アレクシス・ケイサー(医療担当)
<癌がなくなって廃業に追い込まれるなら本望だ──病気になってからではなく、なる前に手を打つ予防医療に重点を移す医療機関が増えている理由とは?>
マイケル・ラトナーが脳腫瘍と診断されても、弟のブルースは希望を捨てなかった。彼には患者の家族の多くが持たない切り札があった。それは「アクセス」だ。
【チャートで確認】「がん検診」を受けるべき年齢一覧
ニューヨークで数々の開発事業を手がけた元不動産デベロッパーのブルース・ラトナーは、ウェイル・コーネル医科大学とメモリアル・スローン・ケタリング(MSK)癌センターの理事を務めていた。そのため世界最高クラスの癌専門医の何人かに個人的なつてがあり、大半の最先端治療にアクセスできる立場だった。
開頭手術で切除できない2つ目の悪性腫瘍が見つかっても、ラトナー兄弟には希望が残されていた。ブルースがMSKの医長に頼み込み、癌細胞を特異的に攻撃する新薬を処方してもらったのだ。
マイケルの症状は寛解し、家族と過ごす時間を与えられたが、治療で体が弱っているところに厄介な感染症にかかり、それがもとで亡くなった。享年72。最初に脳腫瘍の診断を受けてから8カ月後の死だった。
それから8年後の今、ブルース・ラトナー(Bruce Ratner)は「癌の早期発見のためのマイケル・D・ラトナー・センター(Michael D. Ratner Center for Early Detection of Cancer)」の創設者であり、昨年刊行された癌の早期発見の大切さを訴える本の共著者でもある。
この本で彼は、兄には最先端の治療を受けさせることができたと述べている。ただ残念なのは、受けるのが遅すぎたことだ。
MDアンダーソンでは癌のリスクを軽減するための啓発活動にも注力 THE UNIVERSITY OF TEXAS MD ANDERSON CANCER CENTER
不幸なことに、治せたはずの癌や防げたはずの癌はあまりに多い。
2019年のアメリカにおける癌の死亡例の半数近くは、喫煙、アルコール摂取、過体重など改善可能なリスク因子によるものとみられると、アメリカ癌協会発行の医学誌CA7月号に掲載された論文は報告している。
癌の治療法は目覚ましく進歩したが、患者数は減りそうにない。公衆衛生専門誌のランセット・パブリック・ヘルス8月号の掲載論文によると、3000万人超の癌患者と癌による死者を対象とした調査でX世代とミレニアル世代はそれ以前の世代と比べ、小腸、骨髄腫、腎臓、膵臓など17種の癌のリスクが高いことが分かったという。
より若い世代は幼少期から多くの発癌物資にさらされてきたと考えられると、この論文は指摘している。実際、アメリカの家庭の冷蔵庫には加工肉や合成着色料入りの食品など、多くの発癌物質が常備されている。
アメリカではこれまでも癌予防運動が精力的に展開されてきた。たばこのパッケージには警告表示があるし、乳癌啓発月間にはピンクリボンをあちこちで見かける。米政府は2047年までに癌で亡くなる人を400万人超減らす「癌ムーンショット」イニシアチブを推進している。
【関連記事】オバマが任期最後に発効させた「ガン戦争」法案
ただ、呼び声は高いものの、効果はいまひとつだ。癌予防財団が昨年1月と2月に実施した最新の調査によると、10人中7人近くのアメリカ人が定期の癌検診の少なくとも1つを期限までに受けていないという。
MSKのアイエンガー(写真中央)らは癌患者との話し合いを通じて生活習慣の改善を目指すプログラムを推進中 COURTESY OF MEMORIAL SLOAN KETTERING
アメリカの多くの医療機関が、病気になってからではなく、なる前に手を打つ予防医療に重点を移しつつある。これは医療コストを抑えつつ患者の症状や生活の質の改善を重視する「価値に基づく医療(value-based care, VBC)」と呼ばれる新しいアプローチだ。
癌は予防効果が高い疾患だから、予防医療に軸足を移すなら癌から始めるのが得策だろう。だが問題は「予防に取り組んでも収益につながらない」ことだとラトナーは語った。
本誌は独自に行った最新の格付けで全米トップの癌専門病院と判断した2つの病院、テキサス大学MDアンダーソン癌センターとMSKの専門家たちに話を聞き、専門性の高い医療機関が予防医療にどう取り組んでいるかを探った。
