阪神・淡路大震災発生から30年。落語家桂あやめ(60)が、災害を語ることへの思いを明かした。
1995年1月17日、故郷の神戸を襲った地震で、あやめは母を失った。
「今年で桂あやめになって30年なんです。そんなにたつんかと。当時のチラシと今のチラシの自分を比べても全然違うけど、母親は63歳で亡くなって止まってる。母は元気で、(地震の)前日も電話で『来月、カニ食べに行こか』ってしゃべってたけど、その何時間後にはいなくなった」
あやめは92年、スナック経営者の女性4人が殺害されたスナックママ連続殺人事件の犯人に自宅に侵入され、殺されそうになった経験があった。そのため、母の死という悲しみも、意外なほど冷静に受け止めたという。
「死ぬことって日常なんやって。今まではそんなこと思ったことなかった。80歳くらいで身に降りかかると思っていたものが、突然やってきて日常的なものやと身をもって思った。母親が亡くなった時も『やっぱりな』って、突然に死がやってくるものだと冷静に思った。その時に死ななかったから、順番通りに母親も見送れて良かったなって」
病院で看護助手をしていた母は常々、「ぽっくり逝きたい」と話していたといい、「それで言うたら、願いがかないすぎた。突然こんなことがやってくるとは思ってないと思うけど、母親の人生としては、それで良かったんではないかと自分では思うようにしてた」と振り返る。
震災について語るあやめの姿は、どこか淡々としているふうにも映る。
あやめは地震発生時、大阪市内に住んでいた。自身も激しい揺れに襲われたが、無事だった。
「私は半分神戸人で半分大阪人。母親と実家は失いましたけど、私自体はビックリするくらいの横揺れでしたけど、水も電気もガスもないところや避難所で暮らしてないし、埋もれている人を助けたとか助けられなかったとかつらい経験はしていない。被災者的なインタビューを受けると、被災者でもないという微妙な立場で震災を語って良いのかとも思う」
東日本大震災が起き、コメントを求められた時は、取材された記者から「共感できない」とも言われた。
「30年たって、他にももっとひどい目に遭った方が出てきて、しゃべりにくいというのはある。もっとリアルに今、困っている人がいるって言われたら、昔のことやと笑うこともできない。神戸の話をして新聞とかに載った時に、他の被災地の人が見たらどう思っているのだろうって心配はありますよ」
それだけに、震災を語ることには「自分の中にあった経験の1つ。語ってほしいと言われたら、語りますけど。特に震災のために何をやろうっていうのはない。それはさっきも言ったように、私がちょっとよそ者的なところがあるから」と受け止めている。
実際、東日本大震災の被災地には足を運んでいない。91年の長崎、雲仙・普賢岳の噴火の際に、避難所で落語をしてほしいとの依頼を受けて赴いた時の体験がある。
「体育館でみんなが段ボールの上に毛布ひいて寝てるんですけど、『今から落語の先生が落語してくれるからどいて!』って。これは違う、アカンやろって。だから、震災後も積極的には行ってないんですよ。チャリティーで避難所回るとかは“よう行かん(行けない)”と。大阪人と神戸人の自分がおったら、神戸人の自分が違うってなって。無理やり笑えとか、聞いてください-ってものではない。自分の意思で元気になった人から見たいものを見に行くのはいいけど」
そんなあやめの支えとなっているのが娘の存在だ。
「娘が生まれて育てることで、母親ってこうやったんやって後から実感することができた。娘も母親の面立ちをしている。私より母親にすごい性格が似てる。自分も母親が言うてたようなことを言うし、同じような歌を歌ったりする。多分、娘に子供ができたら、そんなことをするやろうなと思うと、私の中で母親も父親もおるわと感じることは多い」
職業が落語家だったのも大きい。母親の葬儀を済ませ、震災3日目には落語会に出演していた。
「ちゅうちょするところはあるんですけど、落語家なんで、今やから笑える噺(はなし)とか、実はあの時、こんなアホなこと言うてる人がおった、こんな厚かましい人がおったとか、そういうことを笑いのネタとして。わりと早い時期から神戸とかでもしゃべってましたけど、私自身が実家が被害に遭っているのをお客さんも知ってるからこそ言える。同じ経験をしてるから。よそから来た人が、神戸のあるあるネタみたいなのを言うても『アンタ、知らんやろ?』ってなる」
客は笑ってくれた。早く日常を取り戻したい、元の生活をしたいと願う気持ちを感じていた。そして、話すことで自分も救われた。
「人前に出て笑わせる立場になることで、『自分は克服してる、次のこと考えてるよ』ってことを人にもアピールすることができる。笑いっていうのは、人の気とかパワーを乗せてドンと帰ってくる。こっちも頑張って笑わそうと思ってパワーを出してますけど、1に100とかで帰ってくるので充電できる。泣くというのも発散するけど、それは私らの仕事じゃない。歌手とか講釈師の方が向いてる。それはこの仕事で良かったところですね」
震災から30年。町並みは復興されたが「きれいになったところを見れば見るほど、なくしたものを見てしまう。きれいになって良くなったとはあまり思えない。みんなバラバラになって、コミュニティーがバラバラになった」。復興が人付き合いのなくならないものであることを願っている。
語り継ぐことが困難になる「30年限界説」もささやかれる。
「ずっと落語家目線でしゃべっていくんでしょうけど、いつまでも何十年悲しい言うててもしゃないやんってのと、手(を)あわせるのがなくなっていくのも寂しいっていう両方があって。私、毎年(震災が発生した)5時46分に東遊園地が映ってるテレビを付けて、黙とうを一緒にやってます」
毎年のルーティン。「一緒に手を合わせてくれる人がたくさんいるのは私にとって救い。30年が過ぎて集いがなくなって、テレビも放送しなくなったら寂しいなと思う。私は続けていきたいと思う」と言う。
これからも落語家の目線で震災と向き合っていく。【阪口孝志】
◆桂(かつら)あやめ本名・入谷ゆか。1964年(昭39)2月1日生まれ、兵庫県出身。82年、5代桂文枝に入門。桂花枝(はなし)の名前で初舞台。94年、師匠の前々名である「あやめ」を襲名した。
◆阪神・淡路大震災 1995年1月17日午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源にマグニチュード(M)7・3の地震が発生。神戸市、淡路島などで観測史上初となる震度7を記録した。死者6434人、重傷者約1万人、被害家屋は約64万棟。同震災から、避難生活のストレスなどで体調が悪化して亡くなる「災害関連死」との概念が生まれた。阪神高速が横向けに倒壊した映像は世界に衝撃を与え、その後全国の道路橋などで耐震性の強化が進められた。