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「水と油」の関係だった夫・蒋介石と米国交渉役との間に立った宋美齢夫人の”人間力”

NEWSポストセブン 2024年7月25日 12時10分

 1937(昭和12)年から、日本が中国との戦争を続ける中で、中華民国を率いて抗日戦を指揮していた蒋介石の存在は極めて大きかった。その蒋介石を陰ながら支えるだけでなく、より積極的に米国を味方に引き寄せる活躍を見せたのが、三番目の妻・宋美齢夫人だった。流暢な英語を話す宋美齢は、単に夫の通訳という立場にとどまらず、政治・外交上でも重要な役割を担ったのだった──。

 米国在住のノンフィクション作家・譚ロ美氏(ロは王偏に「路」)の話題の新刊『宋美齢秘録』より抜粋・再構成。

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 宋美齢は、放送や演説、電報を通じて、米国を中心とした世界に対し、日本の非道と残虐性を訴えた。だが、宋美齢が対米政策で果たした役割は宣伝戦だけにとどまらない。戦局を大きく左右するような米国からの支援を引き出すことに成功している。

 その一つが、米国人パイロットによる傭兵軍団「フライング・タイガース」である。「フライング・タイガース」という名称は中国語の「飛虎」から来ているが、この傭兵軍団の獲得にも宋美齢が一役買っている。

 1935(昭和10)年、国民政府行政院に航空建設委員会(のちに航空委員会と略称)が設立された。蒋介石が委員長を兼務し、宋美齢が秘書長に就任したが、実質的な職務は彼女ひとりが行った。やがて宋美齢は「空軍の母」と呼ばれるようになり、彼女自身も、「私の空軍」と誇らしげに口にするようになった。

 中国では当初、イタリア人アドバイザーが中国人パイロットを養成していたが、効果が上がらず、機体も近代化を図る必要があった。そのため蒋介石は宋美齢を通じて、米軍からアドバイザーを雇用しようと考えた。

 1937年、盧溝橋事件から2カ月後の9月、米軍パイロットのクレア・シェンノートが中国で蒋介石と対面した。彼は44歳だったが難聴を患い、退役を決めていた。蒋介石は経験豊富なシェンノートを航空参謀長として手厚く迎え入れ、月給1000ドル(現代の日本円に換算して約1200万円)という、当時としては破格の雇用契約を結んだ。契約期間は3カ月だったが、その後、宋美齢は8年間にわたり彼との契約を延長した。

 

米国人隊員を「エンジェル」と呼んだ宋美齢

 シェンノートは確かに中国のために役立った。着任早々、彼は「中国軍は、優れた戦闘機100機と優れたパイロットがいれば、日本軍の脅威を退けることができる」と、蒋介石に豪語した。

 蒋介石主席から親書を手渡されたシェンノートは米国へ帰国すると、ルーズベルト大統領に親書を手渡し、戦闘機100機とパイロット100名、地上要員として200名を募集することを許可された。ただし、日米両国は中立関係にあるため、米軍のパイロットを公に派遣するわけには行かず、身分上、米軍を退役した体裁を取り、義勇軍という格好で中国と雇用契約を結ぶよう命令された。

 シェンノートは高給を提示して志願者を募り、最終的にパイロットと地上要員合わせて100人が集まった。だが熟練者は少なく、三分の一は訓練不足のために、シェンノートは休日返上で訓練するはめになった。しかし、彼の訓練はあまりに厳しく、離脱者が続出した。それでも少数の義勇軍兵士が残り、国民政府の飛行部隊の中核になった。

 1938年、日本軍はポルトガル領マカオを航空爆撃し、中国沿岸部の港湾を海上封鎖したことから、国民政府の海上補給路が断たれた。残された補給路は、フランス領インドシナ、イギリス領ビルマ、タイを経由する山岳地帯の陸路のみとなり、「援蒋ルート(ビルマ・ロード)」と呼ばれた。その陸路もしばしば日本軍の空爆で寸断されたことから、英米両国から提供された食糧や武器、弾薬などの物資援助は、空路を使って細々と続けられた。

「フライング・タイガース」は、ビルマのラングーンと重慶を結ぶ3200キロの「援蒋ルート」の制空権を死守する使命を与えられた。

 シェンノートは、1941年に日本軍航空隊と初めて交戦し、中国からビルマにかけての空中戦で勝利した。だが、すでに太平洋戦争が始まり、米軍が正式に参戦したことから、「義勇軍」は浮いた存在になった。翌1942年7月、米軍は「フライング・タイガース」に対して解散命令を出した。

 解散する日、宋美齢は米国人メンバー全員を集めて、彼らを「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んで敬い、心から感謝の意を伝えた(林家有、李吉奎著『宋美齢伝』、北京・中華書局、2018年刊より)。

