文・写真:趙海成
<幼い頃に「ホームレスになる」という驚くべき夢を持っていた少年。バンド活動や暴走族を経て、知らず知らずのうちにその「憧れ」が現実になっていく。在日中国人ジャーナリスト趙海成氏による連載ルポ第19話>
70年代生まれの日本人男性、征一郎さんは、幼い頃に3つの夢を持っていた。
1つ目は歌手として芸能界に入り、明るい舞台で自分を輝かせること。2つ目は、刺激を求めて、バイクや自動車で道路を猛スピードで走り回って威勢を示すこと。この2つの夢はそれほど驚くようなものではない。
しかし、3つ目の夢はひと味違う。それを聞けば驚愕する人が多いだろう。彼が憧れていたのは、長い髪とひげを伸ばし、汚れた服を着て、毎日ゴミの中で食べ物を探しているホームレスだったのだ。
「僕は小学校6年生の時にホームレスに夢中になりました。池袋駅の近くで、長い髪を腰まで垂らし、服がかび臭いホームレスのおじさんをよく見た覚えがあります。
彼はいつも決まった場所に座って休んでいて、他の人は彼から距離を置いて歩いて通りますが、僕だけ彼に近づいて、何度か話しかけたこともありました。当時、このホームレスのおじさんが世俗離れした様子でのんびり座っている姿を見て、うらやましく思ったのです。大人になったら、彼のようになりたいと考えていました」
中学校ではバンド活動に夢中、暴走族の仲間入りも
ホームレスになること――これが征一郎さんが小学校6年生の時に立てた「壮大な志」だったという。
とはいえ、そのような志があっても、他のことへの興味を妨げるわけではない。
中学校に進学した征一郎さんは、まず歌とギターを弾くのに夢中になった。その時の彼は、歌声がよくて、女の子から人気があったという。中学2年生の時には音楽好きの仲間とバンドを結成し、街や広場で歌い、同年代の小さなファンたちを魅了した。
80年代の日本社会は少年犯罪が横行し、不良グループが幅を利かせていた。征一郎さんもこの時代の渦に巻き込まれた。彼がその時の話をしてくれた。
「最初は赤羽地区の暴走族のメンバーになったけど、みんな暗くてクールすぎて、明るくて陽気な僕には合わなかった。だからその暴走族を離れ、自分の名前を冠した100人近くのチームを作りました。
ケンカ好きで、強気で攻撃的な姿勢を持つ『タカ派』チームと比べて、僕のチームは仲間たちがみんな明るくて自由が好きで、わいわい楽しく遊んでいる若者向けサロン(社交や娯楽の場)のような雰囲気でした」
商業高校に進学後、退学処分になった
中学卒業後は、商業高校に進学した。その頃の征一郎さんは若気の至りで、いたずらっ子で、遊びに夢中で、学校をサボることは日常茶飯事だった。学校が彼に何度警告しても全く意味がなかった。
通常、学校側はこのような不良少年に対して、保護者に連絡し、自分の子供をよくしつけるよう伝えるのだが、征一郎さんの家庭には事情があった。両親は彼が中学生になる前に離婚し、母親が家を出た後、父親が病気で亡くなったのだ。
彼は家族からのしつけを受けることなく、家庭の温かみに欠けた一人ぼっちの少年だった。
学校側は征一郎さんのような問題を抱えた生徒に手を焼き、出席率が基準を満たしていないこと、過去の試験に不合格であることを理由に退学を勧めるしかなかった。
「僕はやんちゃな高校生だったけれど、大学に進学することを望んでいましたよ。でも高卒認定を得るための試験を受けなければ、大学受験の資格がありませんでした。だから学校に復学を要請し、高校入試も受け直しました。
その後、学校の先生に呼ばれて話をしましたが、その時、僕の大学進学の夢は完全に破れました。先生は僕にこう言ったのです。
『君は今回の試験で合格点を取ったけれど、私は不合格にした。なぜか分かるか。もし君が学校に戻ってくると、君を慕っていた同級生たちがまた君についていくからだ。学校の不良少年の数がまた増える。彼らの未来のためにも、学校の名誉のためにも、もう帰ってこないでくれ!』」
征一郎さんは、先生の話を聞いた後、何の反抗もせず、ただ「分かりました」とだけ言ったそうだ。その後、彼はその母校の高校に戻ることはなく、仲間や友達とも連絡を絶った。
そして、かつての「憧れ」が「宿命」になった
彼には分かっていた。先生の言うことが正しい。間違っているのは自分で、高校生の時は羽目を外しすぎて、自ら進学の道を断ち切ったのだ。
高校中退後は、生きるためにいろいろなアルバイトをやったし、さまざまな苦労を経験した。
征一郎さんは小さい時から肝臓が弱かったという。大人になってからは建築現場の肉体労働が多く、毎日の過酷な労働で疲弊してしまった。その結果、肝臓がますます悪くなり、筋肉痛、頭痛、発熱などが常に生じ、自分の体が支えられなくなって、仕事もできないほどになってしまった。
