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【「べらぼう」が10倍面白くなる!】平賀源内の序文だけじゃない! 蔦重が「吉原細見」にこめた工夫

ニューズウィーク日本版 2025年1月17日 16時50分

ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<出版物で吉原を盛り上げ、吉原とウィンウィンの関係を築く蔦屋重三郎。「吉原細見」で吉原のブランドを引き上げ、版元としても名をあげた蔦重の工夫について解説する>

1月19日に第3回の放送を控え、早くも話題を呼んでいる大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。

「吉原細見」の判型を大きくして1ページの情報量を増やし、一目でわかりやすいレイアウトにしたり、平賀源内以外にも当時の人気作家に序文・跋文を依頼したりなど、ただの吉原のカタログをエンタメとしての魅力あるガイドブックに仕立て上げた蔦屋重三郎。

今回はドラマを楽しむにあたり、知っておくと細かな描写がより味わい深くなる、「吉原細見」における蔦重の功績についてお届けする。

本記事は書籍『Pen Books 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。

◇ ◇ ◇

画期的な遊女の評判記「一目千本」

蔦屋重三郎は、1750(寛延3)年に江戸・吉原に生まれた。両親ともおそらく、吉原に関係する仕事に従事していたと思われる。重三郎は、幼い頃(一説では7歳頃とされる)に喜多川家へと養子に入り、この喜多川家が経営していた商家が「蔦屋」であった。やがて、吉原大門口の五十間道(ごじっけんみち)で茶屋を営んでいた蔦屋次郎兵衛の軒先を間借りして書店を始め、鱗形屋孫兵衛の『吉原細見』の小売・取次となった。吉原出身という境遇は、かなり役に立ったことだろう。

五十間道は吉原大門口の手前にある

『廓費字尽(さとのばかむらむだじづくし)』恋川春町作・画 1783(天明3)年 国立国会図書館蔵:往来物をパロディ化した黄表紙で、部首を揃えた漢字を並べ、その読み方を歌にして教える。漢字のほとんどは創作であり、吉原の遊びや周辺事情にこじつけられる。画像は、版元・蔦重の新吉原大門口の店頭を描いたもの。

1774(安永3)年7月には版元として初めての出版物となる『一目千本(ひとめせんぼん)』を刊行する。挿し花を遊女に見立てるという斬新な趣向の遊女評判記で、浮世絵界ではすでに重鎮の地位にあった北尾重政を起用している点を見ると、鱗形屋の後援があったのだろう。

翌年3月には、『急戯花之名寄(にわかはなのなよせ)』が刊行された。これは『一目千本』と同じく遊女評判記の性格を持つ本だが、3月に行われたこの年の吉原俄(よしわらにわか)(毎年行われる吉原内の余興・即興芝居)での配布物として作られたと思われる。遊女の紋が入った提灯の絵に、遊女の選評が併録されている。

『一目千本』も『急戯花之名寄』も、評判記ではあるが、吉原の遊女全体を網羅しているわけではない。おそらく掲載された遊女や妓楼からの出資によって、贔屓客への土産のために作られたのだろう。吉原の人々からの信頼が厚い蔦重ならでは、といえる。

1775(安永4)年には、吉原細見の圧倒的なシェアを誇っていた鱗形屋が重板事件(無許可で他の版元の本を複製・販売した)に巻き込まれ、吉原細見の刊行ができない状態に陥っていた。その状況に目をつけたのが、蔦重であった。小売取次の蔦重が自ら、吉原細見の版元となったのである。

吉原細見を独占した蔦重の手腕

それまで吉原細見を独占していた版元・鱗形屋の代わりに、1775(安永4)年7月、蔦屋重三郎は版元としては初めてとなる吉原細見『籬の花(まがきのはな)』を刊行した。翌年から復活した鱗形屋版と蔦屋版、2種類の吉原細見がシェアを争うこととなる。鱗形屋は一時の勢いを失いつつあったからか、あるいは吉原で生まれ育ったという蔦重の境遇を活かした吉原関連の情報の質が上回ったからか、次第に蔦屋版が人気を博していった。

その後、1783(天明3)年には、吉原細見の出版は蔦屋版の独占となった。吉原細見自体は年2回、定期的に刊行されており、安定した収入が期待できる商品を独占したことは大きい。さらに、自店の出版目録を付すことで広く宣伝・広告の効果も期待できるつくりとなっていた。

安永年間には吉原細見だけでなく、さまざまな遊女評判記や洒落本、絵本や読本を刊行しているが、その版元の初期に、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)、北尾重政、勝川春章といった当時としては既に重鎮の地位にいるような人気戯作(げさく)者・浮世絵師を起用している。

鱗形屋で活躍していた著者・絵師らを引き継いだともいえるが、同時に、文化人が集まる社交場としても機能していた吉原の本屋・版元という特異なポジションを巧みに利用したのではないだろうか。

実際、天明期に入ってから、狂歌連による歌会の際には、吉原という土地柄を活かして、積極的に茶屋に招き、接待を行っている記録が、狂歌師たちの交友録に残されている。同様のことを、おそらくキャリアの初期から行っていたことだろう。

『吉原細見 五葉松(よしわらさいけん ごようまつ)』朋誠堂喜三二序・四方赤良(大田南畝)跋 1783(天明3)年正月 国立国会図書館蔵:蔦重版の吉原細見『五葉松』には、朋誠堂喜三二の序文に、四方赤良(大田南畝)の跋文、朱楽菅江(あけらかんこう)の狂歌が掲載されている。いずれも初期の蔦重を支えた書き手たちだ。

『Pen Books 蔦屋重三郎とその時代。』
 ペン編集部[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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