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【骨になるまで・日本の火葬秘史】上皇ご夫妻は400年ぶりでも「火葬」を望まれた 新時代の「送り方・送られ方」を考える

NEWSポストセブン 2024年6月18日 11時15分

 エンディングノートに遺言書、墓じまい……「終活」はブームを超え、たしなみとなった。しかし、最後の最後「骨になる」瞬間を想像する人はほとんどいない。ジャーナリスト、伊藤博敏氏が、弔いの終着地である「火葬」を誰が担い、どう行われてきたかを明らかにし、新時代の「送り方・送られ方」を考えていく。【第1回】

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 無縁社会の進行に合わせるように「孤独死」の件数は増加し、65才以上に限っても年間で6万8000人に上ると推計されている。

 骨になるときはひとり──それを強く印象付けたのは、新型コロナウイルスが大流行の兆しを見せ始めていた2020年3月29日の喜劇タレント・志村けんのコロナ死だ。

 志村の家族は病院で遺体に面会できないだけでなく、感染の危険性があるからと火葬場への同行も許されず、ようやく対面できたのは自宅近くでまだ生暖かい骨箱を受け取ったときだったという。

 葬儀が行われたのは4月12日。親族と事務所関係者30人弱で執り行われた寂しき「家族葬」だった。大物タレントらしくない孤独な旅立ちは、ウイルスの危険性を世に伝えるだけでなく、変わりつつあった「葬儀の在り方」を“追認”したという意味で、葬儀史の転換点となったと思われた。

 葬儀は、2日間にわたって通夜と告別式を行う「一般葬」から、告別式と火葬だけの「一日葬」や火葬場で焼くのみの「直葬」へ。墓も、家単位で継承されていく「一般墓」から、他者と共に葬られる「永代供養墓」や「樹木葬」、「散骨」へ──志村の葬儀は、無縁化が進む現代の「弔い事情」の反映とも取れるだろう。

 しかし、どんなに弔いが簡素化されても、最後は誰もが「骨」になって旅立つ事実は変わらない。

 火葬率が99.97%に上る日本では、「遺体を火葬する」ことと弔いはそのままイコールになるといっても過言ではない。

 コロナ禍と同じかそれ以上の未曽有の事態だった東日本大震災では、葬儀関係者が遺族や地域社会の気持ちをすくい取り、迅速に動いた。

 2011年3月11日、激しい地震と直後の津波が東北を襲ったその日から、浄土真宗本願寺派など仏教各宗派は災害救援本部などを設置して対策に当たった。創価学会などの新宗教団体も同様だった。

 寺院や神社は一時避難所など救援の拠点となり、葬儀各社は宮城県葬祭業協同組合が中心となって災害対策本部を設置し水害に遭っていない葬祭会館を遺体安置所とした。なかでも急がれたのは遺体を納める棺で、最初の18日間で6450本を用意した。

 火葬場も被害に遭ったのは同様で、数千の遺体が安置所に置かれたまま火葬できず、「仮埋葬」という形で土葬として処理された。だが、「焼いて骨にして送ってやりたい」という遺族の意向は強く、5月に入ると葬儀社が腐乱した遺体を掘り起こして再入棺し、各地の火葬場が引き受けて焼骨した。

火事と葬儀だけは地域で面倒を見る

 そもそも「故人の骨を悼む」現代の葬儀の形が明確になり始めたのは江戸時代中期以降。平安時代までは葬送の地に運んで遺棄する「風葬」が一般的だった。京では鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)、化野(あだしの)などの郊外がそれに選ばれ、運ぶだけの人手がなければ、道端や河原に投げ捨てられた。

「弔い」は仏教の普及に連動してきた。鎌倉時代に浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、日蓮宗の日蓮など現代につながる仏教家が次々に輩出され、教えを広めていった結果、「葬儀」が行われるようになった。ただし、それでも火葬されるのは一部の「殿上人(でんじょうびと)」に限られていた。

 江戸時代の火葬の一般化は、幕府が「寺請(てらうけ)制度」によって寺に庶民を管理させるようになったことに起因する。庶民は言わば自動的に檀家制度に組み込まれ、僧侶に葬儀と法事を依頼し、先祖供養の墓も建てるようになった。

 それに伴い、村八分となった人でも火事と葬儀だけは地域社会が面倒を見るという不文律のもと、地方では葬列を組んで野辺送りをし、都会では町内会の隣組が喪家の面倒を見て、火葬場で荼毘に付すといういまの葬儀に通ずる形式が確立され、昭和の中頃まで続く。やがて葬儀社が地域社会に代わって取り仕切るようになり、病院から斎場に送られて通夜告別式、火葬場での拾骨、霊園への納骨という“流れ作業”のような形が一般化し今日に至るが、そのスタイルは現在ふたたび大きな変化を余儀なくされている。

