キャサリン・ファン(国際政治担当)
<選んだ道は違っても彼は父の夢を体現した──二人の足跡を、末娘バーニス・アルバーティン・キングが振り返る。「勇気ある指導者」の遺したものとは?>
わずか5年違いで米ジョージア州に生を受けたジミー・カーター(Jimmy Carter)とマーチン・ルーサー・キングJr.(Martin Luther King Jr.)。
共に公民権運動の最中に政治活動に身を投じて頂点に上り詰め、当代随一の指導者として歴史に名を残した。
実際に顔を合わせることはなかったにもかかわらず、2人の関係は半世紀余りにわたってダンスのように複雑に絡み合い、互いの「遺産」を永遠に方向づけることになった。
「彼(カーター)と父の人生のスタートは違っていた」と、昨年12月29日に100歳で死去した元米大統領について、公民権運動の象徴的指導者だったキング牧師の末娘バーニス・アルバーティン・キングは本誌に語った。
「でも面白いことに行動の価値基準は似通っていた。それは、フェアで人道的で平和で公正な社会はつくれるという信念だ」
にもかかわらず、カーターとキングは全く別の道を選んだ。
キングはアトランタのエベニーザー・バプテスト教会の有力な牧師で公民権運動の初期の活動家を父に持ち、有色人種の公民権の促進に生涯をささげた。
人種差別撤廃、投票権および労働者の権利を訴えたデモ行進など、彼の抗議活動は1964年の公民権法や65年の投票権法など画期的な法律につながった。
一方、南部の白人至上主義者の息子として生まれたカーターは、政界入り直後は人種問題で物議を醸すようなスタンスを避けていた。
ジョージア州上院議員時代は人種差別的な発言をしたことも人種差別主義的な議員たちに同調したこともなかったが、キングが成立に助力した画期的な法律を支持する発言はせず、68年のキングの葬儀にも参列しなかった。
父とカーターの絆を語るキングの娘バーニス COURTESY OF THE KING CENTER
ところが71年に州知事に就任すると、一転して「人種差別の時代は終わった」と宣言。南部の白人支持者の多くに衝撃を与えた。キングの葬儀から3年近くが過ぎていた。
キングがテネシー州メンフィスで暗殺された当時わずか5歳だったバーニスは、カーターについて次のように語った。
「父が目指したことの大筋を推進する手助けをした。それは世界から貧困と人種差別と軍国主義を一掃することだった」
州知事に就任した瞬間から、カーターはそれまで避けがちだった公民権運動の推進に残りの人生を費やすことになった。
州知事1期目には、州議会議事堂の壁を飾る南北戦争の英雄や人種差別主義者らの肖像に黒人であるキングの肖像を加えるという歴史的決断を下した。
キングの遺族は、カーターが政界で頭角を現していく姿を見守っていた。キングの父親マーチン・ルーサー・キングと妻のコレッタ・キングは、76年の民主党全国大会をカーターへの祝福の言葉で締めくくった。
アメリカを本来の場所に戻すべく主が彼を遣わされたに違いない──キングの父親の声が会場に響き渡った。
「公正かつ人道的」な社会に
あの出来事は「カーターの大統領選出に非常に大きな役割を果たした」と、バーニスは言う。
「当時アメリカでは、公民権運動が下火になる一方、人種差別撤廃やその類いの動きはまだ始まったばかり。カーターといえども黒人の支持を確実に獲得できるかどうか分からなかった」
ジョージア州以外では知名度の低い穴馬的な大統領候補だったカーターは、黒人有権者の圧倒的支持を得て、ルイジアナ、テキサス、オハイオ、ウィスコンシン、ミシシッピ、ミズーリ、ペンシルベニアといった州で現職のジェラルド・フォードに僅差で勝利。
第39代大統領として1期を務めた後、80年の選挙でロナルド・レーガンに大敗した。再選を果たせなかったことでカーターは政治的失敗の烙印を押されたが、多くの人々にとって彼の最大の遺産といえば公民権運動推進に対する功績だ。
