として、一橋大学大学院准教授(当時)の宮川大介、早稲田大学政治経済学術院准教授(当時)の久保田荘、東京大学准教授の川田恵介の三氏に委員に加わってもらい合計5人でスタートした。

WGは岩本氏のリーダーシップで大きな貢献をした。第一に、経済学でコロナを分析した文献のリストをWebサイトで公開した。2020年10月から2022年の頭まで、5回の更新をしながら公開していった。8月から動き始めて、WGとしては急いで公開したいということで、10月に第一版を出して、何度かの更新で翌年2021年5月の段階で、専門論文が129本集まった。

日本経済に関係する研究に絞っていて、日本経済学会の会員中心で、比較的短期間に、それだけの論文が出たということになる。日本経済学会の会員数が約3000人であることを考えると、これまでの大きな経済問題に比べてかなりの論文数だと評価できる。

第二は、2021年に日本経済学会の春季大会(5月)でWGがセッションを企画して発表を行なったことだ。第三に、2021年7月と10月には学会の英語機関誌『The Japanese Economic Review』で特集号を編集して、合計13本の論文を掲載した。

文献リストを作成している最初の頃は、誰がどういうことをやっているのかは、WGメンバーが関心を持って論文や文献を見ている範囲で知っていることにさらに付け足していくという手作業を通じて知っていった。このような活動をWGがした理由は次のとおりである。

まず、経済学の分野では学会がまとまって政策提言をすることは極めてまれなことが理由である。この点は、医学系の学会が臨床のガイドラインを出したりするのとは異なる。新型コロナに関しても学会で統一した政策提言をするということは考えられなかった。

これは、経済学者は政策にあまり関与しないという意味ではない。経済学者は経済政策全般に関与して政策提言を行なっているが、基本的には個人の資格で関与するのが普通だからだ。

その背景には、政策については意見の相違があって、学会として一本化してまとめるのはなかなか難しいということが理由である。意見の相違は価値判断と事実判断が人によって食い違うことから生じている。その上、事実判断の相違でも、社会科学では自然科学、生命科学よりも大きく、ばらつきがあるので、社会科学系の学会が特に論争的な政策に関して提言を一本化してまとめることは非常にまれだった。

基本的には、価値観の相違もあり、経済政策で言えば、所得再分配などは価値観なしでは語れない。そこで、経済学者は価値観と自分の分析をできるだけ峻別するように心掛けていて、価値観と政策の帰結の関係を明確に分析で示して、自分の価値観を含めて意見として論文で主張することはあまりしない。

文献リストの効果として、一番大きかったのは、日本の経済学者が自分の研究と近いテーマの研究を行なっている人の情報を知ることができたということである。

通常、経済学者が、研究情報に関する情報交換をするのは、年2回の学術大会になる。2020年は春と秋に大会があり、秋季大会の申込み締め切りは5月だったので、その年にコロナの研究発表を学会で行なうことは難しかった。そうすると、2021年5月の春季大会で初めて報告されることになる。そのようなスピード感では、コロナ対策に資する研究にはならない。

さらに、2020年は春も秋も学会はオンライン開催になった。直接顔を合わせてインフォーマルな情報交換をする場がなくなったのだ。その二重の意味で、情報共有をする場を積極的につくらないとこういう研究は進まないということだった。

新型コロナに関する優れた研究を日本経済学会の学会誌である『The Japanese Economic Review』に特集号の査読論文として、素早く掲載した影響も大きかった。政策に必要な研究を素早く行なうと、学術的にも評価されるということを、日本の経済学者に示すことができ、政策研究を行なう意欲を高めた。

それだけでなく、国際的にも新型コロナについての情報が求められていたために、特集号の査読論文は、引用数が多くなり、『The Japanese Economic Review』の学術的影響力を示すインパクトファクターを引き上げることに貢献した。これは、政策研究を推進することの価値の高さを学会にも認識させることになった。

学会や研究者が政策研究を行なうことに必ずしも熱心ではないというのは、一般の人には意外かもしれない。研究者が、社会経済の課題解決に貢献したい意欲を持っていないのではない。そのような意欲があったとしても、その課題解決に資する研究を行なうかどうかは別の話である。

通常、学術研究では、新規性、厳密性、正確性が第一に評価される。査読つきの学術雑誌では、そのような観点から論文が評価され掲載が決定される。しかし、新型コロナ対策のような政策研究では、方法論的な新規性や精度の高さではなく、知られた手法で、対策に間に合うスピードが重視され、ある程度の概算レベルでの影響評価ができることが重要である。

