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【追悼】徳田虎雄さん 原動力となった「医療に革命を起こそうとする意志」 戦友が明かす「手についたぎょうさんの傷」への思い

NEWSポストセブン 2024年7月13日 9時15分

 医療法人「徳洲会」の創設者で、元衆議院議員の徳田虎雄氏が7月10日の夜、神奈川県内の病院で亡くなった。享年86。その人生に迫る評伝『ゴッドドクター 徳田虎雄』の著者でノンフィクション作家の山岡淳一郎氏が、徳田氏の「医療に革命を起こす意思」を振り返り、追悼を寄せた。

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 徳洲会の創設者、徳田虎雄氏の訃報をメディアが伝えるよりも早く、7月11日の未明に一通のメールが送られてきた。訃報を筆者に知らせてくれたのは、徳洲会のナンバーツーとして十数年間、徳洲会の運営に携わった盛岡正博氏(現・佐久大学理事長)だった。短い文面だったが、ポッカリと心に穴があいたような寂しさが漂ってきた。

 徳洲会は、傘下に76の病院と、診療所や介護事業所など300以上の施設を抱える日本最大の民間病院グループだ。職員数は約4万人、年商は5300億円を超える。救急医療の地域への貢献度は高く、1月に能登半島地震が発生した直後、被害が大きな輪島市にまっさきに駆けつけた医療支援チームは「TMAT(Tokushukai Medical Assistance Team)」だった。

 この巨大な医療インフラを一代で築いた徳田氏が、7月10日の夜、逝去した。86歳だった。64歳でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、身体が動かなくなり、声は出ず、瞼を開ける力も衰えて寝たきりだったことを思えば、ようやく楽になれたかな、とも感じる。

 すでに多くのメディアに追悼記事や、人物評が掲載されているが、徳田氏を医療の「善」と政治の舞台裏での「悪」の二分法で語り、相変わらず「異端者」扱いしているようだ。

 しかし、人間の行動は、善か悪か、白か黒か、単純に分けられるものではない。白とも黒ともつかない領域が重なり合って人は生きている。

 鹿児島県の奄美群島の徳之島で育った徳田氏が医師を志した根底には「怒り」があった。

 虎雄少年が、小学3年のとき、粗末な藁ぶきの家のなかで、3歳の弟が激しい嘔吐と下痢をくり返し、衰弱した。虎雄少年は、夜中に母に「お医者さんを呼んできて」と頼まれる。真っ暗な山道を2キロも駆けて医者に往診を頼みに行くが、貧しくて来てもらえず、弟は死んだ。虎雄少年は悔しさと怒りに包まれる。

〈医者は急病のときに患者を診ないといけない。医者は患者を診るためにあるもので、どういう人でも助けるのが医者のはずだ。私は医者になったら、困っている人をできるだけ助けるんだと、そのとき子ども心に決心した〉と自伝『生命だけは平等だ―わが徳洲会の戦い』に記している。

 徳田氏は、怒りをバネに医者になる。大阪大学医学部を卒業すると、自分の生命保険金を担保に、大阪府松原市のキャベツ畑だった土地を購入し、1973年に「徳田病院」を開く。間を開けず、「徳洲会病院」を次々に設立していった。

 その原動力は、医療に革命を起こそうとする意志だった。

 徳洲会が急速に病院を増やした1970~80年代、日本の医療は腐っていた。

 開業医は「患者が医者の都合に合わせて当然」と休日や夜間の急病人を診なかった。大学病院も、医師や看護師の負担が大きい救急患者を受け入れない。都道府県医師会を統率する「日本医師会」は、国会議員と厚生省(現・厚生労働省)の官僚を相手に医師の人件費に当たる診療報酬の引き上げ運動に明け暮れる。

 厚生省は、医師会に屈して1974年2月には診療報酬を平均19%も引き上げたが、国民が望む救急医療には十分な報酬をつけず、採算がとれないまま放置した。そのツケは患者に回される。全国各地で、救急車が患者の受け入れ先を見つけられず、立ち往生した。患者がたらい回しにされている間に命を落とすことも珍しくなかった。

 そうした状況に、徳田氏は「(この世には貧富の格差や差別はあるが)生命だけは平等だ」「年中無休、24時間診療」と声を張り上げ、関西、九州・沖縄、関東などの「医療沙漠」と呼ばれる無医地区に病院を建てていく。