在任中は黒人経営者の企業にも国との契約の門戸を開き、黒人の教育水準向上のために設立された「歴史的黒人大学」に対する支援を強化し、記録的な数の黒人を行政や司法の要職に任命した。
キング家のことも常に心にかけていた。
77年、カーターと妻のロサリンはキングの遺族をホワイトハウスに招き、キングに追贈する自由勲章をコレッタ夫人に贈呈。キングと彼の指導力を連邦政府が認めた初めてのケースだった。
さらに夫人が亡夫の功績をたたえて設立したキング・センターの建築費約350万ドルの調達に協力し、マーチン・ルーサー・キング国立歴史公園を建設する法案にも署名。コレッタを女性初の米国連代表団に、キングの親友・側近だったアンドリュー・ヤングを黒人初の米国連大使に指名した。
結局、カーターの指導力は州知事時代も大統領在任中も、政界引退後でさえ「彼の遺産の負の部分を上回っている」とバーニスは言う。
「人は進化し、成長し、時代は変わる」
バーニスに言わせれば、南部の白人至上主義者の息子に生まれたカーターが黒人社会との交流を基に公民権運動の苦境を理解しようと決断したことは、その指導力の証しだ。
カーターも自分の父親も「勇気あるリーダーだった」と彼女は語った。「彼らは共に活動する仲間でさえ同意しないことを実践した」
「私たちは時に、貴重な絆を失いたくないばかりにおじけづいたり弱腰になったりするが、父もジミー・カーターも自分の良心に忠実だった」
キングは暗殺当時39歳、生きていれば今年1月15日で96歳だった。彼の功績をたたえる祝日で、1月の第3月曜日と定められたキング記念日が今年はトランプ政権2期目のスタートと重なったことを、末娘バーニスは亡き父からのメッセージと受け取っている。
「状況は皮肉にも父の『夢』を改めて思い起こさせる」
バーニスにとって、カーターの死は「彼が体現した(公正かつ人道的な社会という)価値基準をアメリカがじっくり考える」必要性を浮き彫りにする。
「キング牧師記念日にも私たちはアメリカの価値基準について再考することになるだろう。アメリカ社会をより公正かつ人道的にするのは国民一人一人の義務。例外などない」
<選んだ道は違っても彼は父の夢を体現した──二人の足跡を、末娘バーニス・アルバーティン・キングが振り返る。「勇気ある指導者」の遺したものとは?>
わずか5年違いで米ジョージア州に生を受けたジミー・カーター(Jimmy Carter)とマーチン・ルーサー・キングJr.(Martin Luther King Jr.)。
共に公民権運動の最中に政治活動に身を投じて頂点に上り詰め、当代随一の指導者として歴史に名を残した。
実際に顔を合わせることはなかったにもかかわらず、2人の関係は半世紀余りにわたってダンスのように複雑に絡み合い、互いの「遺産」を永遠に方向づけることになった。
「彼(カーター)と父の人生のスタートは違っていた」と、昨年12月29日に100歳で死去した元米大統領について、公民権運動の象徴的指導者だったキング牧師の末娘バーニス・アルバーティン・キングは本誌に語った。
「でも面白いことに行動の価値基準は似通っていた。それは、フェアで人道的で平和で公正な社会はつくれるという信念だ」
にもかかわらず、カーターとキングは全く別の道を選んだ。
キングはアトランタのエベニーザー・バプテスト教会の有力な牧師で公民権運動の初期の活動家を父に持ち、有色人種の公民権の促進に生涯をささげた。
人種差別撤廃、投票権および労働者の権利を訴えたデモ行進など、彼の抗議活動は1964年の公民権法や65年の投票権法など画期的な法律につながった。
一方、南部の白人至上主義者の息子として生まれたカーターは、政界入り直後は人種問題で物議を醸すようなスタンスを避けていた。
ジョージア州上院議員時代は人種差別的な発言をしたことも人種差別主義的な議員たちに同調したこともなかったが、キングが成立に助力した画期的な法律を支持する発言はせず、68年のキングの葬儀にも参列しなかった。
父とカーターの絆を語るキングの娘バーニス COURTESY OF THE KING CENTER