 国内では無縁社会の進行やインターネットの普及に伴う葬儀価格の「見える化」、少子高齢・核家族化による墓じまいの横行、「死は穢(けが)れ」という意識が希薄になったことによるビジネス化の進行などを背景に“流れ作業”の見直しが進む。その一方で世界を見渡すと、世界遺産の火葬場もあればレストラン併設の観光地化する斎場があり、火葬場と斎場をファッショナブルな施設として親しむ動きも広がりつつある。

 誰もが「ひとりで骨になる」可能性のある現代、多様化する「最期の在り方」を前にいま必要なのは「私たちはどう弔いたいか、弔われたいか」という意思と構想力だろう。弔いの根幹であり、終着点でありながらも長らくベールに包まれてきた「火葬」を紐解くことで「今後の在り方」を考えていきたい。

 まずは、日本国民の統合の象徴であり、弔いを「儀式」として確立した天皇家の葬送の歴史を辿ることから始めたい。

御陵を簡素化し葬法は火葬で行いたい

 自然豊かな東京・八王子市に位置し広大な敷地に漂う静謐な雰囲気から「都内随一のパワースポット」としても人気を博す武蔵陵(むさしりょう)。

「陵」とは「天皇と皇后のお墓」であり、観光地ではない。大正天皇とその后の貞明皇后、昭和天皇とその后の香淳皇后、4つの「陵」が造営されている。参道の両側には20mを超す北山杉が並木道を形成する。北山杉は京都市北西の北山地区が産地で「磨丸太」として茶室や数寄屋に使われている。

 その北山杉が影をつくる道を玉砂利の音を聞きながら歩く。やがて右側に少し仰ぎ見る形で上円下方墳が現れ、それが大正天皇陵で、隣が貞明皇后陵。北参道を歩むと、右側に大正天皇陵よりも低い上円下方墳の昭和天皇陵が現れ、その隣が香淳皇后陵だ。

 大正天皇陵と貞明皇后陵が隣接して平行に設置されている一方、昭和天皇陵と香淳皇后陵は土地の面積の問題で平行に造られてはいない。それをご覧になった明仁上皇が「御陵用地に余裕がなくなっている」という感想を持たれたのが、葬儀変更のきっかけだった。

 上皇と美智子上皇后は、天皇在位中の2013年11月14日、「御陵を簡素化し葬法は(従来の土葬ではなく)火葬で行いたい」と、宮内庁を通じて気持ちを述べられた。

 江戸時代以降、近代における天皇の弔いは土葬で行われてきた。大がかりな儀式を経て、ご遺体を納めるための陵が造営される。昭和天皇崩御の際は、葬儀と陵の造営に100億円が投じられたという報道もあった。

 上皇ご夫妻はそうした背景を踏まえ、現代の日本社会において火葬が一般化していることや、葬儀の規模や形式をより柔軟に検討できること、何より「弔い」に伴う国民の負担を減らすことを理由に、火葬で送られることを選択された。その結果、上皇ご夫妻の陵は大正天皇陵の横に「御陵営予定地」として確保された。区域面積は7870平米と、大正天皇・皇后御陵の約半分だ。

 400年ぶりとなる「火葬の復活」と「御陵の縮小」は、葬儀と墓の簡素化に直面している日本を象徴する大きな転換だといえる。

初めて火葬された天皇は持統天皇だった

 天皇は文化的な連続性の担い手である。8世紀に編纂された記紀(古事記・日本書紀)は、神武天皇以来の「神話の時代」を折り込んでいるが、実在の天皇は第10代崇神からだと考えられている。巨大な陵で知られる第16代仁徳天皇の古墳時代を経て、6世紀末から飛鳥時代を迎え、歴史に名を刻む最初の女帝である第33代推古天皇が592年に即位し、甥の厩戸王(うまやどおう、聖徳太子)が補佐する。

 聖徳太子は、6世紀半ば頃に伝来していた仏教の教えと仏像などの仏教文化を“丸のみ”して治世に生かした。

 聖徳太子の改革をさらに推進して国家の形を整えたのは天智天皇である。律(刑法)と令(行政)の制度化を図るが、律令国家の完成は、弟の天武天皇、その妻の持統天皇、曾孫の文武天皇の治世まで待たねばならず、大宝律令は701年に完成した。

 天皇の祭祀の形も律令国家の進行に連動する。686年に亡くなった天武天皇の葬儀は、長い殯(もがり)の後、発哀(みね)、誄(しのびごと)などの儀礼が続けられた。モガリとは死後、遺体をすぐには埋葬せず、棺に納めて仮安置し、別れを惜しみながらも体から魂が抜け「完全な死者」になったことが確認できるまで一定期間置いておく風習で、ミネとは僧尼による慟哭(どうこく)儀礼。弔いの儀式に時間と労力を割くことで、天皇の権力を証明しようとした。