これはなかなか厄介な課題だ。MDアンダーソンはテキサス州、アメリカ、さらには世界から癌をなくすことを使命としているが、癌がなくなればMDアンダーソンは存続を脅かされる。
それでも、経営者のピーター・ピスターズは、MDアンダーソンを「予防機関」にしたいと考えている。「癌がなくなって廃業に追い込まれるなら、それが本望だ」というのだ。そのためには一般の人々と保険会社など医療費の支払者の意識が大きく変わる必要がある。
糖尿病を診る医師の報酬も変わる? HALFPOINT/ISTOCK
高リスクの集団に重点を置く
地域の総合病院が予防医療に取り組む場合は、対象がはっきりしている。こうした病院が医療サービスを提供する地理的な範囲は明確に線引きされていて、救急搬送される患者数などから重点地区もピックアップしやすい。
多くの場合は、地域の総合病院と連携している地元の開業医など、いわゆるプライマリーケアを提供する医師が、その地域の住民に生活習慣の改善などを助言する。
だが専門病院の場合、予防医療の対象となる「地域住民」が明確ではない。名だたる専門病院には世界中から患者が集まってくるからだ。
しかも癌専門病院には連携している開業医のネットワークもないため、違った形で予防医療に取り組む必要があると、MSKの経営者であるシェリー・アンダーソンは本誌に語った。
アンダーソンによれば、癌を引き起こす要因は遺伝子と生活習慣と環境だ。このうち2つはある程度まで制御できるが、遺伝子は変えられない。
そこでMSKでは、患者の癌が遺伝性とみられる場合、希望があれば親族の遺伝子検査を行う。変異遺伝子が見つかると、予防的に臓器の摘出手術を受けるなど「大胆な選択」をする人もいると、アンダーソンは言う。
一方、テキサス州ヒューストンのMDアンダーソンには癌予防の研究調査と地域で実践される啓発活動の立案を行う専門部門がある。
同部門が立案した「ビー・ウェル・コミュニティーズ」は、癌のリスクが高い地域に重点的に資源と支援をつぎ込み、住民の健康向上を推進している。
テキサス州ベイタウンもこの取り組みの対象エリアだ。ここには、全米で3番目に大きい製油所であるエクソンモービルのベイタウン製油所がある。
ピスターズによると、製油所近辺の住民はある種の癌のリスクが高い可能性があり、エクソンモービルはMDアンダーソンの協力を得て、新鮮な農産物を住民に配ったり、ウオーキングクラブを設立するなどの取り組みを進めている。
MSKも地元ニューヨークで同様の活動を行っている。「移民の健康と癌格差」プログラムでは、巡回型の保健チームが市内各地に赴き、医療保険制度について説明し、健康面の不安などの相談に乗っている。
このプログラムでは、例えばニューヨークのタクシー運転手向けに保健サービスと健康診断や癌検診を無料で提供している。タクシー運転手はずっと座って仕事をし、しばしば食生活も健康的とはいえず、大気汚染が深刻な場所で長時間過ごす。これらの要素は、癌と循環器疾患のリスクを高めることが分かっている。
MSKの乳腺腫瘍科医ニール・アイエンガーは「生活習慣の最適化」の重要性を説く。具体的には、好ましい食生活と運動により、肥満度の判定基準であるBMI(体格指数)を27未満に抑え、体内時計に合った良質な睡眠を取り、過度の日焼けを防ぎ、喫煙とアルコールの摂取を避けよ、というのだ。
これらを実践できていれば、「その人は大多数の(癌の)リスクが軽減されていると見なせる」とのことだ。
もちろん、こうした予防策を全て実践しても癌にかかる人はいる。それでもアイエンガーによれば、健康的な生活習慣を実践している人はそうでない人に比べて、癌の診断を受けた後にたどる経過が良好だという。
生活習慣改善の大きな効果
MSKの「ヘルシーリビング・プログラム」では、新規の癌患者に質問用紙を配布し、運動習慣や仕事のスケジュール、経済状態などを含む生活状況を詳細に尋ねる。それに基づいて、栄養士などの専門職の支援を受けつつ、患者ごとの生活習慣の改善プランを作成する。
もっとも、癌の診断は患者の精神に極めて重くのしかかる。アイエンガーによれば、MSKでは生活習慣の改善プランで患者に過度な負担をかけないよう留意している。「忙しかったり疲れていたりしてプランどおりの生活を送れない場合は、プランを実践可能なものに修正する」