一時的には政策的に重要な課題になったとしても、それが学術的に重要な課題となり続けるかどうかはわからない。したがって、政策に資する研究を行なったとしても、それが学術論文として評価されるかどうかには、かなり大きな不確実性がある。

学術研究の中核を担っているのは、若手研究者である。しかし、若手研究者が政策研究を行なったとしても、それが学術論文として評価されなければ、研究者としてのキャリアが獲得できない。また、通常の学術研究と同じように新規性、厳密性、正確性を重視した研究を行なっても、政策研究としては全く役に立たない。

この意味で、日本経済学会のコロナWGが、日本の経済学者のコロナ研究の推進に果たした役割は大きかった。

大竹文雄(Fumio Ohtake)
1961年生まれ。京都大学経済学部卒業。大阪大学大学院経済学研究科博士後期課程退学。博士(経済学)。大阪大学社会経済研究所助教授、同大学院経済学研究科などを経て、現職。専門は労働経済学・行動経済学。著書に『日本の不平等――格差社会の幻想と未来』(日本経済新聞社、サントリー学芸賞)、『競争社会の歩き方 自分の「強み」を見つけるには』(中公新書)、『あなたを変える行動経済学――よりよい意思決定・行動をめざして』(東京書籍)などがある。2020年~2023年、新型インフルエンザ等対策有識者会議・新型コロナウイルス感染症対策分科会委員をつとめた。

 『アステイオン』101号
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]
 

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イベントのお知らせ

アステイオンvol.101トーク「コロナ禍を経済学で検証する」
今回のアステイオントークでは、コロナ禍で果たした経済学の役割を振り返るとともに、経済学の専門知に対する他分野や世間からの信頼、インターネット社会における専門知の立ち位置について検討します。寄稿者から、医療経済学が専門の伊藤由希子氏、新型コロナ有識者会議のメンバーを務めた大竹文雄氏、読者を代表して科学と社会の関係に詳しい横山広美氏の3名をお迎えし、編集委員の土居丈朗氏の進行で予定調和なしのトークを繰り広げる予定です。

◆日時:2025年1月20日(月)16:00~17:30

◆登壇者 ※五十音順
伊藤由希子氏(津田塾大学教授)
大竹文雄氏(大阪大学特任教授)
土居丈朗氏(慶應義塾大学教授、アステイオン編集委員)※進行
横山広美氏(東京大学教授)

◆配信
Zoomウェビナーでの配信を予定しております(無料)。こちらのフォームより参加登録いただきましたら、配信URLが届きますので、当日ご視聴ください。なお、アーカイブ配信は予定しておりません。


◆登壇者略歴
伊藤由希子氏(津田塾大学総合政策学部教授)
1978年神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。米国ブラウン大学経済学博士。東京学芸大学准教授を経て、現職。専門は医療経済学、国際経済学。日本各地の地域医療における病院再編問題に取り組む。内閣府規制改革推進会議「健康・医療・介護」WG専門委員・令和臨調「財政・社会保障部会」主査として社会保障改革に取り組む。

大竹文雄氏(大阪大学感染症総合教育研究拠点特任教授)
1961年生まれ。京都大学経済学部卒業。大阪大学大学院経済学研究科博士後期課程退学。博士(経済学)。大阪大学社会経済研究所助教授、同大学院経済学研究科などを経て、現職。専門は労働経済学・行動経済学。著書に『日本の不平等――格差社会の幻想と未来』(日本経済新聞社、サントリー学芸賞)、『競争社会の歩き方 自分の「強み」を見つけるには』(中公新書)、『あなたを変える行動経済学――よりよい意思決定・行動をめざして』(東京書籍)などがある。2020年~2023年、新型インフルエンザ等対策有識者会議・新型コロナウイルス感染症対策分科会委員をつとめた。

土居丈朗氏(慶應義塾大学経済学部教授、アステイオン編集委員)※進行
1970年生まれ。大阪大学卒業、東京大学大学院博士課程修了。博士(経済学)。東京大学社会科学研究所助手、慶應義塾大学助教授等を経て、現職。専門は財政学、経済政策論など。著書に『地方債改革の経済学』(日本経済新聞出版社、日経・経済図書文化賞、サントリー学芸賞受賞)、『入門財政学(第2版)』 (日本評論社)、『入門公共経済学(第2版)』(日本評論社)、『平成の経済政策はどう決められたか』(中央公論新社)など。

横山広美氏(東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構教授)
1975年生まれ。東京理科大学大学院理工学研究科満期終了。博士(理学)。東京工業大学特別研究員、総合研究大学院大学上席研究員、東京大学大学院理学系研究科准教授を経て、現職。専門は科学コミュニケーション・科学技術政策。著書に『なぜ理系に女性が少ないのか』(幻冬舎)など。



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