生きていくために、彼はホームレスになるしかなかった。少年の頃の憧れが、大人になってから、唯一の道になった。
ホームレスになることは、征一郎さんにとって宿命だったのかもしれない。彼はついに、子供の頃に池袋で見た、世俗離れしたホームレスのおじさんのようになった。
征一郎さんが当初思い描いたホームレスは公園や街頭に野宿し、ゴミの中から食べ物を拾って飢えを満たすような人だった。ホームレスになった彼は最初の数年間、本当にそのように過ごしていた。
彼は当時、テントを持っていなかった。マイナス4度になるような寒い12月でも、公園の椅子の上で寝ていたし、銭湯やコインランドリーには入ったことがなかった。自分のようにボサボサでひげが伸びている人は歓迎されないことを知っているので、風呂や洗濯は公園の水道水を利用することが多かった。
食べるものはすべてゴミ捨て場で拾った、他人が捨てた期限切れの食品だった。その中で最も多いのはパンだった。
3日ごとに大量のパンが...不思議な「パン女 」の話
パンといえば、征一郎さんから聞いた「パン女とホームレス男」の話をしよう。
パン女(この物語には、むしろ「パンの女神」といった呼び方のほうがふさわしいかもしれない)は、公園の近くに住んでいて、パンを大量に購入していた女性だった。一方、ホームレス男は公園で路上生活をしていた。パン女はある日、期限切れのパンを公園近くのゴミ置き場に捨てた。30分後、彼女は他のゴミがまだ残っていて、パンだけが消えていることに気づいた。
その日から、彼女はある決断をした。
ホームレス男は、ゴミ置き場でパンを拾って、空腹を満たした後にも、残りのパンで2日間食べることができた。3日後、ホームレス男は再びそのゴミ置き場に行き、また多くのパンがあったので拾った。それ以来、3日おきに多くのパンが置かれ、まるでホームレス男が取りに来るのを待っているようだった。
ホームレス男は、食べ物が見つからないことに悩む必要がなくなったことを喜んだ。きっと思いやりのある女性がひそかに自分を助けてくれているに違いないと思った。
そんな生活が1年続いたある日、ホームレス男は突然、パンを取りに来なくなった。その公園から追い出されたからだ。
彼は公園を去る前に、彼女の長年の善意に感謝と別れを告げたいと思っていた。しかし、その勇気がなく、もしも会えばお互い気まずい思いをするのではないかと恐れ、相手に迷惑ではないかと心配もしていた。
私は征一郎さんに「その女性を見たことがあるのですか?」と聞いた。
「一度もありません」と、征一郎さんは言った。
「どうしてパンを届けてくれたのが女性だと分かったんですか?」
「きちんと包装された大きな袋のパンを手で触るたびに、これはきっと丁寧で優しい女性が包んだに違いないと感じたのです」
そして征一郎さんは、公園を出た後、荒川河川敷の大きな橋の下に移り、小さなテントを張って住み始めた。
大きなセメントの橋脚を除けば、周りは雑草だらけの荒野だ。橋の上からは自動車が通過する際の轟音が聞こえてくるが、橋の下はがらんとして人影がほとんど見えないほど荒涼としている。彼の小さなテントだけがそこにぽつんと立っている。
アルミ缶収集で生きる現在の生活
今の征一郎さんは、荒川河川敷の他のホームレスたちと同じように、アルミ缶を拾って生計を立てている。
だが数年が経っても、長い間助けてくれたパン女のことを忘れてはいない。彼は挫折して絶望するたびに、「世の中には良い人もいて、自分はあの女性に助けられた。彼女の期待を裏切ることなく、強く生きなければならない」と自分を励ましている。
他のホームレスは明け方にアルミ缶を集めに出かけることが多いが、征一郎さんは毎晩11時ごろに「出動」する。多くのサラリーマンが朝夕の通勤時に飲み物を買うため、住宅街近くのゴミ箱には多くのアルミ缶が置かれていて、取りにくる人を待っているようなのだという。
本人曰く、征一郎さんは荒川一帯の「アルミ缶作業者」の中で最も収入が少ない。1回の収入は通常2000円前後で、週に3回しかアルミ缶を売りに行かない。
もし体調を崩したら、仕事をやめて何日も寝続けなければならない。彼は約10年前から病院に行ったことはなく、気分が悪くなると薬局で買った風邪薬を飲んで、長時間寝て体力を回復しただけだという。
今の征一郎さんはアルミ缶を拾って生計を立てている(左)/公園の蛇口は征一郎さんが水を飲み、シャワーを浴びる場所(右)
無一文になり、餓死を試みたが...
