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【力道山生誕百年目の真実】春風亭一之輔×力道山の未亡人・田中敬子さん異色対談「リキさんの傷口は小さかった」次々と飛び出す貴重証言の数々

NEWSポストセブン 2024年6月30日 7時15分

 第30回小学館ノンフィクション大賞を受賞した新刊『力道山未亡人』。発売即重版と話題書になるなか、落語家の春風亭一之輔(46)と、22歳で夫を亡くした力道山の妻・田中敬子さん(83)の異色対談がラジオで実現した。著者・細田昌志氏や元プロレスラーの北沢幹之氏(82)、ニューラテンクォーター元社長・山本信太郎氏(89)、元テレビ朝日アナウンサーの舟橋慶一氏(86)も参加して豪華なクロストークに。昭和の裏面史が鮮やかに蘇る。

【座談会の全編はラジオ特番『「力道山×田中敬子 61年目のハッピーウェディング』として6月29日深夜0時からJFN各局で放送された。放送から1週間以内はラジオアプリ「radiko」にて聴き逃し配信を実施】

一之輔:昨年末に力道山の没後六十年を迎えて、今年は生誕百年。節目の年が続きますが、これに加えて、敬子さんを主人公にしたノンフィクション『力道山未亡人』が話題を集めています。今の率直なお気持ちを聞かせて下さい。

敬子:正直、自分でも何が起きているのか理解が追いつかないです(苦笑)。

一之輔:著者の細田昌志さんにお聞きしたいんですが、作家の安部譲二さん(2019年に他界)に薦められて、この本を書いてみようと思ったとか?

細田:そうです。安部譲二先生と敬子さんは日本航空の同期で、晩年も年賀状のやりとりをされていたので「いつでも紹介するよ」と。

一之輔:お互い日航の客室乗務員だったんですよね。当時の呼び名でパーサーとスチュワーデス。

細田:安部先生いわく、国際線のフライトで、敬子さんとよく一緒になったそうです。「深夜になると退屈だった」とも。

敬子:だって、お客様も眠ってしまうし、窓の景色も見えなくなるから、何もすることがないのよ。

細田:そんなとき、安部先生と敬子さんはこっそり酒を飲んでいたらしくて(笑)。

敬子:そうそう、ファーストクラスのお客様が残した高いワインとか飲んでました。今は絶対にダメですけど。

一之輔:昔もダメですよ!(笑)

敬子:ま、時効ということで(笑)。

一之輔:ところで敬子さんは、お酒は結構いけるクチなんですか?

敬子:好きなんですよ。実は主人より強かったかも(苦笑)。

一之輔:北沢幹之さんは力道山門下生の生き字引ですが、敬子さんと初めてお目にかかったとき、どう思いましたか?

北沢:年齢はそう違わないんですが、何せ力道山先生の奥様ですから、私どもが気安く話せる方ではなかったです。

一之輔:その上、力道山は相当厳しい方だったのではないですか?

北沢:厳しいなんてもんじゃないです。顔を合わせたらいきなりゲンコツ。でも、(アントニオ)猪木さんもそうして強くなりました。

一之輔:力道山が刺された情報はどこで知ったんですか?

北沢:赤坂の合宿所で聞きました。若手数人で「先生の仇を討とう」と刀を持って復讐に行こうとしたんですが、未遂に終わりましてね。

敬子:その話、初めて聞きました。

北沢:それから1週間で亡くなられるとは……。先生のような方は二度と出て来ないでしょう。

「リキさんの傷口は小さかった」

一之輔:山本信太郎さんも、生前の力道山と深く関わっておられますね。

山本:私が社長を務めておりましたニューラテンクォーターの常連のお客様でしたね。

敬子:私も主人と一緒にうかがいました。本物のショーを観られて感動したものです。

一之輔:それなのに、1963年12月8日の事件の現場になってしまった。

山本:私は目の前で“その瞬間”を目撃しているんです。刺した村田(勝志)がダダーッと店から逃げ出しましてね。ただ、このときリキさんに傷跡を見せられたけど、非常に小さかった。血もほとんど出なかったので、警察もすぐ引き上げたんです。まさか、1週間後に亡くなるなんて。

一之輔:そこから、敬子さんとは……。

山本:事件現場になったことが申し訳なくて、連絡出来なくなったんですよ。その後の敬子さんのご苦労は人伝に聞いていたんですが、何のお力にもなれず……(涙)。

敬子:いや、私は主人が酔っ払って迷惑をかけたのかなって思っていたので、むしろ山本さんに「申し訳なかった」って思ったくらいで。

一之輔:交流が復活したのは、何がきっかけだったんですか?

山本:20年くらい前に上梓された敬子さんの自伝を読んで、今おっしゃったことが書かれていたんです。安堵しましたね。

敬子:それから、またお会いするようになって、今はお食事に行ったり、お酒も……(笑)。

一之輔:舟橋慶一さんは、かつてテレビ朝日のプロレス中継の実況アナウンサーですね。1975年12月11日の興行戦争、日本武道館「力道山十三回忌追善大試合」と、蔵前国技館「アントニオ猪木対ビル・ロビンソン」のときは当然、国技館にいらしたわけですよね。

舟橋:そうです。ただ、あのときは、猪木さんも複雑な心境だったと思うんです。何せ力道山を心底尊敬していましたから。追悼の気持ちを人一倍持っていたんです。

敬子:このときは何もわからないまま「この日に武道館で追善大会をやる」ってことで、私が主催者として祭り上げられたんです。

舟橋:我々も、そのことは大方把握していました。「奥さんは担がれただけだろう」って。

敬子:詳しい事情はわからないから「何で猪木さんは出てくれないの?」とは思っていて。

舟橋:猪木さんも胸中は大変複雑だったと思うんです。妨害や嫌がらせも相当ありました。それでも、当日の猪木さんは吹っ切れた表情をしていたので「いい試合になる」という予感がありましたね。ロビンソンも当時の最高の選手ですから。

一之輔:結果、プロレス史に残る名勝負になりました。

舟橋:あの名勝負は猪木さんなりの力道山への供養だったと思います。猪木さんは心中「どうです、先生」と胸を張っていたのではないでしょうか。

撮影/藤岡雅樹

※週刊ポスト2024年7月12日号

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