 徳洲会が進出する地域の医師会は、“メシのタネ”である患者を奪われると怯え、自治体に圧力をかけてその計画を潰そうとした。だが、地域の住民は医療を渇望しており、徳洲会は民意を受けて病院の建設用地を確保する。各地で医師会と激闘をくり広げた。

手についた「ぎょうさんの傷」

 徳田氏の進撃を陰で支えたのが徳洲会に集まった全共闘世代の医師たちだった。彼らはボス教授が頂点に立ち、助教授(准教授)、講師、助手を従えて「医局」を支配する大学医学部を変革しようと激しい闘争をした経験を持つ。長いものに巻かれず、戦いの炎を絶やさなかった医師たちが徳洲会に集まった。

 その中心にいたのが盛岡氏だった。ときには、徳田氏を支えるために裏社会を相手に危ない橋も渡った。盛岡氏は、徳田氏と同じ徳之島の出身で、京都大学医学部を卒業し、精神医療の改革に打ち込んだ。その後、アメリカのボストン小児病院で2年間、客員研究員を務め、1981年に帰国すると徳田氏の訪問を受けた。盛岡氏は、徳田氏との出会いをこうふり返る。

「もの凄いバイタリティを感じましたね。一緒に医療改革をやろう、日本中、世界中に病院をつくって医療を変えたい、そのためには政治力も持たないとやっていけない。ゆくゆくは、俺はノーベル賞を取って、世界大統領になるつもりや、と彼は言った。僕は、徳田先生、あなたからはヒトラーか織田信長を連想しますよ、と申し上げたんです」

 すると徳田氏は、盛岡氏にこう吐露したという。

「ぼくの手には、ほれ、ぎょうさん傷があるやろ。草刈り鎌でついた傷や。小学3年から毎日、牛の餌にする草を刈った。痛くても、疲れても休まなかった。ぼくは頭が悪いから大学受験の勉強も生きるか、死ぬかやった。病院づくりも苦しみの連続や。苦しい状況に追い込まれたら、いつもそっと傷痕に触ってみる。徳之島の怒り、悲しみを忘れるな、がんばれと傷はぼくを奮い立たせてくれるんや。こんな傷だらけの手を持つ、貧乏人上がりの人間が、きみ、ヒトラーなんかにはなれんよ」

 盛岡氏は、ヒトラーも世のため、人のためと言いながら国民を狂気の戦争に引きずり込んだのではないか、と思いつつ、医療改革の運動体である徳洲会に人生をかけようと入職した。盛岡氏は採算が悪化した病院を立て直す。いまや徳洲会グループの旗艦病院に成長し、徳田氏が長い入院生活を送った「湘南鎌倉総合病院」は、盛岡氏が鎌倉市や神奈川県に水面下で働きかけ、「個人病院」として開設したところから始まっている。

「太陽」と「月」のような関係

 徳田氏が「太陽」なら盛岡氏は「月」のような間柄で、徳洲会を繁栄に導いた。

 が、しかし、徳田氏が衆議院選挙に当選し、巨額の裏金を政治に費やすようになると徳洲会の財務は悪化。銀行を交えた財務の立て直しの局面で盛岡氏は徳洲会を去った。そのひりひりするような顛末は、拙著『ゴッドドクター 徳田虎雄』に詳述したので、省略する。

 政界の保守勢力のなかで徳田氏は迷走し、ALSを発症した。全身不随で、肉声を失っても視線を文字盤に這わせて意思を伝え、経営の舵を執ろうとした。

 だが、病気が進むにつれて親族が経営に介入し、徳洲会は針路を見失う。2013年に徳田氏の次男が立った衆議院選挙で大規模な選挙違反が発覚し、幹部10人が公職選挙法違反で起訴された(徳洲会事件)。

 盛岡氏の胸には、徳田氏とのさまざまな場面が去来する。

「いろいろありましたが、徳田さんは紛れもなく、稀有な医療人でした。僕自身、面はゆい言い方になりますが、青春の時代に救急医療、地域医療を構築するために彼と共闘できたことは生涯の誉です。一緒にたたかった戦友ですね。うん、戦友です。ご冥福をお祈りします」

 翌朝、訃報メールをくれた盛岡氏に電話をすると「戦友」の死をこう語った。合掌。

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