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【悼む】34年前の深夜、ハワイのホテルの部屋に敏いとうさんが短パン、Tシャツ、ビーサン姿で

日刊スポーツ 2024年9月14日 22時14分

「敏いとうとハッピー&ブルー」のリーダーとして活躍した敏(とし)いとうさん(本名伊藤敏=いとう・さとし)が10日に死去したことが14日、分かった。84歳。熊本県出身。葬儀・告別式は親族で行う。

◇  ◇  ◇

ムード歌謡の世界で、天下を取った敏さんがその生涯を閉じた。ハッピー&ブルーのリーダーとして、1974年(昭49)の「わたし祈ってます」、77年の「星降る街角」、79年の「よせばいいのに」とミリオンセラーを送り出した。

敏さんと1対1で対峙(たいじ)したのは、1993年(平4)1月のハワイだった。当時は毎年、暮れから正月にかけてハワイに日本からたくさんの芸能人がバカンスに出かけた。インタビューを受けたり、グラビア撮影をするタレントも多かった。ワイドショー、女性誌、そしてスポーツ新聞も取材のために記者を派遣した。

今では信じられないが当時、正月のハワイは芸能取材の花形現場だった。西田ひかる、神田正輝・松田聖子夫妻(当時)、細川ふみえ、京本政樹ら…。ハワイ入りする芸能人をホノルル空港で待ち構え、取材をして原稿を書いて送った。それとは別に、日本にいたときからお願いして、女優中江有里のグラビア撮影に同行してインタビューを受けてもらった。中江が19年(令元)に26年ぶりに再開した歌手活動を取材しているのだから、われながらあきれる。

そして、93年1月3日(日本時間4日)のことだ。敏は、その2年前に所属事務所社長から借金5億円を返せと告発され、歌手活動休止に追い込まれていた。突如としてハワイに集まった芸能マスコミの前で会見して、その年の4月から歌手活動を再開することを宣言した。金銭トラブルについては「あくまでビジネス上の問題。弁護士に任せている。スキャンダルより歌で頑張りたい」と力強く言い切った。

日本の会社に電話して、相手の社長の言い分も取材した上で、敏さんの言い分を記事にした。ハワイと日本の時差は5時間。原稿の締め切りが迫る日本の午後7時が、ハワイの深夜O時。さっさと寝て、5時間後にはホノルル空港に向かわなくてはならない。

そんな時、ホテルの部屋の呼び鈴がなった。ドアを開けると、そこには短パンにTシャツ、ビーチサンダル姿の敏さんがいた。会見ではジャケットを着ていたが、リラックスした格好だった。取材後に名刺を渡して言葉を交わした時に、滞在したホテルのことを告げていたのだろう。

ドアの中に入っての立ち話で、敏さんは「今日の自分の言い分は分かってくれたか、伝わったかな」と質問してきた。東京のデスクに電話して、相手の言い分も取材していると告げると「大丈夫かな」と少し不安げな顔をしていたが、椅子に座ってあれこれ話した。

「実は○○さんは、俺の先輩なんだよ」と、当時の直属の上司である青学大空手部出身の部長の名前を出してきた。敏さんは日大獣医学部出身で、作曲家遠藤実氏のペットを診察したのがきっかけで芸能界入り。空手有段者の腕っ節の強さを見込まれて、来日時のフランク・シナトラのボディー・ガードを務めていたことでも知られていた。「日大の前に青学にいてアメフトをやってたんだよ」と、笑顔で体育会の青春時代のことを振り返っていた。

ネット、スマホなどない時代。帰国してから部長に報告すると「そうなんだよ。静岡の支局にいた時に、近くでコンサートだって突然訪ねてきた」と笑っていた。

その後は、会見の取材で再会したが、深く話す機会はなかった。2010年には国民新党から参議院選挙に出馬して落選。14年に心筋梗塞で手術など、年齢とともに病を発して闘っていた。

31年8カ月前、ハワイのホテルの一室で困った顔や笑顔を見せてくれた敏いとうさん。ありがとうございました。今は、安らかに眠ることをお祈りします。【小谷野俊哉】

◆敏(とし)いとう 本名・伊藤敏。1940年(昭15)1月3日、熊本県出身。青学大経済学部、日大獣医学部卒。71年に「敏いとうとハッピー&ブルー」を結成してリーダーに。「わたし祈ってます」「星降る街角」「よせばいいのに」などが大ヒット。

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