スティルウェル中将の結論は「蒋介石は支援する価値なし」

 1941年12月、日本の第一次、第二次「長沙作戦」により国民政府軍は多大な損害を被り、蒋介石は復興費用として5億ドルの借款を米国に申し入れた。春には財政援助として5000万ドル要請していたので、それに続く借款だった。

 ジョセフ・スティルウェル陸軍中将がルーズベルト大統領の命を受けて訪中した。彼に与えられた任務は、蒋介石・国民政府を支援しつづける価値があるかどうかを見極め、彼に軍事指揮権を与えるよう交渉することだった。

 すると蒋介石は、彼に軍事指揮権を与える代わりに、さらに10億ドルの借款を交換条件として持ち出してきた。

 スティルウェル中将は、ルーズベルト大統領に報告書をしたため、「蒋介石は無能で、米国が支援する価値なし!」と結論づけた。しかし、1942年2月、米国議会は借款の議案を通過させた。

 蒋介石にとって、これは天から降ってきた贈り物に他ならなかった。

 15億ドルという巨額の資金を手に入れた蒋介石は、資金の一部を日中戦争のために軍需品の購入に振り分けたが、大部分の資金は共産党討伐のための準備金として蓄積してしまったのである。

 蒋介石とスティルウェル中将は「水と油」の関係だった。傲慢で癇癪持ち、高飛車な物言いをするスティルウェルに、蒋介石は反感を覚えていた。スティルウェルも、国民政府の汚職体質と蒋介石の身勝手なやり口に腹を立て、二人はあからさまに対立した。

「蒋介石の発言は宋美齢の考え」と疑う人も

 当時の米中関係において、宋美齢が果たした役割で最も大きかったのは、米国議会での名演説とその後に行った全米講演旅行だろう。その二つの活動を通じて、彼女の人気が沸騰して、中国への同情と支持を得ることになったのである。

 だが、それは宋美齢が最初から意図したことではなかった。

 米国軍人や政治家、中国に駐在する米国外交官たちの中には、もともと宋美齢のファンが多かった。蒋介石と会談したりパーティーで同席したりするたびに、いつも蒋介石の傍らで通訳する宋美齢を見てきた。上流階級の使う英語と機知に富む話術、聡明で理知的で独特な見解を持ち、艶やかなチャイナドレス姿と神秘的な黒い瞳の彼女に魅惑された。それにも増して、彼女は中国の最高権力者の蒋介石主席の夫人なのだから、政治的な影響力も絶大だ。

 蒋介石が一言いえば、彼女は三言、十言、即座に英語に訳してみせる。「あれは蒋介石の意見ではなくて、宋美齢の考えではないか?」と疑う人も少なくなかったが、「彼女は私の永遠の女神だ!」と、公言して憚らない米国人外交官もいたほどだ。

訪米のきっかけは「病気治療」

 だが、宋美齢にとって米国人との交際はストレスが多く、中国内陸部の南京や重慶、さらに奥地の成都など、高温多湿な気候と不衛生な環境が耐えがたかった。いつしか疲労が積み重なり、全身の激しい痛みと強い倦怠感に襲われ、過呼吸の症状に見舞われるようになった。四六時中つづく激しい歯痛にも悩まされた。

 憔悴しきった彼女を見た米国人たちは口を揃えて、

「是非、米国で治療に専念してください」

 と勧めたが、彼女はウンと言わなかった。

 蒋介石も、彼女が自分の傍らから離れることを承服しなかった。

 だが、毎晩ベッドで苦しみもがく姿を見るに見かね、「あれはがんなのではないか」と心配する周囲の言葉を聞くうち、蒋介石もいよいよ不安が募った。当時はがんは「不治の病」と決まっていたからだ。

 そうした折に、ルーズベルト大統領夫妻から手紙が届いた。「宋美齢夫人が病気治療のために訪米するなら、万全を期してお迎えいたします」という、好意的な内容だった。

 米国で治療すれば快癒するかもしれず、米国政府との親善が深まり、中国に対する援助も順調に進むに違いないという期待感が、蒋介石の背中を押した。

 1942年11月18日、宋美齢は医師と看護婦を従えて、米国政府が差し向けた特別専用機に搭乗し、米国へ向かったのだった。

【プロフィール】
譚ロ美(たん・ろみ/ロは王偏に「路」)
作家。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。同大訪問教授などを務めたのち、日中近現代史にまつわるノンフィクション作品を多数発表。米国在住。主な著書に『中国共産党を作った13人』『阿片の中国史』『帝都東京を中国革命で歩く』『中国「国恥地図」の謎を解く』など。最新刊は『宋美齢秘録 「ドラゴン・レディ」蒋介石夫人の栄光と挫折』。

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