南 龍太
<未来という漠然とした対象について深く学ぶ方法や知識は、ビジネスや教育の現場でもバックキャスティングなど戦略的な思考や手法の形で実践されている>
2025年が明けた。年末年始の報道を見ると、例年通り年明けにふさわしい希望や平和を願う記事が目を引く。
特に今年は、4月に開幕する大阪・関西万博に関する特集記事も多かった。万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)」。前回開催の2020年ドバイ万博(コロナ禍で2021年に延期)は「心をつなぎ、未来を創る(Connecting Minds, Creating the Future)」がテーマだった。「未来」という言葉が共通する。
さらに遡ること半世紀以上前、1970年に日本で行われた大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」、20年前の2005年の愛・地球博(愛知万博)は「自然の叡智(Nature's Wisdom)」だった。万博はいずれも、時々の世相や人類の願いを反映した高邁な理念、メッセージが込められている。大阪・関西万博をめぐる開催経緯や予算超過、政治的ごたごたはいったん脇に置き、来場者が将来の世界に少しでも希望を見いだせるような体験ができることを切に願う。
トランプ氏返り咲き、どうなる2025年
現実は厳しく不確実性に満ちている。2025年がどうなるか、どのような未来が待ち受けているかについては極めて不透明だ。その不透明感を醸成する要因の筆頭に挙げられるのが、ドナルド・トランプ氏の米大統領返り咲きだ。トランプ氏は今や不確定・予測不能の代名詞とさえなりつつある。
先々の展望は明るい未来予測と暗い未来予測とが綯い交ぜ、確度が高いもの、確度は低いがインパクトの大きい「ブラックスワン」(後述)のようなものが混交して識者の見方も分かれる。どちらかといえば、終わらない戦争や紛争、安全保障上の対立、温暖化など全地球的課題をめぐるネガティブな未来予測が多そうだ。
さて、人は果たしていつの頃から未来について考えるようになったのか。その起源は古い。太古の、人類がまだ狩猟採集民の時代に、将来の飢えに対する不安から、食糧を貯蔵する技術を発達させていった歴史がある。
時代が下るにつれ、そうした未来についての考え方はより体系化され、洗練されていく。ギリシャ哲学や各地に勃興した宗教の世界観に彩られながら、未来を考える行為が、人間社会において定着していった。
未来学の定着へ
前振りが長くなったがそうした未来について、人類が長年にわたり考えてきた悠久の歴史や営みをまとめた『未来学 人類三千年の〈夢〉の歴史』(白水社)がこのたび上梓される運びとなった。オーストラリアの大学で教鞭を執るジェニファー・M・ギドリー氏による作品の邦訳となる。記事では本書の趣旨について概説しつつ、一部を抜粋しご紹介したい。
あらためて、2025年、トランプ氏がどのような「技」を繰り出すか、ある程度予測できても、その実現可能性は未知数だ。そして、時々刻々と実現確率が変わる。国際情勢や米国の政情を踏まえて目まぐるしく、未来の可能性は変動する。
トランプ氏の行動を予測することは、未来学修得の意義について考えさせられる契機になるかもしれない。
増える「未来を考える場」
近年、バックキャスティング、シナリオ・プランニングやホライズン・スキャニング、デザイン思考といった戦略的な思考や手法がビジネスの現場、さらには教育の現場に取り入れられる機会が増えている。本書の翻訳・刊行の必要性を感じたのもそうした背景からである。本書は、未来という漠然として掴みどころのない対象について、深く学ぶための方法や知識を入門書として広く扱っている。
例えば、
「カオスと複雑性の理論が予測や予測に持ち込んだ激変から生まれたワイルドカードとブラックスワンという概念について触れておきたい。「ワイルド・カード」と「ブラック・スワン」は、未来学者が、可能性は極めて低いが、発生すれば重大な影響を及ぼすであろう予期せぬ未来の出来事を特徴づけるために使う2つの異なる用語である」(本書『未来学』より抜粋)
といった具合にである。
