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《時代を敏感に感じ取ってきた女性芸人たち》日常的だった「容姿いじり」からの脱却、変化するその環境や意識

NEWSポストセブン 2024年6月26日 7時13分

 お笑い芸人がお茶の間に届けてくれる笑いには人を元気にするパワーがある。だが、その笑いにふと違和感を覚えることもあるだろう。時代の変化とともに、その違和感を敏感に察知し、生き残ってきた女性芸人の生き様をひもとくと、その先に時代が見えてくる──。【前後編の前編。後編を読む】

 訃報が伝えられたその日は、相方の命日だった。5月27日、漫才師の今くるよさんが膵がんのため亡くなった。76才だった。

 くるよさんは1970年に島田洋之介・今喜多代に弟子入りし、その後、高校のソフトボール部の同級生だった今いくよさんと「今いくよ・くるよ」を結成。お互いのファッションをけなし合うなど、テンポのよい掛け合いが全国的な人気を呼び、くるよさんの「どやさ!」というギャグは一世を風靡し、老若男女に浸透した。2015年にいくよさん(享年67)が胃がんで急死したのち、くるよさんはピンで活動していたが相方を失った寂しさを常に口にしていたという。

 1980年代の漫才ブームをけん引し、女性漫才師のパイオニアとして多方面で活躍したくるよさんの旅立ちには、お笑い界からも追悼の声があがる。

「女芸人には特別にやさしくしてくれる師匠でした」

 神妙な表情を浮かべて偲ぶのは、吉本興業の後輩女芸人である島田珠代(54才)だ。

「毎年3月には、女芸人が数十人集まる『ひな祭りの会』を開いて大盤振る舞いしてくれました。誰よりもお笑いが好きで後輩にも説法を説くのではなく、すべて冗談にして教えてくれた。ひとりで楽屋を盛り上げるパワーもすごく、本当に理想の女芸人でした」

 吉本興業が発表したいくよさんの「訃報のお知らせ」には次の一文があった。

《細身で濃いめのメークとつけまつげがトレードマークのいくよと、ふくよかな体系に派手な衣装のくるよがお互いのルックスやファッションなどをネタに、体を張った軽妙な掛け合いで人気を集めました》(原文ママ)

 自らの体形や容姿を笑いに変え、お茶の間を明るく元気にしてきた今いくよ・くるよ。ひとつの時代が幕を下ろす中、女芸人たちはどこから来て、どこへ向かうのだろうか。

「ブスやデブではもうウケなくなった」容姿いじり“卒業宣言”が続出

《この数週間で容姿ネタに関してじっくり考える機会が何度かあって、私達は容姿に言及するネタを捨てることにしました!》

 2021年4月、ツイッター(現X)にこう書きこんで物議を醸したのは、お笑いトリオ・3時のヒロインの福田麻紀(35才)。続けて出演した『ワイドナショー』(フジテレビ系)で福田は、「容姿ネタ」は劇場で笑いをとれなくなったとして、こう複雑な心境を明かした。

《ブスとかデブとか、はっきり言っちゃうと前はウケてたけどいまはあんまりウケなくなってるのを感じてて》
《(容姿いじりは)時代の流れで大衆的なお笑いではなくなった》

 2020年10月には、今年3月に解散した尼神インターの誠子(35才)がインタビューで、「容姿をいじるネタはもうやめました。(相方の)渚が私をたたくこともないし、ブスって直接言うことも、もうないです」と話し、「ブスいじり」の封印を宣言した。

 今いくよ・くるよの全盛期から平成、令和と移りゆくなかで、女芸人を取り巻く環境や意識は大きな変化を迎えているようだ。お笑い評論家のラリー遠田さんが語る。

「昔は夫婦漫才や女性漫才で容姿をいじることが盛んでした。一般社会で他人の容姿について否定的なことを言うのはマナー違反ですが、芸人が芸人に対して笑いをとるために、暗黙の合意のもとで容姿いじりをすることは普通に行われ、女芸人が“ブス”や“デブ”を自らネタにしたり、ほかの芸人に容姿をいじられることは日常的でした。ただし、最近は露骨な容姿いじりは少なくなった。特に若い人ほど容姿いじりを避ける傾向があります」

 女芸人はかつて、当たり前のように「ブス」「デブ」「非モテ」をいじられ、実際そこで爪痕を残すことがブレークへの足がかりとなったケースも少なくない。彼女らの本音に迫った書籍『女芸人の壁』(文藝春秋)著者でライターの西澤千央さんが執筆の動機を語る。

「旧態依然のお笑い界の中で、女芸人は日々いろんなことに葛藤しています。そんな世界にひそむ性差別を追及したくて、多くの女芸人に話を聞きました」

 自身も元々はお笑いファンで、1990年代から劇場にも通っていたという西澤さんは、「お笑い界は圧倒的に男社会です」と指摘する。

「これまでのお笑い界は服を脱いだり痛いことをしたりなど、体を張って面白いことをする男芸人こそ“芸人”とされてきました。ですのでそれができない“女では笑えない”という壁もあった。2017年に女芸人だけのコンテスト『THE W』が始まりましたが、女だけでやってどうするんだという空気感はあったように思います。

 昔は楽屋も男女同じで、女芸人がトイレで着替えようとすると『お前、女を出すなよ』と言われる人もいたそうです。女芸人側も“女として見られたくない”との気持ちが強く、お笑いコンビ・Aマッソの加納愛子さんは、『最近まで男芸人がいる楽屋で化粧ができなかった。女感を出したくなかった』とインタビューで話していました」(西澤さん)

