<戯作や錦絵の舞台となった吉原を実際に見てみたい。しかし、たいていは見物だけで登楼はしていなかった...>
蔦屋重三郎が生まれた「吉原」だけではない、日本各地の色町。教科書では、けして知ることができない色艶な街の実情とは? 120点以上の豊富な図版が収められた、2025年大河ドラマ必携書『江戸の性愛業』(永井義男著、作品社)よりコラム「吉原見物は聖地巡礼」を抜粋。
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現代人が「江戸の遊廓」と聞いたとき、まず頭に浮かぶのは吉原であろう。江戸時代の人々も同じだった。
当時、全国各地に遊里があり、多種多様なセックスワーカーがいた。そんな中にあって、吉原の知名度と人気は傑出していた。
藩主の参勤交代に従って江戸に出てきた藩士――勤番武士が江戸で最初に行きたがったのが吉原だった。ただし、金銭的な余裕がないので、たいていは見物だけである。
佐賀藩鍋島家の藩士・牟田文之助は幕末期、剣術修行で全国各地をまわったが、江戸では藩邸に滞在した。日記『諸国廻歴日録』によると、安政元年(1854)3月3日、佐賀藩士に案内されて吉原に行っている。文之助は花魁道中を見物して大いに感激しているが、登楼はしていない。
紀州藩徳川家の下級藩士・酒井伴四郎は江戸詰めを命じられ、万延元年(1860)5月、江戸に出てきた。『酒井伴四郎日記』によると、7月16日、藩士ら総勢5人で藩邸を出て、吉原見物をしている。ただし、伴四郎らは見物だけで、登楼はしていない。
諸藩の武士だけではなく、地方の庶民も吉原に行きたがった。商用などで江戸に出てきた商人は無理をしても時間を作り、吉原に足を運んだ。
では、なぜ、みな、これほど吉原を見物したがったのだろうか。
新吉原 レセプションホール(張見世)/(Sin-Yosiwara. - Reception hall.)『日本と日本人』(アンベール編)所蔵:国際日本文化研究センター
現在、アニメの舞台になった場所などをファンが訪ねるのを、「聖地巡礼」という。江戸時代の人々が吉原に行きたがったのも、まさに聖地巡礼だった。
というのも、当時の出版人・蔦屋重三郎は吉原を舞台にした戯作(小説)を多数、刊行した。さらに、吉原の遊女を描いた錦絵も多数、刊行した。
蔦屋だけでなく、他の本屋(出版社)からも、吉原と遊女を題材にした戯作や錦絵が続々と刊行された。写真も映像もない時代、蔦屋などの刊行物が、地方に住む人々の吉原へのあこがれをかき立てたのである。
一度でいいから、戯作や錦絵の舞台となった吉原を実際に見てみたい――
まさに聖地巡礼だった。吉原への願望は男だけでなく、女にもあった。幕末の尊王攘夷の志士・清川八郎は、母親に吉原見物をさせているほどである。地方の裕福な家の女も刊行物を通じて、吉原への想像を膨らませていたといおうか。
蔦屋など江戸の出版社は吉原を題材にして本や浮世絵を売り、一方の吉原はそうした刊行物で人気を高めたといえよう。
外国人も吉原には興味を示した。図(編集部注:上の写真)は幕末期のレセプションホール(張見世)を描いたもの。
永井義男(ながい・よしお)
小説家、江戸文化評論家。1949年生まれ、福岡県出身。東京外国語大学卒業。1997年、『算学奇人伝』(ティビーエス・ブリタニカ/祥伝社文庫)で開高健賞を受賞。小説に『秘剣の名医』(コスミック出版)、『吉原同心 富永甚四郎』(KADOKAWA)など、多数。江戸文化批評に『江戸の糞尿学』(作品社)、『図説吉原事典』、『剣術修行の廻国旅日記』(朝日新聞出版)、『下級武士の日記でみる江戸の「性」と「食」』(河出書房新社)など、多数。
『江戸の性愛業』
永井義男[著]
作品社[刊]
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