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【逆説の日本史】日本の主流とはならなかった「アジアと固い絆を持った人々」の思い

NEWSポストセブン 2024年7月5日 7時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その16」をお届けする(第1422回)。

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 俗に「あちらを立てればこちらが立たず」という諺がある。政治の世界、いや人間の世界はすべてそれで、たった一つの正解があるなどということは滅多に無い。たとえば「核戦争を引き起こすべきでは無い」というのはたった一つの正解に近いが、それでもここに宗教的対立という「正義」が加味されると、「核兵器を使用してでもイスラエルを(あるいはハマスを)滅ぼすべきだ」という話になるから厄介だ。それでも現代はまだマシなのは、植民地というものが無くなったからである。

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領も、NATO(北大西洋条約機構)という軍事同盟が団結してウクライナを支援しなければ、核兵器を使用したかもしれない。彼にとって一番大切なことは、ウクライナが「不当に占拠」しているロシア領を取り返すことで、そのためにウクライナ人が何人死のうと構わない。一方、ロシア兵の戦死はできるだけ抑えたい。それが「正義のすべて」だと考えれば、核兵器使用をためらう理由は無い。

 かつてのアメリカのように、「一発(実際は二発だったが)で敵を黙らせる」ために核使用に踏み切った可能性は高いのである。では、なぜ使用しなかったかと言えば、NATOの中核メンバーであるイギリス、フランスそしてアメリカが核保有国であり、核を使えば核で反撃され全面核戦争になる恐れがあるので、現在のところは核兵器の使用を我慢しているだけに過ぎない。このプーチンに核兵器使用を「我慢」させている力を、抑止力という。それが国際政治の法則であり、現実でもある。

 と、ここまで書いてきたら、今年四月からTBS系列のニュース情報番組『サンデーモーニング』の担当となった膳場貴子キャスターが、同番組内で「抑止力を高めれば攻撃の標的になるリスクも高まりますよね」という発言をしたという「ニュース」が伝わってきた。私は耳を疑った。個人的には存じ上げないが、この方は一流大学を卒業し報道の経験も何年もあるベテランのはずだ。そんな人が世界では高校生にとっても常識の、初歩の初歩の軍事知識を知らないなどということは、常識的にはあり得ない。

 いまロシアの侵略を受けているウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、なぜ躍起になってNATOに加盟しようとしているのか? それは、それが抑止力になって平和が訪れるかもしれないからだ。そしてウクライナ国民がいま心の底で抱いている最大の思いは、「もっと早くに加盟しておけばよかった。そうすればロシアの侵略は無かった」であろう。

 そして同じ思いを抱いたればこそ、これまで中立政策を取っていた北欧のスウェーデンもフィンランドもあわててNATOに加盟したのではないか。もし膳場発言が正しいとすれば、スウェーデンもフィンランドもすべて「戦争を招く愚かな国」であり、ゼレンスキー大統領もウクライナ国民も「愚か者」ということになってしまう。

 もちろん、現実に対して理想というものは存在する。だが、大変残念ながら理想は現実に対して「役立たず」であることが少なくない。早い話が、プーチンは「平和憲法」を守る義務は無い。「平和憲法」あるいは「憲法第九条」は、なんの抑止力にもならないのである。現実問題として日本を守っている抑止力は、その平和憲法から「排除」されている自衛隊と、日米安保条約である。それが現実だ。理想を抱くなとは言わない。それはご自由であるが、ジャーナリストや歴史家は決してこの現実から目を逸らしてはならない。

 現実と言えば、日本はウクライナを侵略しているロシアとの領土問題がある。いわゆる北方四島の問題だが、日本のマスコミはずっとロシアびいき、つまり左翼偏重でこの問題を矮小化しようと努めてきた。

 ここでクイズを出したい。北方四島と言えば択捉島、国後島、歯舞群島、色丹島だが、一番大きい択捉島と次に大きい国後島の面積はどれぐらいか、あなたは認識しているだろうか? 現在の日本列島のなかで(本州、北海道、九州、四国を「島」と考えなければ)一番大きい島は一つの県をなしている沖縄本島だが、択捉島や国後島はこの沖縄本島にくらべて何割ぐらいの面積か、概算でもいい、あなたは答えられるだろうか?