 702年に亡くなった持統天皇は火葬を選択した。日本の火葬は「西遊記」で名高い玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に唐で学んだ道昭(どうしょう)の700年が最初といわれている。道昭に帰依していた持統天皇が続き、その後の天皇の弔いは火葬と土葬が混在しつつ、室町時代の中期には火葬が定着する形で歴史が刻まれていく。

 その間には840年に亡くなった淳和天皇のように遺言に基づき火葬に付された後、遺骨が砕かれて京都の小塩山に撒かれた「散骨」の先駆者も存在した。

後醍醐天皇の陵は京都の方角を向いている

 一方で天皇の役割は大きく変遷していく。平城京を経て平安京に遷都(794年)した桓武天皇の時代までは中央集権の律令政治はうまく機能していたが、藤原氏など特権階級に「荘園」という私有の領地を認めたことから天皇支配は揺らぎ始め、9世紀末頃からは藤原氏の摂関政治が始まる。

 その藤原氏の権勢が頂点に達したのは、NHK大河ドラマ『光る君へ』が描く藤原道長(966〜1028年)である。ドラマのように天皇は「御簾の向こう」にいて裁可は下すが言わされているだけ。権威はあっても権力はない。

 藤原の後、平、源、北条、足利、織田、豊臣、徳川と武力を伴う日本の支配者は代わるが、この間天皇が権力を掌握しようとしたことが、一度だけある。

 2度の元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)によって幕府が揺らいだ鎌倉時代、不平を受け止めた後醍醐天皇が「討幕の論旨」を発し、楠木正成、新田義貞、足利高氏(後に尊氏)らが呼応して幕府を倒し、親政(天皇が行う政治)を行った。「建武の中興」と呼ばれるが、1333年から2年半で崩壊。天皇の戦術戦略は武家に及ばず、足利尊氏は室町幕府を開いた。

 都を追われた後醍醐天皇は1339年に亡くなる。陵は遺言に基づき、奈良の如意輪寺に京都の方角である北を向いて造られた。

 後醍醐以降、天皇は皇居にいて武家に官位官職を与え、天変地異を鎮めるために祈り、即位の大嘗祭、葬儀の大喪の儀、そして折々の神事をこなす存在となる。

 使い勝手はいいが権力を持ってもらっては困る江戸幕府は、「天皇は御芸能の事、第一御学問他」を第一条とする「禁中並公家諸法度」(1615年)で活動を縛った。芸と学問に励んで余計なことは考えるな、というわけである。

 天皇の葬儀は、室町時代の後光巌天皇(1352〜1371年)以降、京都東山36峰のひとつ、月輪山(つきのわやま)のふもとにある泉涌寺(せんにゅうじ)で執り行われた。真言宗泉涌寺派の総本山で天皇家の「御寺(みてら)」である。

 隣接する月輪陵、後月輪陵には四条天皇から仁孝天皇までの14の陵がある。

 仏教の浸透とともに長らく火葬が一般的となっていた天皇家の「弔い」だが、江戸時代初期の後陽成天皇が最後になる。次の後光明天皇(1633〜1654年)が仏教を「無学の用」と称するほど嫌って遠ざけていたことで、火葬も否定され、ふたたび土葬の慣習が復活したのだ。

 同じく泉涌寺に土葬で葬られた幕末の光格、仁孝、孝明の天皇3代は、日本が近代国家に向かい明治維新で躍進を図るための布石を打つ役割を果たすことになる。

 光格天皇は、紫宸殿と清涼殿を古儀に則り再建、神嘉殿を造営し新嘗祭を復活させた。そうした動きと古代の天皇政治を理想とする本居宣長、平田篤胤(あつたね)ら国学者の思惑が連動し反幕運動が活発化する。

 光格天皇の子の仁孝天皇も、天皇復権の思いを同じくするが早世したことで、遺志は孝明天皇に引き継がれる。ペリーの浦賀来航(1853年)などに強い危機感を持った孝明天皇は外国陣を排斥する攘夷(じょうい)を強く祈願した。それが維新の志士の思いと重なって尊皇攘夷運動が活発化する。しかし孝明天皇は1867(慶応2)年に死去。鎖国の遅れを取り戻し欧米列強と渡り合う近代国家の構築は、翌年に即位した明治天皇が担うことになった。

 しかし即位時に16才だった明治天皇に国家体制を確立する器量は期待できず、明治政府を樹立したのは薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允、公家の岩倉具視らだった。