仕事をしなければ、もちろん収入もない。一日に1袋50円のインスタントラーメンしか食べない日も珍しくない。征一郎さんにとって、ご飯は食べなくても耐えられるが、コーヒーは飲まなければならないし、タバコも吸わなければならない。彼が稼いだ決して多くはないお金は、ほとんどこの2つに費やされている。
征一郎さんは社会や他人に迷惑をかけたくないと思っていて、無一文になっても、物乞いはしないという。
実際、生きていけないほどの苦境に陥るたびに、いっそ自分を餓死させようと考えるそうだ。公園のベンチに横になって、何も食べずに気絶すれば死ぬことができると思って、本当に実行してみたこともある。
でも結局は失敗に終わったという。なぜなら、食事を止めただけで水を飲むことを止めなかったからだ。
公園の水道水は無料で、自由に飲める。水は生命維持の根幹であり、健康な人は食べ物がなくても水だけで2~3週間程度は生きることができる。体が弱い人でも、10日ぐらいなら生きていけそうだ。
餓死がこんなにも時間がかかって苦しいだけだと気づいた征一郎さんは、途中でやめてしまった。無料の水道水という誘惑のおかげで、征一郎さんは生き延びたのだ。
コンビニのアルバイトの女の子に恋をした
成人になってからの征一郎さんは孤独なように見えるが、若い頃の写真を見ると女の子にモテていそうだった。
彼が見せてくれた数十年前の写真には、制服を着た中学生5人が写っていた。真ん中の征一郎さんを囲むように女子生徒がいる。もう一人の男子生徒は地面に座っている。この記念写真は、彼がモテていたという1つの記録と言えるだろう。
社会人になって働き出してから、一人の女の子を本気で好きになった話を教えてくれた。コンビニでアルバイトをしている女の子がいて、征一郎さんが買い物に来るたびに、いつも笑顔で挨拶をしてくれたという。
征一郎さんはこの明るくてかわいい女の子に魅了された。彼女の話す日本語から、日本人ではないことが分かった。近くに朝鮮学校があることから、たぶん韓国人だろうと思った。
征一郎さんは彼女に愛情を伝える準備を始めた。
赤羽図書館に行って韓国語の教科書を調べて、「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」(「私はあなたを愛しています」の意味)という言葉を覚えた。
「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」は届かず...
しかし、彼がこの言葉を覚えて告白しようとしているうちに、彼女が日本を離れて帰国してしまったそうだ。彼女が帰ったのはソウルではなく、平壌でもなく、中国の南京だった。彼女は南京の娘だったのだ。
征一郎さんは彼女への恋心を表現するために、韓国語で「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」という名の歌詞を書いた。
僕は 赤羽会館の
5階にある
図書館に行って
一所懸命 覚えた
「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」
だけど 彼女は 僕が 覚えた
言葉の 国の となりの国の女(ひと)だった
そして 彼女は 祖国に 帰ると言った
この日本の この東京の この赤羽の どこの道を
歩いても 君はいない
ナヌンタンシヌル サランハムニダ
日本語で 言いたくなかった......
