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【骨になるまで・日本の火葬秘史】東日本大震災の犠牲者を送った「弔い人」の記録

NEWSポストセブン 2024年7月7日 16時15分

【女性セブン連載『骨になるまで 日本火葬秘史』第3回】亡骸を見ながら遺族たちは生前の姿に思いを馳せ、最後の別れの言葉をかけた後、火葬して見送る。現代日本では当たり前のように行われてきた「弔い」の手順にどれほど「悼む気持ち」が込められてきたか──。それをあぶり出したのは未曽有の大震災だった。危機的な状況の中、犠牲者を見送るために奔走した人たちがいた。ジャーナリストの伊藤博敏氏がレポートする。

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「いま、出してやっからな」
「土の中でかわいそうにな」
「ちゃんと火葬してやるからな」

 男性は必死の形相で土を掻き出しながら、仮埋葬されていた、姪の亡骸の棺桶に向かって話しかける。やっとのことで引き上げられた棺は、土砂の重みを受けて潰れ、激しい損傷を受けていた──。

 2011年3月11日、三陸沖で発生した東日本大震災。最大震度7、マグニチュード9.0の大地震は死者1万5900人、行方不明者2520人の犠牲を出した。交通網を含むあらゆる社会的インフラが壊滅的状況であり、遺体安置所に持ち込まれた死者は弔われることのないまま日を追うごとに増え続けた。時とともに遺体の損傷は激しくなっていく。

 最大の死者を出した宮城県では県内27か所の火葬場のうち、7か所が損壊して稼働できず、被害を免れた火葬場も、燃料や人員、搬送車などが不足して稼働率は4分の1まで落ち込んだ。

 あまりに多くの犠牲者に火葬が追いつかず、市や町は県に対して「土葬を考えなければいけないのではないか。方針を決めてほしい」と要請。それを受けた宮城県は厚生労働省の認可のもと、遺体を入れた棺を土の中に埋めて一時的に保管し、数年後に火葬する「仮埋葬」という形を決断した。2011年3月下旬から行われた仮埋葬によって、土の中に埋められた遺体の数は2108体に達した。

 当初は「2年以内」とされた「仮」の埋葬期間だったが、「早く火葬してやりたい」と願う人が大半であり、仮埋葬が行われた数週間後には重機を持ち込んで、自力で棺を掘り起こし始める遺族の姿もあった。

 土の中でかわいそうに。一刻も早く火葬して、きちんと送ってやるからな—そんな思いからは痛いほどに「悼む気持ち」が伝わってくる。

明治時代は「4人に3人」が土葬で弔われていた

 東日本大震災は国内で起きた最大級の自然災害であり、至らなかった備えを含め、多くの教訓を残した。同時に、火葬が「弔い」の文化として完全に浸透したことも可視化した。

 今日こそ、日本における「弔い」は99%以上が火葬だが、25%を超えたのは明治時代の中頃で、50%を上回ったのは1955(昭和30)年頃だ。現在60〜70代の人が生まれた当時は、まだ半数が土葬だったということだ。

 いまの高齢者のなかには、葬列を組んで火葬場まで遺体を運ぶ「野辺送り」を経験した人もいる。当時、「死」はもっと身近なものであり、土葬と火葬が拮抗していた。

 火葬の増加は経済成長と軌を一にする。バブル前夜の1985(昭和60)年頃には9割近くなり、2005年には99.8%と火葬が当たり前になった。そうした変化を肌で感じていたのは一般社団法人火葬研の武田至会長だ。1990年3月、東京電機大学大学院を修了して火葬炉メーカーに勤務。退社後、火葬場の近代化を推進するNPO団体「日本環境斎苑協会」を経て、1999年に火葬研の前身「火葬研究協会」を設立。40年近く火葬場や火葬炉に携わってきた。東日本大震災や新型コロナウイルスなど大きな社会事象が発生し、「火葬はどうあるべきか」が論議になると、必ず行政や業者に意見を求められる専門家だ。その武田をして、東日本大震災で多くの人が「火葬」に強い思い入れを持ったことは驚きだった。

「長らく、火葬にはどこか公言することがはばかられる雰囲気がつきまとい、火葬研をつくるとき、イメージが悪いという人もいて名称を決める際も火葬という文言を入れるかどうかで揉めたんです。しかし結局『火葬と堂々と言えるようにしたい』ということで、火葬研究協会としました。