このプログラムで生活習慣の改善に取り組む患者は、力が湧いてきたように感じる場合が多いと、アイエンガーは言う。先行きが不透明な状況で、少なくともこの面では自分で物事をコントロールできていると感じることができるからだ。
人々の健康状態がよくなれば、医療システムにとってもコストの削減という恩恵がある。癌患者が生活習慣を改善すれば、救急搬送されたり、治療開始が遅れたりする確率が下がり、医療費の支出が少なくて済む。
近年、多くの医療機関が予防重視の医療の有益性を認識し始めている。前出のVBCという新しい考え方でも、予防に重きが置かれる。
このアプローチが具体的にどのようなものかは、糖尿病を例に考えると分かりやすいと、MDアンダーソンのピスターズは言う。既存のモデルでは、医師は糖尿病患者に食生活の改善を指導し、薬を処方する。この診療行為に対して医師は報酬を受け取り、その後、患者がどのような経過をたどるかは報酬に関係しない。
それに対してVBCでは、四肢切断、心臓発作、失明など、糖尿病による合併症を抑えることにより、医療機関は報酬を得る。医療機関は、特定の患者集団の合併症を一定の範囲内に抑えることが期待され、その目標の達成度によって報酬が決まるのだ。VBCは「素晴らしい考え方」だと、ピスターズは言う。
ピスターズによれば、癌治療の一部の領域ではVBC的な発想をもっと強化する余地がある。確かに、テキサス州の住民の70%近くが過体重もしくは肥満の状態であることを考えると、人々の食生活と運動習慣を改善すれば、健康リスク全般を引き下げる効果が大きいかもしれない。
癌検診の普及を阻むもの
では、早期発見のための癌検診をめぐる状況はどうなっているのか。検診にお金を出しても個人レベルでの効果が見えにくいこともあり、人々が積極的に検診を受けたがらないのが現実だ。
BMCヘルスサービシズ・リサーチ誌に最近発表された研究によると、アメリカで癌検診により延びた寿命は過去25年間で総計1200万年に達するが、前述のようにアメリカ人の7割近くは定期の癌検診を期限までに受けていない。
「私たちの社会では、雇用と医療保険が結び付いている。そのような状況では、保険に加入しない人がどうしても出てきてしまう」と、ピスターズは警鐘を鳴らす。「保険に加入していないと、ある種の検診は受けないままになる場合がある」
ただし見落としてはならないのは、癌による死亡例の70%は、検診の方法が確立されていない癌によるものだという点だ。それに多くの癌検診には、不安、出血、痛みなど、ある程度のリスクが伴う。
しかもほとんどの場合、このような弊害は検診の恩恵を上回るとは限らない(アメリカ癌協会が癌検診を広く勧めていない理由はこの点にある)。
過剰な検診は、ただでさえ過剰な負担にあえいでいる医療システムに一層の負荷をかけかねない。
いま多くの医療機関が採算を取ることに苦労しているなかで、採算が取れている医療機関はたいてい、主として既に病気になっている患者を対象とする医療を行っていると、冒頭で紹介したラトナーは言う。
一方、プライマリーケアはほかの医療分野ほど多くの収益を期待しにくく、膨大な量の患者を抱える医師たちは1人の患者に15分ほどしか時間を割けない。
これでは、患者の医療上の問題をじっくり話し合うことは難しい。まして患者の食生活について詳しく話したり、受けるべき数々の検診について一とおり説明したりする時間などない。
検診が最新の治療薬に比べると地味であることも、癌検診の普及を妨げる要因になっている。子宮頸癌の細胞診や大腸癌の大腸内視鏡検査は最良の癌対策かもしれないが、画期的な新発明とは言い難い。
それでもラトナーは、明るい兆しが見え始めていると感じている。
ビジエント社とアメリカ病院協会の最新の報告書によると、乳癌と大腸癌の検診件数は、19年第4四半期から24年第1四半期の間に80%以上増加した。これは、医療機関と医療従事者の「目を見張る努力」のたまものだと、報告書は指摘している。
「私は朝起きるとまず、自分が生きていることを確認して感謝する」と、ラトナーは言う。「それくらい、私の家系には大勢の癌患者がいる。というより、私たちは誰もが癌で死んだ祖父母や親戚や親しい友人を持っている。その点では、私が特別なわけではない。全ての人がそのような経験をしている」