征一郎さんはこの歌詞のために曲も作った。ギターを弾きながら歌ってもらったが、感動的な歌のように思う。東京で、中国人の女の子に韓国語で愛情を表現しようとした日本人男性の征一郎さん。滑稽だがロマンティックだと思わないだろうか。
残念ながらこの国際色あるラブストーリーは、幕を開けなかった。女性はなにも知らないうちに母国に帰ったが、男性は非常に残念な気持ちで、ホームレスという道を歩み続けた。
(編集協力:中川弘子)
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した──在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。
<幼い頃に「ホームレスになる」という驚くべき夢を持っていた少年。バンド活動や暴走族を経て、知らず知らずのうちにその「憧れ」が現実になっていく。在日中国人ジャーナリスト趙海成氏による連載ルポ第19話>
70年代生まれの日本人男性、征一郎さんは、幼い頃に3つの夢を持っていた。
1つ目は歌手として芸能界に入り、明るい舞台で自分を輝かせること。2つ目は、刺激を求めて、バイクや自動車で道路を猛スピードで走り回って威勢を示すこと。この2つの夢はそれほど驚くようなものではない。
しかし、3つ目の夢はひと味違う。それを聞けば驚愕する人が多いだろう。彼が憧れていたのは、長い髪とひげを伸ばし、汚れた服を着て、毎日ゴミの中で食べ物を探しているホームレスだったのだ。
「僕は小学校6年生の時にホームレスに夢中になりました。池袋駅の近くで、長い髪を腰まで垂らし、服がかび臭いホームレスのおじさんをよく見た覚えがあります。
彼はいつも決まった場所に座って休んでいて、他の人は彼から距離を置いて歩いて通りますが、僕だけ彼に近づいて、何度か話しかけたこともありました。当時、このホームレスのおじさんが世俗離れした様子でのんびり座っている姿を見て、うらやましく思ったのです。大人になったら、彼のようになりたいと考えていました」
中学校ではバンド活動に夢中、暴走族の仲間入りも
ホームレスになること――これが征一郎さんが小学校6年生の時に立てた「壮大な志」だったという。
とはいえ、そのような志があっても、他のことへの興味を妨げるわけではない。
中学校に進学した征一郎さんは、まず歌とギターを弾くのに夢中になった。その時の彼は、歌声がよくて、女の子から人気があったという。中学2年生の時には音楽好きの仲間とバンドを結成し、街や広場で歌い、同年代の小さなファンたちを魅了した。
80年代の日本社会は少年犯罪が横行し、不良グループが幅を利かせていた。征一郎さんもこの時代の渦に巻き込まれた。彼がその時の話をしてくれた。
「最初は赤羽地区の暴走族のメンバーになったけど、みんな暗くてクールすぎて、明るくて陽気な僕には合わなかった。だからその暴走族を離れ、自分の名前を冠した100人近くのチームを作りました。
ケンカ好きで、強気で攻撃的な姿勢を持つ『タカ派』チームと比べて、僕のチームは仲間たちがみんな明るくて自由が好きで、わいわい楽しく遊んでいる若者向けサロン(社交や娯楽の場)のような雰囲気でした」
商業高校に進学後、退学処分になった
中学卒業後は、商業高校に進学した。その頃の征一郎さんは若気の至りで、いたずらっ子で、遊びに夢中で、学校をサボることは日常茶飯事だった。学校が彼に何度警告しても全く意味がなかった。
通常、学校側はこのような不良少年に対して、保護者に連絡し、自分の子供をよくしつけるよう伝えるのだが、征一郎さんの家庭には事情があった。両親は彼が中学生になる前に離婚し、母親が家を出た後、父親が病気で亡くなったのだ。
彼は家族からのしつけを受けることなく、家庭の温かみに欠けた一人ぼっちの少年だった。
学校側は征一郎さんのような問題を抱えた生徒に手を焼き、出席率が基準を満たしていないこと、過去の試験に不合格であることを理由に退学を勧めるしかなかった。
「僕はやんちゃな高校生だったけれど、大学に進学することを望んでいましたよ。でも高卒認定を得るための試験を受けなければ、大学受験の資格がありませんでした。だから学校に復学を要請し、高校入試も受け直しました。
その後、学校の先生に呼ばれて話をしましたが、その時、僕の大学進学の夢は完全に破れました。先生は僕にこう言ったのです。
『君は今回の試験で合格点を取ったけれど、私は不合格にした。なぜか分かるか。もし君が学校に戻ってくると、君を慕っていた同級生たちがまた君についていくからだ。学校の不良少年の数がまた増える。彼らの未来のためにも、学校の名誉のためにも、もう帰ってこないでくれ!』」
征一郎さんは、先生の話を聞いた後、何の反抗もせず、ただ「分かりました」とだけ言ったそうだ。その後、彼はその母校の高校に戻ることはなく、仲間や友達とも連絡を絶った。
そして、かつての「憧れ」が「宿命」になった
