ブレンダン・コール(本誌記者)
<ハイブリッド攻撃を繰り出すロシアの工作員。正体がばれて外国で逮捕・収監されても、帰国すればセレブとして持ち上げられ政界への華麗な転身も>
ロシア大統領のウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)は冷戦末期の東ドイツ(当時)で、スパイとして働いていた。
あの頃、スパイは「目立ってはいけない」存在だった。しかしウクライナへの軍事侵攻を始めてからのプーチンは、むしろ自国の工作員をヒーローに仕立てることに熱心なようだ。
昨年8月1日には首都モスクワの空港で、NATO加盟国スロベニアから送還されたアルチョム・ドゥルツェフと妻のアンナを出迎え、大きな花束を渡した。
この夫妻はスロベニアで服役中だったが、多国間スパイ交換の一環で釈放された(同時にロシアの殺し屋1人とアメリカの海兵隊員とジャーナリスト各1人の交換も行われた)。
任務を遂行し切れずに外国で捕まったスパイが、なぜ送還された祖国で歓待されるのか。たぶんプーチンが彼らを英雄に仕立て、表舞台に立たせることで国内外へのPR効果を狙っているからだ。
ロシア出身の歴史家セルゲイ・ラドチェンコ(米ジョンズホプキンス大学高等国際関係大学院教授)に言わせれば、「プーチン体制下でロシアのスパイは新たな尊敬を勝ち得て、今やジェームズ・ボンド並みの輝ける英雄となっている」。
1970年代のアメリカには客観的事実の報道よりも自分の主観で事実を語り出すことに熱心な「ゴンゾー・ジャーナリスト」がいたが、今は(裏の工作だけでなく)自ら公衆の面前にしゃしゃり出て脚光を浴びたがるスパイがいる。
ロシアの元工作員を殺害した容疑で英警察に追われている実業家のルゴボイ(右)も国会議員に MIKHAIL SVETLOV/GETTY IMAGES
いい例が、昨年12月にFBIが任意の事情聴取における虚偽供述の容疑で逮捕したニューヨーク在住でロシア国籍の女性ノマ・ザルビナだ。
彼女は米国内で活動する反プーチン派の集会に「専門家」として頻繁に顔を出し、ロシア連邦の解体とシベリア独立を求める「シベリア合衆国」を支持する発言をSNSで繰り返していたインフルエンサーだが、それは仮の姿で、実は数年前からロシアの連邦保安局(FSB)の指示で動いていたとされる。
あるいはマリア・ブティナの場合。彼女は米共和党支持団体の大会などに出席して有力政治家と接触していたが、2018年に正規の登録なしで外国政府の代理人(つまりスパイ)として活動していた罪で有罪判決を受けた。
しかしスパイ交換でロシアに戻り、今は晴れて国会議員となっている。2006年にロンドンでロシアの元工作員アレクサンドル・リトビネンコを殺害した容疑で英警察に追われている実業家のアンドレイ・ルゴボイも、今は国会議員だ。
前出のラドチェンコによれば、外国で捕まってスパイ交換で祖国に戻ったスパイが華々しく脚光を浴びることなど、ソ連時代には考えられなかった。しかし「今のロシア国民の目には、元スパイという肩書が立派な資産と映るらしい」とラドチェンコは言う。
「任務を果たせなかったスパイも、国に戻ればプロパガンダの片棒を担がされ、運がよければ豪勢な暮らしもできる。そこがソ連時代とは決定的に違う」
ラドチェンコは「外国で正体を暴かれた工作員がロシアに戻って公的な役職に就いた例など、過去には聞いたことがない」とした上で、こうも言った。
「今はロシアでもイメージやプロパガンダが重視される時代。プーチンも率先して国民向けの心理作戦に関与している」
下っ端のスパイさえ美化
セレブ系元スパイの代表格はアンナ・チャップマンだ。彼女は10年にアメリカで下っ端のスパイとして逮捕されたが、今はロシアでテレビ司会者やモデルとして活躍している。
「チャップマンは取るに足らないスパイだった」と言うのは、各国の諜報活動に詳しい英ノッティンガム大学のダン・ロマス助教。
「大統領のプーチン自身が元スパイの経歴を隠そうともしない国では、彼女のような存在でも立派なスパイとして美化される。ロシア社会では、スパイは尊敬すべき、見習うべき存在なんだ」