<癌がなくなって廃業に追い込まれるなら本望だ──病気になってからではなく、なる前に手を打つ予防医療に重点を移す医療機関が増えている理由とは?>
マイケル・ラトナーが脳腫瘍と診断されても、弟のブルースは希望を捨てなかった。彼には患者の家族の多くが持たない切り札があった。それは「アクセス」だ。
【チャートで確認】「がん検診」を受けるべき年齢一覧
ニューヨークで数々の開発事業を手がけた元不動産デベロッパーのブルース・ラトナーは、ウェイル・コーネル医科大学とメモリアル・スローン・ケタリング(MSK)癌センターの理事を務めていた。そのため世界最高クラスの癌専門医の何人かに個人的なつてがあり、大半の最先端治療にアクセスできる立場だった。
開頭手術で切除できない2つ目の悪性腫瘍が見つかっても、ラトナー兄弟には希望が残されていた。ブルースがMSKの医長に頼み込み、癌細胞を特異的に攻撃する新薬を処方してもらったのだ。
マイケルの症状は寛解し、家族と過ごす時間を与えられたが、治療で体が弱っているところに厄介な感染症にかかり、それがもとで亡くなった。享年72。最初に脳腫瘍の診断を受けてから8カ月後の死だった。
それから8年後の今、ブルース・ラトナー(Bruce Ratner)は「癌の早期発見のためのマイケル・D・ラトナー・センター(Michael D. Ratner Center for Early Detection of Cancer)」の創設者であり、昨年刊行された癌の早期発見の大切さを訴える本の共著者でもある。
この本で彼は、兄には最先端の治療を受けさせることができたと述べている。ただ残念なのは、受けるのが遅すぎたことだ。
MDアンダーソンでは癌のリスクを軽減するための啓発活動にも注力 THE UNIVERSITY OF TEXAS MD ANDERSON CANCER CENTER
不幸なことに、治せたはずの癌や防げたはずの癌はあまりに多い。
2019年のアメリカにおける癌の死亡例の半数近くは、喫煙、アルコール摂取、過体重など改善可能なリスク因子によるものとみられると、アメリカ癌協会発行の医学誌CA7月号に掲載された論文は報告している。
癌の治療法は目覚ましく進歩したが、患者数は減りそうにない。公衆衛生専門誌のランセット・パブリック・ヘルス8月号の掲載論文によると、3000万人超の癌患者と癌による死者を対象とした調査でX世代とミレニアル世代はそれ以前の世代と比べ、小腸、骨髄腫、腎臓、膵臓など17種の癌のリスクが高いことが分かったという。
より若い世代は幼少期から多くの発癌物資にさらされてきたと考えられると、この論文は指摘している。実際、アメリカの家庭の冷蔵庫には加工肉や合成着色料入りの食品など、多くの発癌物質が常備されている。
アメリカではこれまでも癌予防運動が精力的に展開されてきた。たばこのパッケージには警告表示があるし、乳癌啓発月間にはピンクリボンをあちこちで見かける。米政府は2047年までに癌で亡くなる人を400万人超減らす「癌ムーンショット」イニシアチブを推進している。
【関連記事】オバマが任期最後に発効させた「ガン戦争」法案
ただ、呼び声は高いものの、効果はいまひとつだ。癌予防財団が昨年1月と2月に実施した最新の調査によると、10人中7人近くのアメリカ人が定期の癌検診の少なくとも1つを期限までに受けていないという。
MSKのアイエンガー(写真中央)らは癌患者との話し合いを通じて生活習慣の改善を目指すプログラムを推進中 COURTESY OF MEMORIAL SLOAN KETTERING
アメリカの多くの医療機関が、病気になってからではなく、なる前に手を打つ予防医療に重点を移しつつある。これは医療コストを抑えつつ患者の症状や生活の質の改善を重視する「価値に基づく医療(value-based care, VBC)」と呼ばれる新しいアプローチだ。
癌は予防効果が高い疾患だから、予防医療に軸足を移すなら癌から始めるのが得策だろう。だが問題は「予防に取り組んでも収益につながらない」ことだとラトナーは語った。
本誌は独自に行った最新の格付けで全米トップの癌専門病院と判断した2つの病院、テキサス大学MDアンダーソン癌センターとMSKの専門家たちに話を聞き、専門性の高い医療機関が予防医療にどう取り組んでいるかを探った。