 そうしたやり取りがあったからこそ、震災時の仮埋葬をとりまく状況には驚かされました」(武田)

「死」を穢れとして嫌う神道の影響や、親の体を焼却することを「不孝」と見なす儒教の影響もあって、火葬の公言をはばかる風潮が四半世紀前まで存在したことは紛れもない事実なのだ。

仮埋葬された遺体は遺族に見せられない状態だった

 未曽有の大災害が示した現代の「弔い」事情は火葬の浸透だけではない。遺族が大切な人を可能な限り安らかな状態で送るうえで、遺体の処理や納棺、火葬といった「葬送業」がいかに重要であるかということも浮き彫りにした。

 遺体の発見から収容、埋葬地の整備と掘削、そして棺を納めるまで—仮埋葬に伴う作業は当初、装備と機動力を持ち合わせた自衛隊が実施した。だが、救出作業や復興工事など作業は山積しており、ほどなくして棺を納め終わると、その後の掘り起こしは地元の葬儀業者に委ねられることとなった。

 冒頭の掘り起こしの作業は、仙台市の葬儀会社「清月記」の社員が、石巻市の仮埋葬地で体験したひとこまだ。2011年4月15日、「石巻市で仮埋葬されたご遺体を仙台まで搬送して安置して欲しい」という依頼を受けた清月記は、事業開発部長の西村恒吉ら3人の社員を派遣した。

 土中から吊り出された棺はすでに潰れ、納体袋には大量の血液と脂があふれて猛烈な臭気が漂い、遺族には手出しできない状態だった。清月記への依頼は搬送だけだったが、遺体を扱うプロとして、口や鼻から流れる血液や体液を拭い、綿花などを詰める処置を施し、可能な限り清める処置をして、新たな棺に納めたという。

 作業を手伝った叔父が、亡き姪にかけ続けたのが「いま、出してやっからな」という言葉だった。

 清月記が仮埋葬した遺体の数は276体。土に埋めて弔った後、今度は仮埋葬した遺体を掘り起こして火葬する業務委託も受けた。

 作業は5月7日から8月17日までの約3か月間に及び、葬った遺体の累計遺体数は672体となった。清月記の社員たちは春から初夏を経て真夏に至るまで、防護服で汗みずくになりながら苛酷な作業を続けた。

 部長の西村は日々の活動の「業務日報」のなかで、「『いま、出してやっからな』という言葉に込められた気持ちに励まされながら掘り起こし、改葬の日々を過ごした」と記している。

犠牲になった娘と「出会い直し」させる

 津波や火事、土砂崩れなどあらゆる二次被害を生んだ東日本大震災において、仮埋葬されることなく火葬で弔うことが叶ったとしても、激しく損傷している遺体は少なくなかった。

 火葬前にきれいな姿で送り出したい……遺体確認した娘を母親に会わせる前に、復元して出会い直してもらいたい……。

 そんな要望に応えることができるのは復元納棺師だけだった。岩手県北上市で納棺事業会社「桜」を経営する笹原留似子は、震災発生以降、約300体の遺体復元に携わった。

 3月21日、被害が大きかった陸前高田市を訪れた笹原は、津波で亡くなった少女の遺体に向き合っていた。

 毛と毛の間に砂がこびりつき、貝の破片や藻が絡みつく黒髪を何度も洗ってきれいにし、陥没して変色した眼球を元の状態に戻し、マッサージを繰り返して頬を柔らかくしたうえで、口内リンパマッサージで口を自然に閉じさせる。ファンデーションやつけまつげなどを復元専用の使用法で1か所ずつ丁寧に施すと、眠っているかのような「元の少女」となった。

 遺体安置所でふくれあがった顔が緑色と黒色に変色したり、崩れたりして、「元の顔」がわからない状態の遺体も、笹原の手にかかれば限りなく震災前に近い姿を取り戻すことができ、家族は悲しみに暮れながらも心穏やかに別れが告げることができた。

 清月記の面々や笹原と同様、僧侶や神主などの宗教者、火葬場の職員らもまた、震災に立ち向かった。特筆すべきは、彼らが従事したのは、生業の「弔い」に関連する業務に限らなかったことだ。