 政府は欧米列強への対抗策として殖産興業、富国強兵を成し遂げるために、天皇の権威を存分に使った。古代から継承されてきた皇室祭祀や神宮祭祀、神社祭祀の復興をもって神道国教化へ向けて動き、日本は千年以上にわたる万世一系(一つの系統が続く)、皇祖皇宗(天照大神以下の天皇が支配)の国であるとして神性が高められ、明治天皇は主権を持った存在であるとともに現人神となった。

明治天皇は31の儀式を経て土葬された

 葬儀と陵も、天皇家の神格化に使われる。

 胎動は国学による尊皇の動きが活発化した幕末からで、明治政府の樹立宣言「王政復古の大号令」(1867年)に記された「神武創業(初代天皇の時代に基づくの意)」を現実化するためには神武天皇の墓が必要だとして、天皇陵探しの末、奈良・橿原市の畝傍山(うねびやま)のふもとに神武天皇陵が築かれた。鳥居と玉砂利の拝所などは伊勢神宮を模しており、その形式は武蔵陵墓地などにも引き継がれている。

 日清・日露の戦いを制し、文字通り日本を欧米列強に並ぶ存在にした明治天皇は、1912(明治45)年に崩御。葬儀は古式に則り、7月31日の拝訣の儀から始まって殯宮での数々の儀式、本葬である劍葬の儀を経て山陵(伏見桃山陵)に移して、翌年8月2日の皇霊殿親祭の儀まで31の儀式が行われ、土葬された。

 63年の長きにわたって天皇を務められた昭和天皇は、1988年9月19日、大量の血を吐いて倒れた。そこから崩御の1989年1月7日まで予断を許さない事態が続き、各地のお祭り、企業や学校の祝賀行事、クリスマスや正月の祝い事などはすべて自粛された。

 戦前に存在した「国葬令」が敗戦によって失効したため、葬儀は国葬ではなく天皇家の「私的行事」として本葬にあたる「劍葬の儀」と、政府主催による無宗教形式の「大喪の礼」が執り行われ米ブッシュ、仏ミッテランなど多数の弔問客が出席した。葬儀は壮麗なものとなった一方で当時の日本は長きにわたり「自粛ムード」に覆われた。

 明仁上皇が、自らの老いと葬儀を想定して「おことば」を発したのは、2016(平成28)年8月8日だった。祈ることと寄り添うことを柱とした象徴天皇制を模索してきた上皇が、国政に関する発言を控えねばならないのを承知で、「生前退位」に言及した「おことば」は衝撃的だった。

『東京新聞』の宮内庁担当記者を務め、いまは皇室ジャーナリストとして『令和の「代替わり」』(山川出版社)を著した吉原康和は、次のように感じたという。

「象徴天皇の務めが体力的な限界でできなくなれば、潔く退位すべきという象徴天皇のあるべき姿を国民に問う決断だったのではないでしょうか」

 天皇は歴代、民族文化の連続性を確保し、ほぼ象徴としての役割を果たしてきた。国民は東日本大震災の被災地を訪れ、膝をつき、目線を合わせて被災民に言葉をかけ、サイパンやパラオといった戦地を訪れては深々と頭を下げる上皇ご夫妻を敬愛している。

 ただ、国民の思いはさまざまだ。

 右翼民族派の重鎮である犬塚博英・八千矛社代表は、今年も5月25日の楠木正成の命日に、祭主として「楠公祭」を全国から100名以上を集めて乃木神社で執り行った。犬塚は「楠公の『尊皇絶対』の精神に学び続ける」と述べ、「楠公祭」の継続を誓った。

 戦地には赴いても靖国神社には参拝されない上皇ご夫妻への悲痛な思いが、2018年6月、小堀邦夫宮司の「陛下が慰霊の旅をすればするほど靖国から遠ざかる」という不適切発言となり、小堀宮司は職を辞した。

 それぞれの思いは受け止めつつも天皇家は、「象徴」であり続ける。「おことば」では天皇に深刻な事態が訪れた際のモガリや葬儀に関する行事が延々と続き、人々に大きな影響を与えることへの懸念を述べた。「昭和の自粛」を意識してのことだ。ひとえに国民への負担を避けたい──その一心が上皇ご夫妻の葬儀の簡素化とそれを踏まえた火葬の決断につながった。

 歴史的背景は比べるべくもないが「弔い」の大きな変遷点にいる我々がいま、天皇家の葬送の歴史に思いを馳せるのも必要なことだろう。

 400年ぶりの「火葬」での弔いを表明された上皇ご夫妻の陵は武蔵陵(下)に確保されている。

【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『鳩山一族 誰も書かなかったその内幕』(彩図社)、『同和のドン 上田藤兵衞「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年6月27日号

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