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「今、18歳に戻っても乃木坂46には入れないと思う…」南野陽子が振り返る『ザ・ベストテン』時代

NEWSポストセブン 2024年7月5日 18時15分

「小さい頃に読んだ物語、たとえば『小公女』とか『秘密の花園』とかの主人公になった気分でしたね」──1985年にデビューし、俳優としても歌手としても大活躍。“ナンノ”の愛称で親しまれる南野陽子は自身のアイドル時代をそう振り返る。「そう言うと、いい意味にとられないかもしれませんけど……」と笑いながらも正直に自分の気持ちを話すところがこの人らしい。

「『シンデレラ』もそうですが、ヒロインが登場する物語って必ずハプニングに巻き込まれて、それを抱えながら前に進んでいきますよね? 私の場合はアイドルを目指していたわけではなかったので、『デビューしませんか』と言われて、まず驚いて。そのことを両親に話したら大反対されて、つい『私の人生でしょう!』って反発してしまったんです。自分ひとりで生活できる自信なんてなかったのに(笑)」

 親に反対されると、かえってやりたくなってしまうのは10代なら誰でもあること。当時、高校生だったナンノは1984年の夏に出身地の兵庫から上京し、ひとり暮らしを始める。17歳だった。

「親にそう言って出てきた以上、何か結果を残さなきゃと。当初はまったく仕事がなかったので、学校帰りに、ひとりで出版社や放送局にご挨拶に行きました。歌に関してはそれまで人前で歌ったことがなくて、デビュー曲のレコーディングはあまりにも恥ずかしくて声が出せず3日目でようやく歌えた。

 それを見ていた作詞家さん(康珍化さん)がタイトルを『天使のハンカチーフ』から『恥ずかしすぎて』に変更してくれました。振り返ると39年間、いろんな方のお力を借りながら、ここまで来られたという感じです」

 周囲をパッと明るくする華やかな美貌。アイドル時代から変わらぬ可憐で上品な佇まいはスターの資質そのものに思えるが、意外なことに本人は自己評価が低いようだ。

「今もそうですが、これならうまくできる!と思えることがひとつもないの(笑)。それが『等身大でやっていこう』という考えに繋がったのでしょうね。もちろん一生懸命やるんだけど、ほかのアイドルさんのようにカッコいいことができなかったから」

スタッフと共に作り上げた『ベストテン』時代

 グラビアで注目されたナンノのもとには様々なオファーが舞い込み、1985年11月にスタートした連続ドラマ『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』(フジテレビ系)でブレイク。同ドラマの挿入歌や主題歌で歌手としても人気を集め、歌番組にも引っ張りだことなる。なかでも『ザ・ベストテン』(TBS系)には格別な思い入れがあった。

「80年代はたくさんの歌番組がありましたけど、『ザ・ベストテン』には特別な緊張感がありました。TBSでいちばん大きなGスタジオからの生放送でしたが、大きいといってもビッグバンドの皆さんもいらっしゃるし、1時間でいくつものセットが組まれるので、スペース的な余裕がない。わずかな時間でセットを転換しなくてはならないから、CM中はスタッフさんの大声が飛び交っていました。

 スモークを使ったときは床が濡れて滑りやすくなるので、次の人が登場するまでに総がかりでモップがけをするんですよ。その間、カメラさんは居場所がないので私たちがいるソファのところで待機されていたんです。『ベストテン』の映像を観ると、そんなバックヤードの記憶まで甦りますね」

 女優として第一線で活躍を続けるナンノだが、近年は音楽活動を再開し、新曲の発表やライブの開催を重ねている。テレビで歌う機会もあるが、当時との違いを感じることはあるのだろうか。

「私が『ベストテン』に出演していたのはバブルに向かって勢いのあった時代。スタッフさんたちはいろんなアイデアを模索していました。『これはできない』じゃなくて『実現するにはどうしたらいいか』を真剣に考えていた。皆さん、自分の責任で仕事に邁進する、腹の座った頼もしい方たちでしたね」

清楚で上品なお嬢様スタイル

 語り草となっている駅や飛行場、新幹線の中からの中継はその最たる例だろう。現在ならコンプライアンスの名のもとに自粛しそうなことにも当時のテレビマンたちは果敢に挑戦していた。そんなプロフェッショナルに囲まれて育った彼女は徐々にセルフプロデュース力を発揮。6作目のシングル「楽園のDoor」(1987年)以降は自ら衣装や振り付けを手がけるようになる。