 四割? 五割? それとも八割? 全部違う。じつは、この両島とも沖縄本島よりも大きいのである。この北方四島は日本固有の領土で、南樺太(サハリン)のように日露戦争で奪ったものでは無い。戦前の日本領土で台湾(九州ぐらいの面積)を「島」と考えなければ、最大の島と言えばこの択捉島で、次に大きいのが国後島だったのである。

 いや正確に言えば、つまりロシアの不当占拠を認めなければ、いまでも日本最大の島は択捉島なのである。しかし、たぶんあなたはそれをご存じなかっただろう。つまり、これがマスコミあるいは教育によるこの北方領土問題の文字どおりの「矮小化」ということである。

 現在のロシアは帝国では無く共和国のはずだが、中国と並んで「最後の帝国主義国家」である。そもそも帝国主義とは、それに反対する共産主義者が、自国の利益のために他国の主権を踏みにじり次々と植民地化していった欧米列強を批判する言葉として生まれたものだが、皮肉なことにかつて共産主義国家ソビエト連邦であったロシアと現在も引き続き共産主義国家である中国が、帝国主義という悪しき習慣を受け継いだ形になっている。皮肉と言えばこれ以上皮肉な話もあるまい。

 なぜそうなるかと言えば、民主主義体制が不十分だからである。共産党一党独裁の中国は論外だが、本来は複数政党制の民主国家であるはずのロシアも、プーチンという独裁者に幻惑されてウクライナ侵略という誤った道を選択した。ちょうどアドルフ・ヒトラーに心酔したナチス・ドイツが世界征服に乗り出したのと同じことだ。しかし、曲がりなりにも共和国であるロシアは、何年かかるかわからないがドイツ国民がナチズムという迷妄から覚めたように、必ず民主国家に回帰するだろう。

 問題は中国である。

二つの「別の道」

 これまで何度も指摘したように、欧米列強が植民地獲得競争をしていた帝国主義の時代に、当初日本は中国・朝鮮と一体となって欧米の侵略を跳ね返そうという理想を抱いていたが、この構想はもろくも崩れた。なぜ崩れたかと言えば、やはり「朱子学の呪い」だろう。ひょっとしたら若い読者はなんのことかと思うかもしれないが、それは『コミック版 逆説の日本史』の「江戸大改革編」「幕末維新編」あたりを詳しく読んでいただきたい。それがどういうものであったか説明するには、それぐらいの紙幅が必要なのだ。

 ちなみに一つだけ言っておけば、韓国はいまでも日本が邪魔したから自力で近代化できなかった、と声高に主張する。しかしそれは大きな間違いで、朱子学に骨の髄まで洗脳された大韓帝国は単独では絶対に近代化できなかっただろう。だからこそ当時の大韓帝国総理大臣李完用は、「国を民族ごと日本に預ける」という決断をしたのだ。しかしこの大英断もいまだに評価されず、いまでも彼は韓国では極悪人扱いである。

 だからこそ、朱子学に洗脳された中国や朝鮮と組むことは不可能だということで、日本は別の道を行かざるを得なかった。別の道というのは、大きく分けて二つある。一つは欧米列強グループに入会し、「大親分イギリス」の「弟子」となって「収奪する側」に回ることだ。日露戦争の直前、当時の首相で山県有朋を押しのけて陸軍の代表者となった桂太郎が、「フィリピンはアメリカの植民地であり、現地の独立運動を日本は応援しない」と約束した桂‐タフト協定がその第一歩で、日本はこちらのルートを選択した。

 では、選択しなかったもう一つのルートはなにかと言えば、現在、何度も続きを述べようとしては挫折している(笑)一九一五年(大正4)十二月、来日していたインド独立の闘士ラス・ビハリ・ボースが国外退去を命じられたときの状況を語れば、おのずとあきらかになる。これまでも述べてきたように、彼に国外退去が命ぜられたのは当時の日本が英米協調路線を基調とする大隈内閣であったからだ。