未来学や未来洞察について、日本での普及や推進の機会は増えつつある。日本総合研究所やNTTデータ経営研究所、野村総合研究所などのシンクタンクのほか、中央省庁もそうした未来学なるものについての勉強会などを開き、学びの場が広がっている。
日本総研は2月に「未来をつむぐ対話:世代を超えて描く、2045/55の社会」と題するワークショップを開催し、世代間格差を超えて「ありたい社会像」を探る。NTTデータ経営研究所は未来を描く手法に関する実践的なプロセスを「未来デザインハンドブック」にまとめ、公開している。
出典:NTTデータ経営研究所「未来デザイン手法のバリエーション」
以下では、未来学に込めたオーストラリアの未来学者ギドリー氏の未来に込めた思いを紹介したい。
※『未来学 人類三千年の〈夢〉の歴史』「イントロダクション」より一部改変して掲載
「未来はユートピア的な場所なのか?」
未来史家はしばしば、近い未来の概念の証拠としてユートピア文学に注目する。ユートピアについて簡便に考察することで、未来がまだ来ていない時間として考えられるのか、それとも私たちの恐怖や願望が誇張的に表された想像上の場所なのかが見えてくるだろう。想像上の理想郷としてのユートピアは、しばしば未来と結びつけられる。さらに、SF映画で頻繁に描かれるような恐ろしい未来は、「ディストピア」と呼ばれる。基本的に、ユートピアとディストピアは、「今、ここ」ではないどこかほかの場所で起こる、望ましい未来と恐れられている未来についての物語である。しかし、ユートピア/ディストピア、未来、場所、時間という概念の間には、もっと複雑な関係が綯い交ぜになっている。
今日私たちが知っているようなユートピアというジャンルは、文明のユートピアモデルを創り出そうとした最初の本格的な試みと広く解されているプラトンの『国家』としての古代ギリシャに端を発する。より正確に言えばより正確には、それは「eu-topia」、つまり「良い場所」という意味だった。これは、後進にとって、より完璧な暮らしが営まれる場所の理想化されたビジョンを描くための礎を築いた。逆説的だが、ギリシャの哲学者たちが直線的な時間(過去、現在、未来)の概念を提唱していた古代史のまさにその時期に、プラトンの『国家』から始まる「空想の場所としてのユートピア」という考え方が登場したのである。ライマン・タワー・サージェント(Lyman Tower Sargent)は、「A Very Short Introduction」シリーズの『ユートピア主義(Utopianism)』の中で、古典的なギリシャやローマで始まった形式的なユートピアと、過去の黄金時代に思いを馳せる以前のユートピア神話とを峻別している。1500年代初頭にトマス・モア(Thomas More, 1478-1535)が『ユートピア』を書くまでその言葉は使われなかったため、それ以前の国家は当時ユートピアとは呼ばれなかった。初期のユートピアは「別の場所」に根ざしていたため、未来(または「別の時間」)に影響を与える潜在性は、明示的というよりは暗示的なものだった。そのようなユートピアの物語は、未来において物事がどのように違った形で行われ得るかについて密かに暗示する、より良い場所のたとえ話だった。場所に関する簡潔なディストピアの初期の例は、「聖ゲオルギオスと竜」("The legend of Saint George and the Dragon")の神話である。事実に基づくものであれ、フィクションであれ、紀元千年紀の初期において、ディストピアは比較的単純で二元論的なものであったと教えてくれるのはナラティブ(narrative)である。すなわち、村がドラゴンに脅かされ、勇敢な若者がドラゴンを退治し、村は無事で、特に囚われた姫君は無事で、ユートピア的な単純で幸せな暮らしを取り戻す。
あらゆる概念がそうであるように、ユートピアとディストピアという概念自体も進化してきた。
ユートピアのナラティブがより明確な未来志向に転じたのはもっと後、18世紀末のことである。社会学者のウェンデル・ベル(Wendell Bell)は次のように説明する。「18世紀末、ユートピア作品は空間から時間へと大きく転換した。理想社会(あるいはその対極にあるディストピア)の典型的な舞台は、同じ時代の異なる場所から、異なる時代の同じ場所へとラディカルに変化した。