スパイを美化する伝統はどこの国にもあるが、今のロシアは諜報機関の出身者で固めた治安国家。スパイが最高に輝くのも当然なのだろう。
イギリスの王立国際問題研究所によれば、かつてのスパイ事件は水面下で処理されるのが常だったが、今はロシアのスパイ活動を白日の下にさらすべきだという考えがあり、各国とも外国のスパイを逮捕しやすくする法整備を急いでいる。
だが、いくら捕まえてもスパイ交換で送還されれば本国では英雄扱いだ。
パブロ・ゴンサレス(本名パベル・ルブツォフ)も、8月1日にモスクワの空港でプーチンの出迎えを受けた。彼はロシア軍参謀本部の工作員で、スペインのジャーナリストを装ってポーランドで活動していた。
それでも帰国時には「スター・ウォーズ」のTシャツ姿で現れ、プーチンと固く握手を交わしていた。
「プーチン政権のために西側諸国で罪を犯したロシア人は英雄だという国内向けの強烈なメッセージ」だと指摘するのは、エストニアの国防・安全保障国際センターのマレク・コフ。
「ロシアは何十年も前から欧州大陸でスパイ活動を行っている。当時の欧州はロシアを商売の相手と見なしていたが、ロシアは一貫して欧州を敵と見なし、その力をそぎ、従属させることを目指している」
そして今は、外国で捕まったがスパイ交換でロシアに帰還した者たちを宣伝戦の道具として使っている。コフに言わせれば、「たとえ犯罪者でもロシアは彼らに高位の公的な地位を用意しているぞ、というのが外国向けのメッセージだ」。
それだけではない。旧東欧圏の諸国は先に、NATO条約第5条の集団防衛の原則をあざ笑うようなロシアの「ハイブリッド」作戦が一段と活発化しているとの警告を発した。
昨年7月にはDHLの航空貨物コンテナに爆弾が仕掛けられ、ドイツのライプチヒで火を噴く事件が起きた。背後にはロシアの工作員がいた疑いがあり、アメリカ行きの貨物便を空中で爆破する予行演習だった可能性が高いとされる。
ポーランドやイギリス、チェコ、リトアニアなどで起きた放火事件にもロシアの影がちらつく。
こういうものがロシア流の「ハイブリッド戦争」だ。アメリカ国際法学会が17年に発表した報告書によれば、この戦略を立案したのはロシア連邦軍の参謀総長を務めるワレリー・ゲラシモフだ。
情報戦は安上がりで効果絶大
ゲラシモフは13年の論文で、自らの戦略を西側諸国の東方拡大に対する「非対称的」な対抗と呼んだ。そして政治的・戦略的な目標を達成する非軍事的手段が増えているうえに、「その有効性はしばしば武力の行使を上回る」とした。
具体的手法は、情報操作や宣伝活動、破壊工作、西側諸国の政党への潜入や資金提供から、ロシア軍機による領空侵犯やGPS信号の妨害まで多岐にわたる。実際、22年2月のウクライナ侵攻以来、こうした活動の頻度は増えている。
コフによれば、西側諸国が一致団結してウクライナ支援に回る事態はロシアにとって想定外だった。それで彼らは「非軍事的」な手段にも頼らざるを得なくなった。
「しかもサイバー攻撃や情報操作、放火などは通常の軍事作戦と比較にならないほど安上がりだ」とコフは言う。「だから西側諸国の指導者が何か言えば、ロシアはすぐに反応してハイブリッド攻撃を繰り出せる」
ウクライナ戦争が始まって以来、欧州諸国からは外交官を装ったロシアの工作員600人以上が追放された。しかしEUの外交旅券さえあれば、今でもロシアのスパイはEU圏内には自由に行ける。
そうして現地の犯罪組織に金を渡せば、破壊工作やサイバー攻撃を「外注」できる。
実際、ロイター通信の伝えるところでは、ロンドンでウクライナ関連施設に放火して逮捕されたイギリス人の男は、外国の諜報機関から報酬を得ていたと自供している。
「一般の犯罪者にスパイの下請けをさせるなんて危険すぎるし、どんなに恐ろしい結果を招くか分からない」と、エストニアのコフは言う。
警察と特殊部隊は国内外で安全保障の分野で協力していると、彼は強調する。「ロシアの活動が欧州各地で監視され、明らかにされることが重要だ」
