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小柳ルミ子が振り返る“松田聖子と中森明菜”「聖子ちゃんの部屋で語った日」「明菜ちゃんからの電話」

NEWSポストセブン 2024年7月17日 7時15分

 日本の芸能史にその名を刻む2人の女性アイドル、松田聖子と中森明菜。「聖子ちゃんは太陽で、明菜ちゃんは月なんです」──アイドルの元祖で、2人と親交の深い小柳ルミ子はそう表現する。

「聖子ちゃんがデビューした頃、家が近所でよく遊びに行きました。(上京して同居中の)お父さんが娘を心配していたから、同じ福岡出身の私に『お姉ちゃんになってあげてください』と。家に電話すると『ルミ子姉ちゃんからだよ~』って」

 父親から博多弁で「法子(本名)をちょっと説得してくれんね」と頼まれた時もあった。

「聖子ちゃんの部屋でミッキーマウスのベッドカバーの上に並んで座って、話しました。詳しい内容は言えないですけど(笑)」

 芸能人として葛藤を抱く本人の悩みも聞いた。

「当時のアイドルは事務所の方針通りに動いていたけど、聖子ちゃんは自分の意見を積極的に出していた。でも、最初の頃は通らない。『自分の強みを客観的に分析できないと、自己プロデュースはできないよ』と言いました。聖子ちゃんは甘い歌声を持っていて、トロけるような衣装を着こなせる。今もフリフリのワンピースでステージに登場して立派ですよね。あの子にしかできない。ファンを燦々と照らす太陽です」

 近年もコンサートを見た小柳が感想メールを送ると、すぐに返信がある。

「『私の憧れのルミ子さんに見て頂くのは恥ずかしい』から始まるんですよ(笑)。それで、『尊敬するルミ子さんが褒めてくださると、すごく自信になります』とかね。2年前、私の誕生日にカーディガンをプレゼントしてくれた。今もよく着ています」

 小柳も聖子もワイドショーに追いかけ回された。何度バッシングに遭っても、這い上がってきた。

「聖子ちゃんはよく言いますよ。『ルミ子さん、私たちスキャンダルの女王だね』って(笑)。私も『その通りね、聖子ちゃん』と頷きます。お互い、目を合わせて『強いね~』って。負けず嫌いの性格もありますけど、歌やステージが好きという気持ちが活力の源だと思います」

 小柳と明菜は所属レコード会社が同じワーナー・パイオニアだった。

「私のアシスタントディレクターだった島田(雄三)君から『今度、中森明菜という歌手を担当します。ぜひ応援してください』と言われたんです。初めてテレビで見た時、絶対に売れると思いました。(山口)百恵ちゃんと同じような人を引きつける神秘性を感じました」

 歌番組などで頻繁に顔を合わせる小柳と明菜は電話番号を交換。時折、連絡を取り合っていた。

「40年くらい前のお正月、夜中の3時に電話が鳴ったんです。寝ぼけながら出たら、男のような低い声で『中森です』って。間違いだなと。『どちらの中森さんですか?』『中森です』『すいません、お間違いじゃないんですか?』とガシャって切ったんですね。朝起きて、よく考えたら『中森……え、明菜ちゃん?』って。ひょっとしたらね、1人でお正月を迎えて、寂しくなったのかな。次に会った時、『もしかして明菜ちゃんだったの? ごめんなさい』と謝りました。手紙も書いてマネージャーに届けてもらいました。でも、それ以降は素っ気なくなっちゃって……」

 明菜はその後も『難破船』『TATTOO』などヒット曲を連発。1989年秋頃、2人は偶然イタリアンレストランで再会した。

「すごく悩んでいて、私の席に来て『ルミ子さん、自信がないんです』と呟いた。だから、『自信がないと言うだけじゃ、何も進まないよ。自分を作るのは自分しかいない。明菜ちゃんには類稀な才能と魅力があるんだから』と優しく話したら、ワーッと泣き出しちゃって。周りの人も驚いていました。でも、その繊細さが明菜ちゃんの魅力でもある。感情移入して泣きながら歌って、絵になる人っていない。夜に光る月です。また歌い始めてくれて、私もすごくうれしいです」

 同じ時代を生きた2人は何かと対比される。しかし、両極端な魅力がお互いをより際立たせ、照らし合っていることも間違いない。

【プロフィール】
小柳ルミ子(こやなぎ・るみこ)/1952年7月2日生まれ、福岡県出身。1971年、デビュー曲『わたしの城下町』がオリコン年間シングル売上1位に。

取材・文/小野雅彦、岡野誠

※週刊ポスト2024年7月19・26日号

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