未来史家のイグナティウス・F・クラーク(Ignatius F. Clarke)は、「旧式の大陸的ユートピアの衰退」について同様の指摘をしているが、技術的に進歩した国々の文学では、「未来の理想国」に新たに焦点が当てられるようになっただけである。社会がより複雑化するにつれ、ユートピアとディストピアも複雑化した。
最近のユートピア的な未来にまつわるナラティブの逆説は、多くのユートピアが、政府権力による全体主義的な押しつけや、何らかの社会工学的手法によって構築されていることである。ほとんどのユートピアは支配的なイデオロギー的側面を持ち、それは多くの場合、全体主義に近い。グローバル社会として、全体主義体制の崩壊とともに 20 世紀にこの認識が高まり、隆盛するディストピア・フィクションが勢いを増した。もう1つのパラドックスは、文明がどのように発展するかという直線的なモデルは、常に価値観に左右されるということである。過去は未開的なものとして問題視される一方、理想化された未来に通ずるものには重きが置かれ、、進歩、発展、進化は文明へと連なる一直線の道として称えられる。現在を悪者扱いし、ロマンチックな過去を理想化する理論やイデオロギーにおいては、逆の重み付け評価がなされる。その場合には過去がユートピアとなる。
現代のユートピアとディストピアの考え方まで話を進めると、未来、時間、場所についてはどのように語られているだろうか。今日のSF映画のいくつかは、「同じ場所、異なる時間」というベルの18世紀以降のタイプに分類されるだろう。例えば、『マッドマックス』(Mad Max)シリーズの舞台は地球だが、それは荒廃した未来の地球である。一方、現代の近未来映画の多くは、宇宙空間のコロニーを舞台にしている。例えば、『スタートレック』シリーズや『スター・ウォーズ』シリーズ、『エイリアン』シリーズ、『ターミネーター』シリーズなどである。これによって、ベルの他の2つのタイプとは異なる第3のタイプが生まれる。この第3のタイプは、今日では非常に一般的なもので、異なる時代(未来)と異なる場所(宇宙)が舞台となっている。
また、今日の大衆的なマスメディアには、ユートピアよりもディストピア的、さらには黙示録的なナラティブがかなり集中している。
<未来という漠然とした対象について深く学ぶ方法や知識は、ビジネスや教育の現場でもバックキャスティングなど戦略的な思考や手法の形で実践されている>
2025年が明けた。年末年始の報道を見ると、例年通り年明けにふさわしい希望や平和を願う記事が目を引く。
特に今年は、4月に開幕する大阪・関西万博に関する特集記事も多かった。万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)」。前回開催の2020年ドバイ万博(コロナ禍で2021年に延期)は「心をつなぎ、未来を創る(Connecting Minds, Creating the Future)」がテーマだった。「未来」という言葉が共通する。
さらに遡ること半世紀以上前、1970年に日本で行われた大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」、20年前の2005年の愛・地球博(愛知万博)は「自然の叡智(Nature's Wisdom)」だった。万博はいずれも、時々の世相や人類の願いを反映した高邁な理念、メッセージが込められている。大阪・関西万博をめぐる開催経緯や予算超過、政治的ごたごたはいったん脇に置き、来場者が将来の世界に少しでも希望を見いだせるような体験ができることを切に願う。
トランプ氏返り咲き、どうなる2025年
現実は厳しく不確実性に満ちている。2025年がどうなるか、どのような未来が待ち受けているかについては極めて不透明だ。その不透明感を醸成する要因の筆頭に挙げられるのが、ドナルド・トランプ氏の米大統領返り咲きだ。トランプ氏は今や不確定・予測不能の代名詞とさえなりつつある。
先々の展望は明るい未来予測と暗い未来予測とが綯い交ぜ、確度が高いもの、確度は低いがインパクトの大きい「ブラックスワン」(後述)のようなものが混交して識者の見方も分かれる。どちらかといえば、終わらない戦争や紛争、安全保障上の対立、温暖化など全地球的課題をめぐるネガティブな未来予測が多そうだ。