彼には分かっていた。先生の言うことが正しい。間違っているのは自分で、高校生の時は羽目を外しすぎて、自ら進学の道を断ち切ったのだ。
高校中退後は、生きるためにいろいろなアルバイトをやったし、さまざまな苦労を経験した。
征一郎さんは小さい時から肝臓が弱かったという。大人になってからは建築現場の肉体労働が多く、毎日の過酷な労働で疲弊してしまった。その結果、肝臓がますます悪くなり、筋肉痛、頭痛、発熱などが常に生じ、自分の体が支えられなくなって、仕事もできないほどになってしまった。
生きていくために、彼はホームレスになるしかなかった。少年の頃の憧れが、大人になってから、唯一の道になった。
ホームレスになることは、征一郎さんにとって宿命だったのかもしれない。彼はついに、子供の頃に池袋で見た、世俗離れしたホームレスのおじさんのようになった。
征一郎さんが当初思い描いたホームレスは公園や街頭に野宿し、ゴミの中から食べ物を拾って飢えを満たすような人だった。ホームレスになった彼は最初の数年間、本当にそのように過ごしていた。
彼は当時、テントを持っていなかった。マイナス4度になるような寒い12月でも、公園の椅子の上で寝ていたし、銭湯やコインランドリーには入ったことがなかった。自分のようにボサボサでひげが伸びている人は歓迎されないことを知っているので、風呂や洗濯は公園の水道水を利用することが多かった。
食べるものはすべてゴミ捨て場で拾った、他人が捨てた期限切れの食品だった。その中で最も多いのはパンだった。
3日ごとに大量のパンが...不思議な「パン女 」の話
パンといえば、征一郎さんから聞いた「パン女とホームレス男」の話をしよう。
パン女(この物語には、むしろ「パンの女神」といった呼び方のほうがふさわしいかもしれない)は、公園の近くに住んでいて、パンを大量に購入していた女性だった。一方、ホームレス男は公園で路上生活をしていた。パン女はある日、期限切れのパンを公園近くのゴミ置き場に捨てた。30分後、彼女は他のゴミがまだ残っていて、パンだけが消えていることに気づいた。
その日から、彼女はある決断をした。
ホームレス男は、ゴミ置き場でパンを拾って、空腹を満たした後にも、残りのパンで2日間食べることができた。3日後、ホームレス男は再びそのゴミ置き場に行き、また多くのパンがあったので拾った。それ以来、3日おきに多くのパンが置かれ、まるでホームレス男が取りに来るのを待っているようだった。
ホームレス男は、食べ物が見つからないことに悩む必要がなくなったことを喜んだ。きっと思いやりのある女性がひそかに自分を助けてくれているに違いないと思った。
そんな生活が1年続いたある日、ホームレス男は突然、パンを取りに来なくなった。その公園から追い出されたからだ。
彼は公園を去る前に、彼女の長年の善意に感謝と別れを告げたいと思っていた。しかし、その勇気がなく、もしも会えばお互い気まずい思いをするのではないかと恐れ、相手に迷惑ではないかと心配もしていた。
私は征一郎さんに「その女性を見たことがあるのですか?」と聞いた。
「一度もありません」と、征一郎さんは言った。
「どうしてパンを届けてくれたのが女性だと分かったんですか?」
「きちんと包装された大きな袋のパンを手で触るたびに、これはきっと丁寧で優しい女性が包んだに違いないと感じたのです」
そして征一郎さんは、公園を出た後、荒川河川敷の大きな橋の下に移り、小さなテントを張って住み始めた。
大きなセメントの橋脚を除けば、周りは雑草だらけの荒野だ。橋の上からは自動車が通過する際の轟音が聞こえてくるが、橋の下はがらんとして人影がほとんど見えないほど荒涼としている。彼の小さなテントだけがそこにぽつんと立っている。
アルミ缶収集で生きる現在の生活
今の征一郎さんは、荒川河川敷の他のホームレスたちと同じように、アルミ缶を拾って生計を立てている。
だが数年が経っても、長い間助けてくれたパン女のことを忘れてはいない。彼は挫折して絶望するたびに、「世の中には良い人もいて、自分はあの女性に助けられた。彼女の期待を裏切ることなく、強く生きなければならない」と自分を励ましている。
他のホームレスは明け方にアルミ缶を集めに出かけることが多いが、征一郎さんは毎晩11時ごろに「出動」する。多くのサラリーマンが朝夕の通勤時に飲み物を買うため、住宅街近くのゴミ箱には多くのアルミ缶が置かれていて、取りにくる人を待っているようなのだという。
本人曰く、征一郎さんは荒川一帯の「アルミ缶作業者」の中で最も収入が少ない。1回の収入は通常2000円前後で、週に3回しかアルミ缶を売りに行かない。
もし体調を崩したら、仕事をやめて何日も寝続けなければならない。彼は約10年前から病院に行ったことはなく、気分が悪くなると薬局で買った風邪薬を飲んで、長時間寝て体力を回復しただけだという。
今の征一郎さんはアルミ缶を拾って生計を立てている(左)/公園の蛇口は征一郎さんが水を飲み、シャワーを浴びる場所(右)
無一文になり、餓死を試みたが...