これはなかなか厄介な課題だ。MDアンダーソンはテキサス州、アメリカ、さらには世界から癌をなくすことを使命としているが、癌がなくなればMDアンダーソンは存続を脅かされる。
それでも、経営者のピーター・ピスターズは、MDアンダーソンを「予防機関」にしたいと考えている。「癌がなくなって廃業に追い込まれるなら、それが本望だ」というのだ。そのためには一般の人々と保険会社など医療費の支払者の意識が大きく変わる必要がある。
糖尿病を診る医師の報酬も変わる? HALFPOINT/ISTOCK
高リスクの集団に重点を置く
地域の総合病院が予防医療に取り組む場合は、対象がはっきりしている。こうした病院が医療サービスを提供する地理的な範囲は明確に線引きされていて、救急搬送される患者数などから重点地区もピックアップしやすい。
多くの場合は、地域の総合病院と連携している地元の開業医など、いわゆるプライマリーケアを提供する医師が、その地域の住民に生活習慣の改善などを助言する。
だが専門病院の場合、予防医療の対象となる「地域住民」が明確ではない。名だたる専門病院には世界中から患者が集まってくるからだ。
しかも癌専門病院には連携している開業医のネットワークもないため、違った形で予防医療に取り組む必要があると、MSKの経営者であるシェリー・アンダーソンは本誌に語った。
アンダーソンによれば、癌を引き起こす要因は遺伝子と生活習慣と環境だ。このうち2つはある程度まで制御できるが、遺伝子は変えられない。
そこでMSKでは、患者の癌が遺伝性とみられる場合、希望があれば親族の遺伝子検査を行う。変異遺伝子が見つかると、予防的に臓器の摘出手術を受けるなど「大胆な選択」をする人もいると、アンダーソンは言う。
一方、テキサス州ヒューストンのMDアンダーソンには癌予防の研究調査と地域で実践される啓発活動の立案を行う専門部門がある。
同部門が立案した「ビー・ウェル・コミュニティーズ」は、癌のリスクが高い地域に重点的に資源と支援をつぎ込み、住民の健康向上を推進している。
テキサス州ベイタウンもこの取り組みの対象エリアだ。ここには、全米で3番目に大きい製油所であるエクソンモービルのベイタウン製油所がある。
ピスターズによると、製油所近辺の住民はある種の癌のリスクが高い可能性があり、エクソンモービルはMDアンダーソンの協力を得て、新鮮な農産物を住民に配ったり、ウオーキングクラブを設立するなどの取り組みを進めている。
MSKも地元ニューヨークで同様の活動を行っている。「移民の健康と癌格差」プログラムでは、巡回型の保健チームが市内各地に赴き、医療保険制度について説明し、健康面の不安などの相談に乗っている。
このプログラムでは、例えばニューヨークのタクシー運転手向けに保健サービスと健康診断や癌検診を無料で提供している。タクシー運転手はずっと座って仕事をし、しばしば食生活も健康的とはいえず、大気汚染が深刻な場所で長時間過ごす。これらの要素は、癌と循環器疾患のリスクを高めることが分かっている。
MSKの乳腺腫瘍科医ニール・アイエンガーは「生活習慣の最適化」の重要性を説く。具体的には、好ましい食生活と運動により、肥満度の判定基準であるBMI(体格指数)を27未満に抑え、体内時計に合った良質な睡眠を取り、過度の日焼けを防ぎ、喫煙とアルコールの摂取を避けよ、というのだ。
これらを実践できていれば、「その人は大多数の(癌の)リスクが軽減されていると見なせる」とのことだ。
もちろん、こうした予防策を全て実践しても癌にかかる人はいる。それでもアイエンガーによれば、健康的な生活習慣を実践している人はそうでない人に比べて、癌の診断を受けた後にたどる経過が良好だという。
生活習慣改善の大きな効果
MSKの「ヘルシーリビング・プログラム」では、新規の癌患者に質問用紙を配布し、運動習慣や仕事のスケジュール、経済状態などを含む生活状況を詳細に尋ねる。それに基づいて、栄養士などの専門職の支援を受けつつ、患者ごとの生活習慣の改善プランを作成する。
もっとも、癌の診断は患者の精神に極めて重くのしかかる。アイエンガーによれば、MSKでは生活習慣の改善プランで患者に過度な負担をかけないよう留意している。「忙しかったり疲れていたりしてプランどおりの生活を送れない場合は、プランを実践可能なものに修正する」