<ハイブリッド攻撃を繰り出すロシアの工作員。正体がばれて外国で逮捕・収監されても、帰国すればセレブとして持ち上げられ政界への華麗な転身も>
ロシア大統領のウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)は冷戦末期の東ドイツ(当時)で、スパイとして働いていた。
あの頃、スパイは「目立ってはいけない」存在だった。しかしウクライナへの軍事侵攻を始めてからのプーチンは、むしろ自国の工作員をヒーローに仕立てることに熱心なようだ。
昨年8月1日には首都モスクワの空港で、NATO加盟国スロベニアから送還されたアルチョム・ドゥルツェフと妻のアンナを出迎え、大きな花束を渡した。
この夫妻はスロベニアで服役中だったが、多国間スパイ交換の一環で釈放された(同時にロシアの殺し屋1人とアメリカの海兵隊員とジャーナリスト各1人の交換も行われた)。
任務を遂行し切れずに外国で捕まったスパイが、なぜ送還された祖国で歓待されるのか。たぶんプーチンが彼らを英雄に仕立て、表舞台に立たせることで国内外へのPR効果を狙っているからだ。
ロシア出身の歴史家セルゲイ・ラドチェンコ(米ジョンズホプキンス大学高等国際関係大学院教授)に言わせれば、「プーチン体制下でロシアのスパイは新たな尊敬を勝ち得て、今やジェームズ・ボンド並みの輝ける英雄となっている」。
1970年代のアメリカには客観的事実の報道よりも自分の主観で事実を語り出すことに熱心な「ゴンゾー・ジャーナリスト」がいたが、今は(裏の工作だけでなく)自ら公衆の面前にしゃしゃり出て脚光を浴びたがるスパイがいる。
ロシアの元工作員を殺害した容疑で英警察に追われている実業家のルゴボイ(右)も国会議員に MIKHAIL SVETLOV/GETTY IMAGES
いい例が、昨年12月にFBIが任意の事情聴取における虚偽供述の容疑で逮捕したニューヨーク在住でロシア国籍の女性ノマ・ザルビナだ。
彼女は米国内で活動する反プーチン派の集会に「専門家」として頻繁に顔を出し、ロシア連邦の解体とシベリア独立を求める「シベリア合衆国」を支持する発言をSNSで繰り返していたインフルエンサーだが、それは仮の姿で、実は数年前からロシアの連邦保安局(FSB)の指示で動いていたとされる。
あるいはマリア・ブティナの場合。彼女は米共和党支持団体の大会などに出席して有力政治家と接触していたが、2018年に正規の登録なしで外国政府の代理人(つまりスパイ)として活動していた罪で有罪判決を受けた。
しかしスパイ交換でロシアに戻り、今は晴れて国会議員となっている。2006年にロンドンでロシアの元工作員アレクサンドル・リトビネンコを殺害した容疑で英警察に追われている実業家のアンドレイ・ルゴボイも、今は国会議員だ。
前出のラドチェンコによれば、外国で捕まってスパイ交換で祖国に戻ったスパイが華々しく脚光を浴びることなど、ソ連時代には考えられなかった。しかし「今のロシア国民の目には、元スパイという肩書が立派な資産と映るらしい」とラドチェンコは言う。
「任務を果たせなかったスパイも、国に戻ればプロパガンダの片棒を担がされ、運がよければ豪勢な暮らしもできる。そこがソ連時代とは決定的に違う」
ラドチェンコは「外国で正体を暴かれた工作員がロシアに戻って公的な役職に就いた例など、過去には聞いたことがない」とした上で、こうも言った。
「今はロシアでもイメージやプロパガンダが重視される時代。プーチンも率先して国民向けの心理作戦に関与している」
下っ端のスパイさえ美化
セレブ系元スパイの代表格はアンナ・チャップマンだ。彼女は10年にアメリカで下っ端のスパイとして逮捕されたが、今はロシアでテレビ司会者やモデルとして活躍している。
「チャップマンは取るに足らないスパイだった」と言うのは、各国の諜報活動に詳しい英ノッティンガム大学のダン・ロマス助教。
「大統領のプーチン自身が元スパイの経歴を隠そうともしない国では、彼女のような存在でも立派なスパイとして美化される。ロシア社会では、スパイは尊敬すべき、見習うべき存在なんだ」
