ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<「浮世絵」の由来から、人気絵師の変遷、当時の「錦絵」の役割について、大河ドラマ「べらぼう」を楽しむにあたり、知っておくと細かな描写がより味わい深くなる知識をお届けする>
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』1月26日放送の第4回で蔦重が吉原を駆けまわって金策を練り、制作に漕ぎ着けた女郎たちの「錦絵」。「浮世絵」の中でも多色摺りの華やかなものを「錦絵」と呼ぶが、ドラマの中で女郎屋の忘八店主たちが出版を所望した「錦絵」とは、当時実際にはどのような意味を持つものだったのだろうか。
以前の記事大河ドラマ『べらぼう』が10倍面白くなる基礎知識! 江戸の出版の仕組みと書物の人気ジャンルでは、「書物問屋」と「地本問屋」の違いや、浮世絵も含む書物の制作工程についても詳しく解説しているので、合わせて読んでいただけるといいだろう。
本記事は書籍『Pen Books 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。
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◇ ◇ ◇
憂世から浮世へ、「浮世絵」の誕生
江戸時代に庶民を中心に人気を集めた浮世絵。
「浮世」とは「この世」の意であるが、元来、憂鬱の「憂」の字を当てた「憂世」、つまり「辛い世」を意味してもいた。というのも、江戸時代以前、中世から戦国時代にかけて、多くの戦乱が相次ぎ、多くの庶民にとってこの世とは、辛いことばかりの世界だったのである。
その後、徳川幕藩体制のもと、天下泰平の世となり、社会が安定してくると、「浮き浮きと毎日を暮らしたい」という庶民が明るく暮らしを楽しむ余裕が生まれてきた。その過程で、今現在のこの世界は、「憂世」から「浮世」へと名を変えたのである。こうして現代の風俗を肯定的に捉えた当世風の絵は、「浮世絵」と呼ばれるようになった。
1657(明暦3)年、江戸の約6割が焼失する明暦の大火が起こるが、この未曾有の災害から立ち直る過程で、江戸に復興景気が巻き起こる。その際、江戸でも出版文化が花開き、木版印刷によって印刷物の流通が盛んになっていった。
仮名交じりの娯楽的な読み物「仮名草子」が流行し、そのなかから挿絵入りの仮名草子である「浮世草子」が誕生する。この「浮世草子」の挿絵から、独立して墨摺一枚絵として生まれたのが、「浮世絵」であった。この浮世絵の初期に活躍したのが、有名な菱川師宣であった。
『吉原の躰(よしわらのてい)』菱川師宣画 元禄年間前半(1688~1704) 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
「見返り美人図」菱川師宣画 元禄年間前半(1688~1704) 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
浮世絵の祖・菱川師宣は1682(天和2)年、最初期の浮世草子である絵入本、井原西鶴の『好色一代男』の挿絵を手がけた。ここに浮世絵の歴史が始まる。師宣は「見返り美人図」でも有名な絵師で、その後、肉筆画(版画ではない一点物の絵)・木版画を含めて、さまざまな浮世絵・春画作品を残している。
やがて、複数の色版を重ねて印刷する多色摺りの版画が量産可能となり、錦絵とも呼ばれた。老中・田沼意次による積極財政策によって経済が刺激された時代には、華やかな多色摺りで巧みに演出した鈴木春信らが活躍した。
「見立鉢の木(みたてはちのき)」鈴木春信画 18世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)
「鍵屋お仙と柳屋お藤(かぎやおせんとやなぎやおふじ)」鈴木春信画 18世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)
江戸時代の庶民の日々の楽しみ、エンターテインメントと言えば、やはり「遊び」と「芝居」である。江戸の「遊び」を象徴するのは吉原遊郭と遊女たち、江戸の「芝居」なら江戸歌舞伎と歌舞伎役者たちである。
前者は「美人画」として、後者は「役者絵」として、当世評判の遊女や芸者、町娘、歌舞伎の興行に当てた人気役者を描いた浮世絵が大ヒットする。まさに絵本は流行ファッション誌であり、一枚絵は人気アイドルのブロマイド写真のようなものである。
寛政期(1789〜1801)には、喜多川歌麿の美人画や東洲斎写楽の役者絵などが登場し、庶民を楽しませた。
また、今日のような広告メディアがまだ発達していない時代、浮世絵はチラシや広告の役割も果たしていく。伊勢参りなどの旅行ブームが起きるなかで、風景を描いた浮世絵は、人気の観光スポットを紹介する一種の旅行雑誌的な役割も果たすようになった。葛飾北斎「富嶽三十六景」や歌川広重「東海道五拾三次」はよく知られている。