 高台にある石巻の洞源院、東松島の定林寺、気仙沼の浄念寺や八幡神社などは避難所として開放され、創価学会や立正佼成会も教団施設に被災者を受け入れた。

 仏教宗派の浄土真宗、浄土宗、曹洞宗、天台宗、真言宗などは、それぞれが災害対策本部を設置し、避難所となった寺院を中心に、支援物資の配布や炊き出し、ボランティアの派遣などを行った。日本基督教団傘下の教会、神社本庁傘下の神社も同じである。

 天理教、真如苑なども阪神・淡路大震災での経験を生かした被災地支援活動を展開した。個別に現地に入り「読経ボランティア」を行う僧侶も多かった。「葬式仏教」「カネ儲け宗教」などと揶揄もされるが、未曽有の災害に直面したとき、人々を救済すべく立ち上がったことは忘れてはならない。

プロとして「早く火葬したい」気持ちは痛いほどわかった

 しかし、葬儀業者や宗教者が一丸となってなお、犠牲者は増え続ける。加えて、繰り返される仮埋葬と掘り起こしで現地は混乱の一途を辿り、支援要請は東京に及んだ。

 宮城県警本部から火葬場運営会社「東京博善」の四ツ木斎場(葛飾区)にSOSの電話が入ったのは、3月21日の深夜だった。対応に当たった元常務の川田明が言う。

「電話を受けたのは、夜勤に入っていた宿直担当者でした。翌日報告を受けて、私が県警に連絡したんです。すると『遺体がたくさんあるが、現地の火葬場はひどい損傷を受けている。そちらで火葬できるか』ということでした。なかには『検死して遺族と連絡を取ろうにも身元不明で連絡が取れない遺体』もあるという。

 火葬炉に余力があったので、火葬すること自体に問題はなかったが『搬送はどうするのか』と聞くと、『生存者の捜索などで車両も燃料もままならない。遺体をこちらに引き取りにきてもらえないか』という要請でした」

 交通網が至るところで遮断され、燃料供給もままならない地に遺体を引き取りに行くというのだから難題である。金銭的・物理的な負担も決して少なくない。ただ、プロとして「傷んだ遺体を早く火葬にしたい」という要請が現地から来ることは予想できた。また、大惨事を目にして「何かやらねば」という思いもあった。

 そこで社内で論議を重ね、東京都から「事業」として支援を受けた東京博善が、遺体搬送車両の製作と搬送業務を委託受注するスキームとなった。

 まず行ったのは大型トラックを調達し、多くの遺体を運搬できる仕様に造り替えることだった。その結果、4tロングのトラックなら24体、普通型なら18体の遺体を運ぶことが可能となった。4tロング1台の改修と陸運局への届け出が完了し、宮城県に出発したのが4月11日、続いて2日後に普通型2台が出発した。

 引取先は石巻市の遺体安置所となっている旧石巻青果市場。3台のトラックで1日最大60体の遺体が運ばれ、四ツ木斎場隣接のお花茶屋会館に安置された。

 棺は内部で水を含み、砂が混じって相当な重量があった。底抜けや液体漏れの恐れがあるため、積み下ろしや運搬は慎重に行われた。

「ご遺体は収容されたときと同じ裸です。泥は落としていますが清拭までには至らず、白布がかけられていました。

 ヘドロ状の海水を飲んでおられますので、炉床と呼ばれる炉の下の方からお骨と一緒にたくさんの砂が出てくる状態でした。ご遺体は傷み、激しい臭気もありましたが、燃焼時に煙や臭気を取り除く装置やノウハウを持っていたので、それらの問題が出なかったのは幸いでした」(川田)

 遺体の搬送は4月24日まで行われ、翌25日までに579体が火葬された。拾骨は現地の市町村職員が立ち会って遺骨は桐箱に入れられ、6個単位で江戸藍染めの風呂敷に包んで安置。4月27日、トラックで現地の遺体安置所などにまとめて届けられた。

 多くの犠牲者を生んだ惨事に、僧侶や葬祭業者や火葬場関係者が立ち上がり、「故人の尊厳」を守ろうとしたことは、震災が我々に残した教訓とともに長く語り継がれるべきだろう。
(文中敬称略)

【プロフィール】
伊藤博敏(いとう・ひろとし)/ジャーナリスト。1955年、福岡県生まれ。編集プロダクション勤務を経て、1984年よりフリーに。経済事件をはじめとしたノンフィクション分野における圧倒的な取材力に定評がある。『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)、『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)など著書多数。

※女性セブン2024年7月11・18日号

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