スパイを美化する伝統はどこの国にもあるが、今のロシアは諜報機関の出身者で固めた治安国家。スパイが最高に輝くのも当然なのだろう。
イギリスの王立国際問題研究所によれば、かつてのスパイ事件は水面下で処理されるのが常だったが、今はロシアのスパイ活動を白日の下にさらすべきだという考えがあり、各国とも外国のスパイを逮捕しやすくする法整備を急いでいる。
だが、いくら捕まえてもスパイ交換で送還されれば本国では英雄扱いだ。
パブロ・ゴンサレス(本名パベル・ルブツォフ)も、8月1日にモスクワの空港でプーチンの出迎えを受けた。彼はロシア軍参謀本部の工作員で、スペインのジャーナリストを装ってポーランドで活動していた。
それでも帰国時には「スター・ウォーズ」のTシャツ姿で現れ、プーチンと固く握手を交わしていた。
「プーチン政権のために西側諸国で罪を犯したロシア人は英雄だという国内向けの強烈なメッセージ」だと指摘するのは、エストニアの国防・安全保障国際センターのマレク・コフ。
「ロシアは何十年も前から欧州大陸でスパイ活動を行っている。当時の欧州はロシアを商売の相手と見なしていたが、ロシアは一貫して欧州を敵と見なし、その力をそぎ、従属させることを目指している」
そして今は、外国で捕まったがスパイ交換でロシアに帰還した者たちを宣伝戦の道具として使っている。コフに言わせれば、「たとえ犯罪者でもロシアは彼らに高位の公的な地位を用意しているぞ、というのが外国向けのメッセージだ」。
それだけではない。旧東欧圏の諸国は先に、NATO条約第5条の集団防衛の原則をあざ笑うようなロシアの「ハイブリッド」作戦が一段と活発化しているとの警告を発した。
昨年7月にはDHLの航空貨物コンテナに爆弾が仕掛けられ、ドイツのライプチヒで火を噴く事件が起きた。背後にはロシアの工作員がいた疑いがあり、アメリカ行きの貨物便を空中で爆破する予行演習だった可能性が高いとされる。
ポーランドやイギリス、チェコ、リトアニアなどで起きた放火事件にもロシアの影がちらつく。
こういうものがロシア流の「ハイブリッド戦争」だ。アメリカ国際法学会が17年に発表した報告書によれば、この戦略を立案したのはロシア連邦軍の参謀総長を務めるワレリー・ゲラシモフだ。
情報戦は安上がりで効果絶大
ゲラシモフは13年の論文で、自らの戦略を西側諸国の東方拡大に対する「非対称的」な対抗と呼んだ。そして政治的・戦略的な目標を達成する非軍事的手段が増えているうえに、「その有効性はしばしば武力の行使を上回る」とした。
具体的手法は、情報操作や宣伝活動、破壊工作、西側諸国の政党への潜入や資金提供から、ロシア軍機による領空侵犯やGPS信号の妨害まで多岐にわたる。実際、22年2月のウクライナ侵攻以来、こうした活動の頻度は増えている。
コフによれば、西側諸国が一致団結してウクライナ支援に回る事態はロシアにとって想定外だった。それで彼らは「非軍事的」な手段にも頼らざるを得なくなった。
「しかもサイバー攻撃や情報操作、放火などは通常の軍事作戦と比較にならないほど安上がりだ」とコフは言う。「だから西側諸国の指導者が何か言えば、ロシアはすぐに反応してハイブリッド攻撃を繰り出せる」
ウクライナ戦争が始まって以来、欧州諸国からは外交官を装ったロシアの工作員600人以上が追放された。しかしEUの外交旅券さえあれば、今でもロシアのスパイはEU圏内には自由に行ける。
そうして現地の犯罪組織に金を渡せば、破壊工作やサイバー攻撃を「外注」できる。
実際、ロイター通信の伝えるところでは、ロンドンでウクライナ関連施設に放火して逮捕されたイギリス人の男は、外国の諜報機関から報酬を得ていたと自供している。
「一般の犯罪者にスパイの下請けをさせるなんて危険すぎるし、どんなに恐ろしい結果を招くか分からない」と、エストニアのコフは言う。
警察と特殊部隊は国内外で安全保障の分野で協力していると、彼は強調する。「ロシアの活動が欧州各地で監視され、明らかにされることが重要だ」