 同時に、“女芸人たるもの仕事に生きよ”という圧も強く、結婚や出産をすれば芸人として生きることは難しかったという。前出の島田が語る。

「皆さん言うんです、若井みどり師匠とか、今いくよ・くるよ師匠もそういうお話をしてたんですけど、“私たちの頃はそれしたらもう仕事がもらえないと思ってた”って。境目はモモコ姉さん(ハイヒール・モモコ)ですね。師匠たちも“モモコが変えたね”って仰います。師匠たちは、“私たちもしたかってんけど、勇気がなかった”って。自分たちができなかったからこそ姉さんの背中を押したんですね。モモコ姉さんは、私にとっても希望になりました」

先輩の男性芸人が求める役割をこなした「えらいよ、頑張ってるよ」ねぎらいに涙

 古くは安土桃山時代の女芸者・出雲阿国などもいるが、戦前に活躍した最も有名な女芸人のひとりがミスワカナだ。

「夫の玉松一郎さんとのコンビで夫婦漫才を披露し、戦時中は中国大陸を慰問訪問しました。軽妙なしゃべりと歌のうまさで人気を博した“伝説の女芸人”として知られ、NHKの連続テレビ小説『わろてんか』(2017年)で広瀬アリスさんが演じた女性芸人のモデルになりました」(ラリーさん・以下同)

 終戦後、ミヤコ蝶々・南都雄二、鳳啓助・京唄子の夫婦漫才や、海原お浜・小浜、内海桂子・好江の女性漫才が敗戦国日本を明るくした。一方で、ラリーさんは「戦後しばらくの間、女芸人は圧倒的なマイノリティーでした」と言う。転機を迎えたのは1980年。フジテレビの『THE MANZAI』を契機に漫才ブームが巻き起こり、関西の女性漫才師の人気と実力が全国に知れ渡った。

「互いの体形や容姿をいじり合う今いくよ・くるよや、アイドルや芸能人をこきおろす春やすこ・けいこらが全国区になりました。“自虐ネタ”と“毒舌ネタ”といういまも女性芸人がよく使う2つの笑いの手法が、この時点で確立されていました」

 1980年代後半から1990年代にかけては山田邦子(64才)、上沼恵美子(69才)が東西で躍進し、野沢直子(61才)、久本雅美(65才)、清水ミチコ(64才)らもお茶の間の人気者になった。女芸人がテレビのバラエティー番組に続々と進出する中、西澤さんが注目するのは1996年にスタートした『めちゃ2イケてるッ!』(フジテレビ系)に出演したオアシズ(光浦靖子・大久保佳代子)の2人だ。

「バラエティー番組において、“ブスいじり”をきちんとした職業にしたのはオアシズが最初ではないでしょうか。実際、『めちゃイケ』の総合演出担当者は『ブスだからどんな卑屈なことを言ってもいいという状況を逆手に取り、商売にしたのはオアシズが最初』と語っていました。光浦さんは東京外語大、大久保さんは千葉大と2人とも高学歴で弁が立ち、自分たちに求められている役割を鋭く察知し、“ブスキャラ”として自虐的に振る舞うことでブスいじりに変革をもたらしました」(西澤さん)

 ブスいじりが「芸」として確立された時代、当事者は自らに課された“役割”をどう思っていたのか。

「20年前を思い返してみると、先輩の男性芸人が求めているだろう言葉を選択しようと頑張った気がします」

 そう振り返るのはお笑いタレントの青木さやか(51才)。1996年にデビューした青木は、「どこ見てんのよ!」のキレ台詞で一躍ブレークし、売れっ子の仲間入りを果たした。だが本人には複雑な思いがあったと語る。

「キレキャラは自分でやりはじめましたが、本当にキレていたこともあれば、無理してキレていたときもあり、器用ではないから、いつもキレて笑いにつなげるのは難しかったです。

 ときには、一連の流れの中でキレているのに、オンエアを見ると私が脈絡もなくキレているように編集されていることも多く悲しかったことも多かった。これでは、理由なく、ただキレてる人だから。キレては傷つきキレては傷つき、余裕がなく、私を守ってくれる人は極端に少ないと感じていましたね」(青木・以下同)

 時には求められる役割を演じ切れず、「素」になってしまうこともあったという。

「私はいじられるということがお笑いをはじめるまではまったくなくて、自分がいじられることになり最初はびっくりしました。例えば男性芸人が楽屋でパンツを脱いで私に見せてきたとき、『汚いもん見せてんじゃねえよ!』と言えばウケただろうけど、私そういうのは本当にダメで黙って苦しくなることがありました。すると相手は、“は? マジのリアクションなの?”となって楽屋の男性陣がシラケる。

 道を歩いていると私を怒らせようといじられて。キレてほしいわけですよね、私に。あれは嫌でしたね。できるだけ出歩かないようにした時期がありました」

 2010年に産休に入ったことを機にテレビでの露出が減った。全盛期に感じていたやりきれなさを他人に話すことはなかったが、数年前、オアシズの光浦から「青木はえらいよ、頑張ってるよ」と言われたことが忘れられないと語る。

「光浦さんは自身の経験からも私の気持ちが透けて見えて、ねぎらってくれたのだと思います。『えらかった』と言われてふいに涙があふれ、光浦さんが頑張っているんだから私も頑張るかーと。細かくは話していませんが、共通の理解があり多く語らずとも気持ちが通ずる先輩がいるのは心強いことでした」

(後編へ続く)

※女性セブン2024年7月4日号

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