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【仕掛人たちが語る聖子vs明菜の分岐点】松田聖子は新しいアイドル像を求めた聖子、アーティストへ舵を切った明菜 1984年という“特異な1年”

NEWSポストセブン 2024年7月16日 16時15分

 松田聖子と中森明菜が揺るぎない地位を確立した年、それが1984年だった。デビューからプレイクを支えた仕掛け人たちが“特異な1年”について語った。

 聖子のデビュー曲『裸足の季節』(1980年)の編曲を手掛けた信田かずお氏は当時をこう振り返る。

「デビュー前からすでに、中低音から高音までの伸び、表現力、歌唱力が完璧に備わっていました。1983年の『瞳はダイアモンド』などのバラード曲は、艶っぽいビブラートで歌い上げる歌唱も完全に自分のものにしていて、洗練された歌手になったと感じていました」

 一方、明菜のブレイクのきっかけとなった『少女A』(1982年)を作詞した売野雅勇氏は、明菜の転機についてこう語る。

「『少女A』など私の作詞した楽曲を比べて思うのが、『十戒〈1984〉』(1984年)で明菜さんの歌い方が完成したということ。彼女は楽曲によって歌のトーンや色合いを変幻自在に変えるんです。アイドルの顔を続けてはいたけれど、ボーカリストへの転身を宣言したのが『十戒〈1984〉』だったと思っています」

 当時、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)でプロモーションを務めた田中良明氏も、1984年が明菜の転機になったという。

「デビュー当初から、衣装に対し『これに憧れる同年代はいない』など、押し付けられた十代のイメージをはっきり否定する自己主張ができる人でした。1984年の『飾りじゃないのよ涙は』は、井上陽水さんの尖った楽曲イメージを明菜なりに昇華させた曲で、衣装も明菜のセンスを鮮明に打ち出したもの。聖子とも百恵とも違う、まったく新しいアイドルの誕生に立ち会えたと、震えるほど感動したのを覚えています」

 聖子にとっても1984年は特異な1年と語るのは、音楽評論家の中川右介氏。

「1983年は『天国のキッス』でアイドルポップスの頂点を極め、『SWEET MEMORIES』『ガラスの林檎』でバラードも歌えることも示し、やるべきことはすべてやった達成感があったと思います。1984年に入ると『時間の国のアリス』『ピンクのモーツァルト』など、歌謡曲の枠組みを超えた前衛的な曲が続き、これは新たなアイドル像、つまり第2期の聖子を模索するための実験だったといえます。それにしても、どんな曲でも売れるので、かえって、次は何を歌わせようか、松本隆さんをはじめ、作詞家、作曲家、制作陣もかなり頭を悩ませたでしょうね」

 ワーナー・パイオニアで中森明菜のデビュー前から足掛け5年ディレクター・プロデューサーを務め、『オマージュ〈賛歌〉to 中森明菜』(シンコーミュージック・エンタテイメント)の共著者でもあるディレクター、プロデューサー島田雄三氏は、『北ウイング』を選んだ頃のことを語る。

「1984年、新しい基軸を作ろうと考え、清純なバラードでも突っ張りのロックでもない曲として、4つの候補から『北ウイング』を選びました。明菜は負けん気の強さを持つ一方、レコーディングの時にドーナツを皿に盛って、スタッフ全員に配るような優しい子です。だからこそ気遣いのできない人に落胆する。夜中の2時頃、悩み相談の電話がありました。時には怒り、時には涙を流すなど、難しくてかわいくて、これほど手間のかかるアーティストは他にいませんでした。でも私は、明菜に巡り会えて本当に幸せでした」

 デビュー当時の明菜を知るタレントの清水国明は、人となりと歌唱の魅力について語る。

「明菜ちゃんのデビューから数年間、『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京)で毎月のように会っていました。“突っ張り”と言われてましたけど、そうは感じなかった。いつも満面の笑みで挨拶してくれて、腰も低かったです。『サザン・ウインド』を歌ってる時にドッキリで、後ろからバレリーナに扮した芸人が出てきた。怒らずに同じポーズを取って笑っていました。ドラマのコーナーで少年隊の東山(紀之)が死ぬシーンがあった時、演技ではなく本気で泣いていたんじゃないかな。感受性が強いから人を惹きつける歌を歌えるんだと思います」

 新しいアイドル像を追い求めた聖子、アイドルからアーティストへ舵を切った明菜。2大アイドルにとって、1984年はまさに分岐点だったといえる。

取材・文/小野雅彦、岡野 誠

※週刊ポスト2024年7月19・26日号

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