2014年に発刊されて話題になった「サル化する人間社会」(山極寿一・著)は、和を重視して勝ち負けがなく、仲間をいたわり合う「ゴリラ社会」と、序列が厳格で個々の利益と効率を重視する「サル社会」を分け、人間の社会が「サル社会」にどんどん近づいていると警鐘を鳴らしています。
例えば「食べる」という行為について、ゴリラは仲間と食べ物を分け合う一方、サルはまったく異なるようで、山極先生は毎日新聞の連載で次のように述べておられます。
「サルの食事は人間とは正反対である。群れで暮らすサルたちは、食べるときは分散して、なるべく仲間と顔を合わせないようにする。(中略)食物が限られていれば、仲間と出くわしてしまうことがある。そのときは、弱い方のサルが食物から手を引っ込め、強いサルに場所を譲る。サルたちは互いにどちらが強いか弱いかをよくわきまえていて、その序列に従って行動する。それに反するような行動をとると、周りのサルがよってたかってそれをとがめる。優劣の序列を守るように、勝者に味方するのである。強いサルは食物を独占し、他のサルにそれを分けることはない。サルの社会では、食物を囲んで仲良く食事をする光景は決して見られない」
山極先生が指摘されるように、昔の日本は「ゴリラ社会」のようでした。今のように十分にあったわけではない食べ物を家族で分けあったり、ご近所にはお裾分けをしたりといった習慣もありました。もちろん食べ物の話に限らず、職業や経済的な面で上下や優劣をつけず、それぞれの違いを認め、助け合いがあって、協力して年中行事や冠婚葬祭も行われ、地域には確かな共同体が存在していました。
その共同体は、近年どんどんと崩れていき、皆が「個」となりバラバラになってしまい、その「個」に勝ち組・負け組という色分けがなされ、負け組は自己責任だと突き放されて、勝ち組はますます勝って格差がさらに拡大し、テレビでもネットでも、独り勝ちをしたボスザルのような人たちが闊歩(かっぽ)して、それが褒めそやされている、まさに「サル社会」が出現しています。
そういえば、タワーマンションの上層階に住む人は下層階に住む人々を見下し、下層階に住む人たちは「タワマンの下に住んでいます」と卑下するのだそうで、それはまるで“猿山”のようです。
■幸福なのは「ゴリラ的」シニア?
中高年の中には、いつまでも若者と張り合い、経験や知恵の不足を理由に若い世代を下に見て、自慢話や自分の話ばかりをしゃべりたがり、常にいわゆる「マウント」を取ろうとする人がいます。同世代に対して、地位や名誉やお金をちらつかせながら上に立とう、勝とうとする人もいます。
権利や受益者としての立場ばかり主張する。そして、上に立っている(と思い込んでいる)自分の立場を脅かすものに対しては、サルのようにすぐに興奮し、怒りを露わにする。「サル・シニア」といえるかもしれません。
現役時代、会社で偉いポジションに就いていた頃なら、そんなサル的な姿勢も、その実績や権限がゆえに周囲が認め、忖度(そんたく)し、容認もされたでしょうが、引退後に環境が変わってしまえば、単に嫌がられ、遠ざけられる要素にしかなりません。そうして孤立を深める結果となるでしょう。
一方、楽しそうに暮らしておられる高齢者を見ると、これとは正反対。同世代にも若者にも、年齢やその他の属性などは気にせず、上下や優劣といった意識もなく、誰に対しても同じように丁寧に、でも愛嬌やユーモアを持って接しています。立派なキャリアや業績、趣味や活動などについても自分からは話されないので、聞いて初めて驚いたり、感心したりすることも少なくありません。
マウントを取るどころか、むしろ控えめ。いつも平常心で穏やかで、ご機嫌にしていらっしゃる。「サル・シニア」と対照させ、敬意を込めて「ゴリラ・シニア」と呼びたいと思います。
■ゴリラに学ぶ「質のよいコミュニティーづくり」
人間は社会的動物で、そもそも「サル社会」には向いていません。年を取ると余計にそうで、日常のちょっとしたことを含めて、いろいろな手助けを得たり、互いに助け合ったりという必要が生じてくるからです。「サル・シニア」はそこをあまり分かっていません。だから、高齢期に幸福になりやすいのは「ゴリラ・シニア」なのですが、それでも「サル化」していく世の中では、幸せに生きることが難しくなっているのかもしれません。
高齢期の健康維持や幸福感の向上について、医療・看護・介護などの分野を含む多くの研究者がコミュニティーの重要性を指摘するようになってきました。ただし、単に集まればいいということではありません。共助や互助が実現するための、相互理解や互いへの敬意、豊かな関係性や交流があることがポイントとなります。そして、そんな質のよいコミュニティーづくりは、ゴリラに学べということです。
NPO法人・老いの工学研究所 理事長 川口雅裕