仕事をしなければ、もちろん収入もない。一日に1袋50円のインスタントラーメンしか食べない日も珍しくない。征一郎さんにとって、ご飯は食べなくても耐えられるが、コーヒーは飲まなければならないし、タバコも吸わなければならない。彼が稼いだ決して多くはないお金は、ほとんどこの2つに費やされている。
征一郎さんは社会や他人に迷惑をかけたくないと思っていて、無一文になっても、物乞いはしないという。
実際、生きていけないほどの苦境に陥るたびに、いっそ自分を餓死させようと考えるそうだ。公園のベンチに横になって、何も食べずに気絶すれば死ぬことができると思って、本当に実行してみたこともある。
でも結局は失敗に終わったという。なぜなら、食事を止めただけで水を飲むことを止めなかったからだ。
公園の水道水は無料で、自由に飲める。水は生命維持の根幹であり、健康な人は食べ物がなくても水だけで2~3週間程度は生きることができる。体が弱い人でも、10日ぐらいなら生きていけそうだ。
餓死がこんなにも時間がかかって苦しいだけだと気づいた征一郎さんは、途中でやめてしまった。無料の水道水という誘惑のおかげで、征一郎さんは生き延びたのだ。
コンビニのアルバイトの女の子に恋をした
成人になってからの征一郎さんは孤独なように見えるが、若い頃の写真を見ると女の子にモテていそうだった。
彼が見せてくれた数十年前の写真には、制服を着た中学生5人が写っていた。真ん中の征一郎さんを囲むように女子生徒がいる。もう一人の男子生徒は地面に座っている。この記念写真は、彼がモテていたという1つの記録と言えるだろう。
社会人になって働き出してから、一人の女の子を本気で好きになった話を教えてくれた。コンビニでアルバイトをしている女の子がいて、征一郎さんが買い物に来るたびに、いつも笑顔で挨拶をしてくれたという。
征一郎さんはこの明るくてかわいい女の子に魅了された。彼女の話す日本語から、日本人ではないことが分かった。近くに朝鮮学校があることから、たぶん韓国人だろうと思った。
征一郎さんは彼女に愛情を伝える準備を始めた。
赤羽図書館に行って韓国語の教科書を調べて、「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」(「私はあなたを愛しています」の意味)という言葉を覚えた。
「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」は届かず...
しかし、彼がこの言葉を覚えて告白しようとしているうちに、彼女が日本を離れて帰国してしまったそうだ。彼女が帰ったのはソウルではなく、平壌でもなく、中国の南京だった。彼女は南京の娘だったのだ。
征一郎さんは彼女への恋心を表現するために、韓国語で「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」という名の歌詞を書いた。
僕は 赤羽会館の
5階にある
図書館に行って
一所懸命 覚えた
「ナヌンタンシヌル サランハムニダ」
だけど 彼女は 僕が 覚えた
言葉の 国の となりの国の女(ひと)だった
そして 彼女は 祖国に 帰ると言った
この日本の この東京の この赤羽の どこの道を
歩いても 君はいない
ナヌンタンシヌル サランハムニダ
日本語で 言いたくなかった......
征一郎さんはこの歌詞のために曲も作った。ギターを弾きながら歌ってもらったが、感動的な歌のように思う。東京で、中国人の女の子に韓国語で愛情を表現しようとした日本人男性の征一郎さん。滑稽だがロマンティックだと思わないだろうか。
残念ながらこの国際色あるラブストーリーは、幕を開けなかった。女性はなにも知らないうちに母国に帰ったが、男性は非常に残念な気持ちで、ホームレスという道を歩み続けた。
(編集協力:中川弘子)
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した──在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。