さて、人は果たしていつの頃から未来について考えるようになったのか。その起源は古い。太古の、人類がまだ狩猟採集民の時代に、将来の飢えに対する不安から、食糧を貯蔵する技術を発達させていった歴史がある。
時代が下るにつれ、そうした未来についての考え方はより体系化され、洗練されていく。ギリシャ哲学や各地に勃興した宗教の世界観に彩られながら、未来を考える行為が、人間社会において定着していった。
未来学の定着へ
前振りが長くなったがそうした未来について、人類が長年にわたり考えてきた悠久の歴史や営みをまとめた『未来学 人類三千年の〈夢〉の歴史』(白水社)がこのたび上梓される運びとなった。オーストラリアの大学で教鞭を執るジェニファー・M・ギドリー氏による作品の邦訳となる。記事では本書の趣旨について概説しつつ、一部を抜粋しご紹介したい。
あらためて、2025年、トランプ氏がどのような「技」を繰り出すか、ある程度予測できても、その実現可能性は未知数だ。そして、時々刻々と実現確率が変わる。国際情勢や米国の政情を踏まえて目まぐるしく、未来の可能性は変動する。
トランプ氏の行動を予測することは、未来学修得の意義について考えさせられる契機になるかもしれない。
増える「未来を考える場」
近年、バックキャスティング、シナリオ・プランニングやホライズン・スキャニング、デザイン思考といった戦略的な思考や手法がビジネスの現場、さらには教育の現場に取り入れられる機会が増えている。本書の翻訳・刊行の必要性を感じたのもそうした背景からである。本書は、未来という漠然として掴みどころのない対象について、深く学ぶための方法や知識を入門書として広く扱っている。
例えば、
「カオスと複雑性の理論が予測や予測に持ち込んだ激変から生まれたワイルドカードとブラックスワンという概念について触れておきたい。「ワイルド・カード」と「ブラック・スワン」は、未来学者が、可能性は極めて低いが、発生すれば重大な影響を及ぼすであろう予期せぬ未来の出来事を特徴づけるために使う2つの異なる用語である」(本書『未来学』より抜粋)
といった具合にである。
未来学や未来洞察について、日本での普及や推進の機会は増えつつある。日本総合研究所やNTTデータ経営研究所、野村総合研究所などのシンクタンクのほか、中央省庁もそうした未来学なるものについての勉強会などを開き、学びの場が広がっている。
日本総研は2月に「未来をつむぐ対話:世代を超えて描く、2045/55の社会」と題するワークショップを開催し、世代間格差を超えて「ありたい社会像」を探る。NTTデータ経営研究所は未来を描く手法に関する実践的なプロセスを「未来デザインハンドブック」にまとめ、公開している。
出典:NTTデータ経営研究所「未来デザイン手法のバリエーション」
以下では、未来学に込めたオーストラリアの未来学者ギドリー氏の未来に込めた思いを紹介したい。
※『未来学 人類三千年の〈夢〉の歴史』「イントロダクション」より一部改変して掲載
「未来はユートピア的な場所なのか?」
未来史家はしばしば、近い未来の概念の証拠としてユートピア文学に注目する。ユートピアについて簡便に考察することで、未来がまだ来ていない時間として考えられるのか、それとも私たちの恐怖や願望が誇張的に表された想像上の場所なのかが見えてくるだろう。想像上の理想郷としてのユートピアは、しばしば未来と結びつけられる。さらに、SF映画で頻繁に描かれるような恐ろしい未来は、「ディストピア」と呼ばれる。基本的に、ユートピアとディストピアは、「今、ここ」ではないどこかほかの場所で起こる、望ましい未来と恐れられている未来についての物語である。しかし、ユートピア/ディストピア、未来、場所、時間という概念の間には、もっと複雑な関係が綯い交ぜになっている。