「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(ふがくさんじゅうろっけい かながわおきなみうら)」 葛飾北斎画 1831(天保2)年頃 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)
「東海道五拾三次 庄野・白雨(とうかいどうごじゅうさんつぎ しょうの・はくう)」 歌川広重画 1834~36(天保5~7)年 国立国会図書館蔵
桃源郷・新吉原の流行を伝えた美人画
急速に都市整備が行われた江戸において、公許の遊郭である吉原が誕生したのは、1617(元和3)年のことである。江戸の中心部である日本橋富沢町(現在の日本橋人形町)に置かれたが、1657(明暦3)年の明暦の大火によって焼失してしまう。時の幕府としても、江戸の中心部に遊廓があることを不適当と考え、吉原を浅草へと移動させた。これにより、日本橋時代を「元吉原」、浅草移転以降を「新吉原」という。
「青楼二階之図(せいろうにかいのず) 歌川国貞画 1813(文化10)年 国立国会図書館蔵
日本全国には、京都の島原遊廓をはじめ、吉原以外にも公許の遊郭があった。それ以外にも非合法で安価な私娼が営業する岡場所も江戸の各地に存在したが、そうした遊び場のなかでも吉原は畑のなかにつくられた人工の町であり、巧みにその閉ざされた世界を演出した劇的な空間であった。
碁盤の目のような吉原の目抜き通りである仲之町通りには植え込みが設けられ、3月3日の節句には、そのためだけに桜の木が運び込まれ、花見の名所に変わる。
また、旧暦8月1日から、30日間にわたって行われる「俄(にわか)」では、山車(だし)が現れる。2階立ての山車には、吉原芸者たちが乗り込み、演奏や踊りを担う。吉原の一大パレードである。
こうした非日常の空間を目当てに、多くの文化人が集まり、そのなかから新しい文化・流行が誕生していった。遊女が着る着物や髪型、装飾品などは浮世絵(美人画)のなかで表現され、吉原の内外で流通し話題を呼んだ。しかし、他方で吉原の華やかな世界の裏で、そこで働く遊女たちの過酷な生活があったことも事実である。
『Pen BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』
ペン編集部[編]
CCCメディアハウス[刊]
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<「浮世絵」の由来から、人気絵師の変遷、当時の「錦絵」の役割について、大河ドラマ「べらぼう」を楽しむにあたり、知っておくと細かな描写がより味わい深くなる知識をお届けする>
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』1月26日放送の第4回で蔦重が吉原を駆けまわって金策を練り、制作に漕ぎ着けた女郎たちの「錦絵」。「浮世絵」の中でも多色摺りの華やかなものを「錦絵」と呼ぶが、ドラマの中で女郎屋の忘八店主たちが出版を所望した「錦絵」とは、当時実際にはどのような意味を持つものだったのだろうか。
以前の記事大河ドラマ『べらぼう』が10倍面白くなる基礎知識! 江戸の出版の仕組みと書物の人気ジャンルでは、「書物問屋」と「地本問屋」の違いや、浮世絵も含む書物の制作工程についても詳しく解説しているので、合わせて読んでいただけるといいだろう。
本記事は書籍『Pen Books 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。
※蔦屋重三郎 関連記事
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憂世から浮世へ、「浮世絵」の誕生
江戸時代に庶民を中心に人気を集めた浮世絵。
「浮世」とは「この世」の意であるが、元来、憂鬱の「憂」の字を当てた「憂世」、つまり「辛い世」を意味してもいた。というのも、江戸時代以前、中世から戦国時代にかけて、多くの戦乱が相次ぎ、多くの庶民にとってこの世とは、辛いことばかりの世界だったのである。
その後、徳川幕藩体制のもと、天下泰平の世となり、社会が安定してくると、「浮き浮きと毎日を暮らしたい」という庶民が明るく暮らしを楽しむ余裕が生まれてきた。その過程で、今現在のこの世界は、「憂世」から「浮世」へと名を変えたのである。こうして現代の風俗を肯定的に捉えた当世風の絵は、「浮世絵」と呼ばれるようになった。
1657(明暦3)年、江戸の約6割が焼失する明暦の大火が起こるが、この未曾有の災害から立ち直る過程で、江戸に復興景気が巻き起こる。その際、江戸でも出版文化が花開き、木版印刷によって印刷物の流通が盛んになっていった。
仮名交じりの娯楽的な読み物「仮名草子」が流行し、そのなかから挿絵入りの仮名草子である「浮世草子」が誕生する。この「浮世草子」の挿絵から、独立して墨摺一枚絵として生まれたのが、「浮世絵」であった。この浮世絵の初期に活躍したのが、有名な菱川師宣であった。