「沢山の先輩アーティストの方を見て学ぶことも多かった。例えば明菜さんは、曲ごとに衣装やメイク、振り付けなど明確なイメージがあったじゃないですか。歌番組でご一緒する機会が多かった私はいち早くそれを知ることができて『今度の新曲はこうなんだ』って毎回ワクワクしていたんです。だから自分もレコーディングのときに曲に合いそうな衣装を考えるようになって」

 学生時代から自分で洋服を作っていたこともあった。毎回異なる衣装で視聴者を魅了したナンノは80年代のアイドルにありがちだったフリフリの衣装やミニスカートではなく、清楚で上品なお嬢様スタイルで独自のポジションを確立した。洗練されたセンスはどうやって培われたのか。

「最初に気に入ったのはプレッピースタイル。中学生のときは『miss HERO』という雑誌を読んでいて、アーガイルのチェックや紺ブレなどを着ていました。その後は先輩の影響もあって『Fine』風のサーファーファッションからDCブランドに興味が移り、高校時代は『an・an』や『流行通信』をチェックしていました。とはいえ高校生のお小遣いでブランド物はそう買えませんから自分で作るようになったんです。18歳でデビューした頃、友達は『JJ』や『CanCam』など、いわゆる赤文字雑誌に載っていたりしたけど、同期デビューの人たちはみな15~16歳でしたから、私がそういう女子大生風の格好をするようになったのはしばらく経ってから。曲でいうと『涙はどこへいったの』(1989年)の頃からですね」

 80年代の歌唱映像を観て驚くのは時代を感じさせないビジュアルだったこと。女性の場合は流行の移り変わりが大きく、特にバブル期のファッションは今観ると古臭く感じられるが、彼女に関してはそれがない。

「最先端を追わなかったからだと思います。『トラブル・メーカー』(1989年)ではあえて肩パッド入りのスーツを着ましたけど、それ以外は流行を追うより自分に合うものを選んでいたと思う。メイクもあの頃流行っていた赤いアイシャドウやピンク系のマットリップは使わなかったし、太眉にもしませんでした」

乃木坂46に入りたい!?

 抜群の美貌とファッションセンスでトップアイドルとなったナンノ。当時の歌番組では本番中、男性歌手から女性歌手に電話番号が渡されたという噂をよく聞くが、実際のところどうだったのだろう。

「ほかの歌番組でそういうシーンを目撃したことはありますが、『ベストテン』に関してはなかったです。先ほど言ったように本番中は殺気立っていますから、そういうことができる雰囲気じゃなかったんでしょうね。私ですか? 一度もありません(笑)。デビューしたとき、願いをかなえるためには何かを我慢すると自分で決め、『3年間は炭酸飲料を飲まないのと、男の子と親しくしない』と守っていたこともあって、“話しかけないでオーラ”を出していたからだと思います。実際、『渡したら怒られると思っていた』と、あとからいろんな方に言われました(笑)」

 ナンノのお嬢様スタイルは乃木坂46を筆頭に令和の今もアイドルの理想形の1つとして受け継がれている。5月に出演した『超・乃木坂スター誕生!」(日本テレビ)では、その乃木坂46と代表曲の「吐息でネット」をコラボした。もし18歳に戻れるとしたらまたアイドルをやってみたいか、最後に訊いてみた。

「私自身はいろんなことに挑戦させてもらって学ぶことが多かったので、またやってみたいなという気持ちもありますけれども、スキルがないので乃木坂さんには入れません(笑)。今のアイドルさんは歌もダンスも目指すレベルが高くて、グループのなかで競争もあるから大変ですよね。

 そう考えると、当時の映像とかを観ながら『あの頃はこうだったよね』っていう話をしている方が楽しいかな。つい先日、『ベストテン』での歌唱シーンを収めた映像集を出していただいたのですが、80年代を知る方も、令和世代の方も、歌番組がキラキラしていた時代を感じていただけると思うので、この機会にご覧いただけたら嬉しいです」

『南野陽子ザ・ベストテンCollection』好評発売中

南野の『ベストテン』出演シーンをHD映像にアップコンバートしたBlu-ray3枚組。本人が語る全出演回のエピソードを掲載したインタビューブックが付属する。税込16500円。

※文中敬称略

撮影/西田幸樹 スタイリスト/阪本幸恵 ヘア&メイク/森ユキオ

取材・文/濱口英樹

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