今日私たちが知っているようなユートピアというジャンルは、文明のユートピアモデルを創り出そうとした最初の本格的な試みと広く解されているプラトンの『国家』としての古代ギリシャに端を発する。より正確に言えばより正確には、それは「eu-topia」、つまり「良い場所」という意味だった。これは、後進にとって、より完璧な暮らしが営まれる場所の理想化されたビジョンを描くための礎を築いた。逆説的だが、ギリシャの哲学者たちが直線的な時間(過去、現在、未来)の概念を提唱していた古代史のまさにその時期に、プラトンの『国家』から始まる「空想の場所としてのユートピア」という考え方が登場したのである。ライマン・タワー・サージェント(Lyman Tower Sargent)は、「A Very Short Introduction」シリーズの『ユートピア主義(Utopianism)』の中で、古典的なギリシャやローマで始まった形式的なユートピアと、過去の黄金時代に思いを馳せる以前のユートピア神話とを峻別している。1500年代初頭にトマス・モア(Thomas More, 1478-1535)が『ユートピア』を書くまでその言葉は使われなかったため、それ以前の国家は当時ユートピアとは呼ばれなかった。初期のユートピアは「別の場所」に根ざしていたため、未来(または「別の時間」)に影響を与える潜在性は、明示的というよりは暗示的なものだった。そのようなユートピアの物語は、未来において物事がどのように違った形で行われ得るかについて密かに暗示する、より良い場所のたとえ話だった。場所に関する簡潔なディストピアの初期の例は、「聖ゲオルギオスと竜」("The legend of Saint George and the Dragon")の神話である。事実に基づくものであれ、フィクションであれ、紀元千年紀の初期において、ディストピアは比較的単純で二元論的なものであったと教えてくれるのはナラティブ(narrative)である。すなわち、村がドラゴンに脅かされ、勇敢な若者がドラゴンを退治し、村は無事で、特に囚われた姫君は無事で、ユートピア的な単純で幸せな暮らしを取り戻す。
あらゆる概念がそうであるように、ユートピアとディストピアという概念自体も進化してきた。
ユートピアのナラティブがより明確な未来志向に転じたのはもっと後、18世紀末のことである。社会学者のウェンデル・ベル(Wendell Bell)は次のように説明する。「18世紀末、ユートピア作品は空間から時間へと大きく転換した。理想社会(あるいはその対極にあるディストピア)の典型的な舞台は、同じ時代の異なる場所から、異なる時代の同じ場所へとラディカルに変化した。
未来史家のイグナティウス・F・クラーク(Ignatius F. Clarke)は、「旧式の大陸的ユートピアの衰退」について同様の指摘をしているが、技術的に進歩した国々の文学では、「未来の理想国」に新たに焦点が当てられるようになっただけである。社会がより複雑化するにつれ、ユートピアとディストピアも複雑化した。
最近のユートピア的な未来にまつわるナラティブの逆説は、多くのユートピアが、政府権力による全体主義的な押しつけや、何らかの社会工学的手法によって構築されていることである。ほとんどのユートピアは支配的なイデオロギー的側面を持ち、それは多くの場合、全体主義に近い。グローバル社会として、全体主義体制の崩壊とともに 20 世紀にこの認識が高まり、隆盛するディストピア・フィクションが勢いを増した。もう1つのパラドックスは、文明がどのように発展するかという直線的なモデルは、常に価値観に左右されるということである。過去は未開的なものとして問題視される一方、理想化された未来に通ずるものには重きが置かれ、、進歩、発展、進化は文明へと連なる一直線の道として称えられる。現在を悪者扱いし、ロマンチックな過去を理想化する理論やイデオロギーにおいては、逆の重み付け評価がなされる。その場合には過去がユートピアとなる。
現代のユートピアとディストピアの考え方まで話を進めると、未来、時間、場所についてはどのように語られているだろうか。今日のSF映画のいくつかは、「同じ場所、異なる時間」というベルの18世紀以降のタイプに分類されるだろう。例えば、『マッドマックス』(Mad Max)シリーズの舞台は地球だが、それは荒廃した未来の地球である。一方、現代の近未来映画の多くは、宇宙空間のコロニーを舞台にしている。例えば、『スタートレック』シリーズや『スター・ウォーズ』シリーズ、『エイリアン』シリーズ、『ターミネーター』シリーズなどである。これによって、ベルの他の2つのタイプとは異なる第3のタイプが生まれる。この第3のタイプは、今日では非常に一般的なもので、異なる時代(未来)と異なる場所(宇宙)が舞台となっている。
また、今日の大衆的なマスメディアには、ユートピアよりもディストピア的、さらには黙示録的なナラティブがかなり集中している。