『吉原の躰(よしわらのてい)』菱川師宣画 元禄年間前半(1688~1704) 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
「見返り美人図」菱川師宣画 元禄年間前半(1688~1704) 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
浮世絵の祖・菱川師宣は1682(天和2)年、最初期の浮世草子である絵入本、井原西鶴の『好色一代男』の挿絵を手がけた。ここに浮世絵の歴史が始まる。師宣は「見返り美人図」でも有名な絵師で、その後、肉筆画(版画ではない一点物の絵)・木版画を含めて、さまざまな浮世絵・春画作品を残している。
やがて、複数の色版を重ねて印刷する多色摺りの版画が量産可能となり、錦絵とも呼ばれた。老中・田沼意次による積極財政策によって経済が刺激された時代には、華やかな多色摺りで巧みに演出した鈴木春信らが活躍した。
「見立鉢の木(みたてはちのき)」鈴木春信画 18世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)
「鍵屋お仙と柳屋お藤(かぎやおせんとやなぎやおふじ)」鈴木春信画 18世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)
江戸時代の庶民の日々の楽しみ、エンターテインメントと言えば、やはり「遊び」と「芝居」である。江戸の「遊び」を象徴するのは吉原遊郭と遊女たち、江戸の「芝居」なら江戸歌舞伎と歌舞伎役者たちである。
前者は「美人画」として、後者は「役者絵」として、当世評判の遊女や芸者、町娘、歌舞伎の興行に当てた人気役者を描いた浮世絵が大ヒットする。まさに絵本は流行ファッション誌であり、一枚絵は人気アイドルのブロマイド写真のようなものである。
寛政期(1789〜1801)には、喜多川歌麿の美人画や東洲斎写楽の役者絵などが登場し、庶民を楽しませた。
また、今日のような広告メディアがまだ発達していない時代、浮世絵はチラシや広告の役割も果たしていく。伊勢参りなどの旅行ブームが起きるなかで、風景を描いた浮世絵は、人気の観光スポットを紹介する一種の旅行雑誌的な役割も果たすようになった。葛飾北斎「富嶽三十六景」や歌川広重「東海道五拾三次」はよく知られている。
「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(ふがくさんじゅうろっけい かながわおきなみうら)」 葛飾北斎画 1831(天保2)年頃 東京国立博物館蔵 出典:ColBase(http://colbase.nich.go.jp/)
「東海道五拾三次 庄野・白雨(とうかいどうごじゅうさんつぎ しょうの・はくう)」 歌川広重画 1834~36(天保5~7)年 国立国会図書館蔵
桃源郷・新吉原の流行を伝えた美人画
急速に都市整備が行われた江戸において、公許の遊郭である吉原が誕生したのは、1617(元和3)年のことである。江戸の中心部である日本橋富沢町(現在の日本橋人形町)に置かれたが、1657(明暦3)年の明暦の大火によって焼失してしまう。時の幕府としても、江戸の中心部に遊廓があることを不適当と考え、吉原を浅草へと移動させた。これにより、日本橋時代を「元吉原」、浅草移転以降を「新吉原」という。
「青楼二階之図(せいろうにかいのず) 歌川国貞画 1813(文化10)年 国立国会図書館蔵
日本全国には、京都の島原遊廓をはじめ、吉原以外にも公許の遊郭があった。それ以外にも非合法で安価な私娼が営業する岡場所も江戸の各地に存在したが、そうした遊び場のなかでも吉原は畑のなかにつくられた人工の町であり、巧みにその閉ざされた世界を演出した劇的な空間であった。
碁盤の目のような吉原の目抜き通りである仲之町通りには植え込みが設けられ、3月3日の節句には、そのためだけに桜の木が運び込まれ、花見の名所に変わる。
また、旧暦8月1日から、30日間にわたって行われる「俄(にわか)」では、山車(だし)が現れる。2階立ての山車には、吉原芸者たちが乗り込み、演奏や踊りを担う。吉原の一大パレードである。
こうした非日常の空間を目当てに、多くの文化人が集まり、そのなかから新しい文化・流行が誕生していった。遊女が着る着物や髪型、装飾品などは浮世絵(美人画)のなかで表現され、吉原の内外で流通し話題を呼んだ。しかし、他方で吉原の華やかな世界の裏で、そこで働く遊女たちの過酷な生活があったことも事実である。
『Pen BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』
ペン編集部[編]
CCCメディアハウス[刊]
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