ところが71年に州知事に就任すると、一転して「人種差別の時代は終わった」と宣言。南部の白人支持者の多くに衝撃を与えた。キングの葬儀から3年近くが過ぎていた。
キングがテネシー州メンフィスで暗殺された当時わずか5歳だったバーニスは、カーターについて次のように語った。
「父が目指したことの大筋を推進する手助けをした。それは世界から貧困と人種差別と軍国主義を一掃することだった」
州知事に就任した瞬間から、カーターはそれまで避けがちだった公民権運動の推進に残りの人生を費やすことになった。
州知事1期目には、州議会議事堂の壁を飾る南北戦争の英雄や人種差別主義者らの肖像に黒人であるキングの肖像を加えるという歴史的決断を下した。
キングの遺族は、カーターが政界で頭角を現していく姿を見守っていた。キングの父親マーチン・ルーサー・キングと妻のコレッタ・キングは、76年の民主党全国大会をカーターへの祝福の言葉で締めくくった。
アメリカを本来の場所に戻すべく主が彼を遣わされたに違いない──キングの父親の声が会場に響き渡った。
「公正かつ人道的」な社会に
あの出来事は「カーターの大統領選出に非常に大きな役割を果たした」と、バーニスは言う。
「当時アメリカでは、公民権運動が下火になる一方、人種差別撤廃やその類いの動きはまだ始まったばかり。カーターといえども黒人の支持を確実に獲得できるかどうか分からなかった」
ジョージア州以外では知名度の低い穴馬的な大統領候補だったカーターは、黒人有権者の圧倒的支持を得て、ルイジアナ、テキサス、オハイオ、ウィスコンシン、ミシシッピ、ミズーリ、ペンシルベニアといった州で現職のジェラルド・フォードに僅差で勝利。
第39代大統領として1期を務めた後、80年の選挙でロナルド・レーガンに大敗した。再選を果たせなかったことでカーターは政治的失敗の烙印を押されたが、多くの人々にとって彼の最大の遺産といえば公民権運動推進に対する功績だ。
在任中は黒人経営者の企業にも国との契約の門戸を開き、黒人の教育水準向上のために設立された「歴史的黒人大学」に対する支援を強化し、記録的な数の黒人を行政や司法の要職に任命した。
キング家のことも常に心にかけていた。
77年、カーターと妻のロサリンはキングの遺族をホワイトハウスに招き、キングに追贈する自由勲章をコレッタ夫人に贈呈。キングと彼の指導力を連邦政府が認めた初めてのケースだった。
さらに夫人が亡夫の功績をたたえて設立したキング・センターの建築費約350万ドルの調達に協力し、マーチン・ルーサー・キング国立歴史公園を建設する法案にも署名。コレッタを女性初の米国連代表団に、キングの親友・側近だったアンドリュー・ヤングを黒人初の米国連大使に指名した。
結局、カーターの指導力は州知事時代も大統領在任中も、政界引退後でさえ「彼の遺産の負の部分を上回っている」とバーニスは言う。
「人は進化し、成長し、時代は変わる」
バーニスに言わせれば、南部の白人至上主義者の息子に生まれたカーターが黒人社会との交流を基に公民権運動の苦境を理解しようと決断したことは、その指導力の証しだ。
カーターも自分の父親も「勇気あるリーダーだった」と彼女は語った。「彼らは共に活動する仲間でさえ同意しないことを実践した」
「私たちは時に、貴重な絆を失いたくないばかりにおじけづいたり弱腰になったりするが、父もジミー・カーターも自分の良心に忠実だった」
キングは暗殺当時39歳、生きていれば今年1月15日で96歳だった。彼の功績をたたえる祝日で、1月の第3月曜日と定められたキング記念日が今年はトランプ政権2期目のスタートと重なったことを、末娘バーニスは亡き父からのメッセージと受け取っている。
「状況は皮肉にも父の『夢』を改めて思い起こさせる」
バーニスにとって、カーターの死は「彼が体現した(公正かつ人道的な社会という)価値基準をアメリカがじっくり考える」必要性を浮き彫りにする。
「キング牧師記念日にも私たちはアメリカの価値基準について再考することになるだろう。アメリカ社会をより公正かつ人道的にするのは国民一人一人の義務。例外などない」