このプログラムで生活習慣の改善に取り組む患者は、力が湧いてきたように感じる場合が多いと、アイエンガーは言う。先行きが不透明な状況で、少なくともこの面では自分で物事をコントロールできていると感じることができるからだ。
人々の健康状態がよくなれば、医療システムにとってもコストの削減という恩恵がある。癌患者が生活習慣を改善すれば、救急搬送されたり、治療開始が遅れたりする確率が下がり、医療費の支出が少なくて済む。
近年、多くの医療機関が予防重視の医療の有益性を認識し始めている。前出のVBCという新しい考え方でも、予防に重きが置かれる。
このアプローチが具体的にどのようなものかは、糖尿病を例に考えると分かりやすいと、MDアンダーソンのピスターズは言う。既存のモデルでは、医師は糖尿病患者に食生活の改善を指導し、薬を処方する。この診療行為に対して医師は報酬を受け取り、その後、患者がどのような経過をたどるかは報酬に関係しない。
それに対してVBCでは、四肢切断、心臓発作、失明など、糖尿病による合併症を抑えることにより、医療機関は報酬を得る。医療機関は、特定の患者集団の合併症を一定の範囲内に抑えることが期待され、その目標の達成度によって報酬が決まるのだ。VBCは「素晴らしい考え方」だと、ピスターズは言う。
ピスターズによれば、癌治療の一部の領域ではVBC的な発想をもっと強化する余地がある。確かに、テキサス州の住民の70%近くが過体重もしくは肥満の状態であることを考えると、人々の食生活と運動習慣を改善すれば、健康リスク全般を引き下げる効果が大きいかもしれない。
癌検診の普及を阻むもの
では、早期発見のための癌検診をめぐる状況はどうなっているのか。検診にお金を出しても個人レベルでの効果が見えにくいこともあり、人々が積極的に検診を受けたがらないのが現実だ。
BMCヘルスサービシズ・リサーチ誌に最近発表された研究によると、アメリカで癌検診により延びた寿命は過去25年間で総計1200万年に達するが、前述のようにアメリカ人の7割近くは定期の癌検診を期限までに受けていない。
「私たちの社会では、雇用と医療保険が結び付いている。そのような状況では、保険に加入しない人がどうしても出てきてしまう」と、ピスターズは警鐘を鳴らす。「保険に加入していないと、ある種の検診は受けないままになる場合がある」
ただし見落としてはならないのは、癌による死亡例の70%は、検診の方法が確立されていない癌によるものだという点だ。それに多くの癌検診には、不安、出血、痛みなど、ある程度のリスクが伴う。
しかもほとんどの場合、このような弊害は検診の恩恵を上回るとは限らない(アメリカ癌協会が癌検診を広く勧めていない理由はこの点にある)。
過剰な検診は、ただでさえ過剰な負担にあえいでいる医療システムに一層の負荷をかけかねない。
いま多くの医療機関が採算を取ることに苦労しているなかで、採算が取れている医療機関はたいてい、主として既に病気になっている患者を対象とする医療を行っていると、冒頭で紹介したラトナーは言う。
一方、プライマリーケアはほかの医療分野ほど多くの収益を期待しにくく、膨大な量の患者を抱える医師たちは1人の患者に15分ほどしか時間を割けない。
これでは、患者の医療上の問題をじっくり話し合うことは難しい。まして患者の食生活について詳しく話したり、受けるべき数々の検診について一とおり説明したりする時間などない。
検診が最新の治療薬に比べると地味であることも、癌検診の普及を妨げる要因になっている。子宮頸癌の細胞診や大腸癌の大腸内視鏡検査は最良の癌対策かもしれないが、画期的な新発明とは言い難い。
それでもラトナーは、明るい兆しが見え始めていると感じている。
ビジエント社とアメリカ病院協会の最新の報告書によると、乳癌と大腸癌の検診件数は、19年第4四半期から24年第1四半期の間に80%以上増加した。これは、医療機関と医療従事者の「目を見張る努力」のたまものだと、報告書は指摘している。
「私は朝起きるとまず、自分が生きていることを確認して感謝する」と、ラトナーは言う。「それくらい、私の家系には大勢の癌患者がいる。というより、私たちは誰もが癌で死んだ祖父母や親戚や親しい友人を持っている。その点では、私が特別なわけではない。全ての人がそのような経験をしている」