 国外退去と言えば穏当な措置に見えるが、そうでは無い。日本を一歩出れば、彼はイギリス官憲に逮捕され処刑される可能性が非常に高かった。そこで彼は当時日本に滞在していた孫文にアドバイスを受け、英米協調路線とは違う路線を選択していた人々に助けを求めた。頭山満であり、犬養毅である。そして実際に彼をかくまったのは、同じ路線の選択者であった新宿中村屋の人々であった。

 前にも述べたように、ボースは十二月一日の夜、頭山満邸で変装し官憲の尾行をまいて、新宿中村屋に逃げ込んだ。中村屋の経営者であった相馬愛蔵・黒光夫妻は、後にボースの妻となる長女・俊子とともにボースをかくまった。

 ここで、相馬愛蔵と黒光の経歴を紹介しておこう。(いずれも『国史大辞典』吉川弘文館刊 項目執筆者井手文子より)

〈相馬愛蔵 そうまあいぞう
一八七〇 ─ 一九五四
明治から昭和時代にかけての製菓業者。東京新宿中村屋の初代店主。明治三年(一八七〇)十月十五日信濃国穂高に生まれ、二十三年東京専門学校卒業。三十年星りょう(のち号黒光)と結婚し、本郷にパンを製造小売する中村屋を創業した。夫婦ともに時代をさきがけ、単に商人としてでなく「己れの生業を通じて文化国家に貢献したい」という事業観と文化観をもってパンや菓子の普及につとめた。四十年新宿に支店を開き、四十二年店舗を本郷から新宿の現在地に移し、経営の多角化をはかり、カレー=ライス、ボルシチ、中華饅頭、月餅など国際的な食品を日本人生活にとりいれた。妻黒光を中心とする中村屋文化人サロンを側面から援助したことは、当時の夫婦関係の常識からすれば非常な寛容さであって、愛蔵の人柄の大きさを示したといえる。店員の扱いは公平平等であり、昭和十四年(一九三九)株式を公開するなど明治人の理想主義と気骨をみせた。同二十九年二月十四日没。八十三歳。(以下略)

相馬黒光 そうまこっこう
一八七六 ─ 一九五五
中村屋初代店主相馬愛蔵の夫人。随筆家。本名はりょう、黒光は号である。明治九年(一八七六)九月十二日仙台に生まれる。旧仙台藩士星喜四郎の三女。少女時代に父を失い、姉が精神に異状を来たし家産が傾くなかで母とともに健気に未来を開こうとし、キリスト教に帰依した。宮城女学校に入学したが退校、横浜のフェリス女学校に入学、二十八年巌本善治の明治女学校に転校、ここで巌本をはじめ島崎藤村・星野天知ら『文学界』の作家らに接して芸術への視野を広め、星と菫の女学生時代を過ごす。卒業後教会の島貫兵太夫の紹介で相馬愛蔵と結婚。やがて上京して本郷で夫とともにパン店を始めた。のち中村屋として発展した経済基盤のうえで、絵画・文学・演劇のサロンをつくり、多くの作家ばかりでなく国際的な人間交流を支えた。彫刻家の荻原守衛、画家中村彝(つね)・戸張孤雁・柳敬助、文学者の秋田雨雀・神近市子、静座法の岡田虎二郎、ロシアの詩人エロシェンコ、インド独立運動のビハリ=ボース、朝鮮独立運動の志士ら多くがこの家をよりどころにしたのは黒光の魅力と力量による。昭和三十年(一九五五)三月二日没。七十八歳。(以下略)〉

 黒光が転校した明治女学校の校長巌本善治は、勝海舟の回顧録とも言うべき『海舟余話』をまとめた人物で、勝の孫を産んだアメリカ人クララ・ホイットニーも女学校で教鞭を執っていた。また、新宿中村屋の名物にカレーがあるのもビハリ・ボースが本場のカレーを伝授したからだという。

 このように、アジアと固い絆を持った人々も少なからずいた。しかし、その人々の思いは日本の主流とはならなかった。

(第1423回へ続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年7月12日号

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