「COMPLETE SURRENDER(無条件降伏)」と大きな見出しが躍る米国紙を手にこちらに向かって微笑んでいるのは、中華民国・蒋介石総統の妻・宋美齢夫人。夫を支え続け、長きにわたった「抗日戦」に勝利した喜びと安堵が伝わってくる写真だが、宋美齢はこの時期、アメリカにいた。病気治療が目的だったが、終戦の前年から長女の家族とともにニューヨークに滞在していたという。その背景には、戦争の行方を心配するだけでない、穏やかならぬ事情があった──。
米国在住のノンフィクション作家・譚ロ美氏(ロは王偏に「路」)の話題の新刊『宋美齢秘録』より抜粋・再構成。
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宋美齢の対米外交における「最後の花道」となったのは、「カイロ会談」である。
「カイロ会談」は、1943年11月、エジプトのカイロで行われた米・英・中3カ国の首脳会談で、第二次大戦の連合国による対日方針と戦後処理について話し合われた。
この「カイロ会談」に参加したのは、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、中華民国の蒋介石主席の3人だった。そのため、この首脳会談は後に「3巨頭会談」とも呼ばれて、3首脳が並んで椅子に座っている写真が多く出回っている。
だが、中国人社会では、この3人に宋美齢を加えて、「4巨頭会談」として認識されている。確かに、彼女も3人と並んで椅子に座っていた。今日でも、台湾では4人並んだ「4巨頭会談」が記念切手に採用されているほどである。
蒋介石の不貞と宋美齢の怒り
「カイロ会談」から半年後の1944年夏、重慶であらぬ噂が立った。蒋介石の元妻だった陳潔如が激戦地の上海から重慶へ避難してきて、蒋介石と逢瀬を楽しんでいるという噂だった。
陳潔如は1927年に蒋介石が宋美齢と結婚する際、米国のコロンビア大学に留学させて、とうに縁を切っていたはずの女性である。だが人の口に戸は立てられない。当時、重慶に駐在していた米国の情報提供者は、米国国務院へ向けて報告した。
〈目下、重慶では蒋氏の家庭が紛糾しているという噂が飛び交っています。蒋氏に情婦がいることはだれでも知っていますし、蒋夫人との間で少なからず緊張した関係にあることが取り沙汰されています。
政府要人の私生活は、本来は政治報告の範囲ではありませんが、中国は例外です。噂の対象になっているのは独裁者で、夫人の実家とは無関係ですが、蒋委員長と[夫人の兄である]宋子文の対立は少なからず緊迫しているうえに、夫人は傲慢で拘りの強い気性ですので、夫[蒋介石]と決定的に決裂すれば、王朝がまるごと分裂する危険性があり、中国にとっても外国にとっても取り返しのつかない打撃となるでしょう。もし現在の状況が国外に知れわたれば(早晩そうなるでしょうが)、蒋委員長夫妻の威信は大きく傷付くことは間違いありません。[中略]
夫人は目下、蒋委員長にこの話をするとき、「あの女」とだけ言い、蒋委員長が「あの女」に会いに行く時だけ、入れ歯を入れていくことを恨んでいます。[中略]
しかしながら、多くの見方では、権力を失うことは宋一族にとっても損害が大きく、彼ら[孫文夫人の宋慶齢を除いて、長女・宋靄齢の夫である孔祥煕も]は、全力で決裂するのを回避しようと尽力したことで、蒋夫人もようやく矛を収めたとのことです。〉
(林家有、李吉奎著『宋美齢伝』、北京・中華書局、2018年刊より)
これはあくまで噂に関する報告書だが、実際もその通りだったようだ。
1944年8月12日、蒋介石は国民政府総務部交通課を通じて、党と軍の最高幹部を招集すると、茶話会を開いて弁解したという。
〈今、世間では私が蒋夫人を裏切り、陳なにがしという女性と親密な関係にあると噂になっている。そんなことはまったくない。国内外の反対勢力が、国民党の威信を傷つけ、抗戦に不利益をもたらすために流したデマだ。みなも知っている通り、私と蒋夫人は神聖な宗教で結ばれていて、革命の伴侶でもある。[中略]
現在の局面は非常に厳しく、今年は抗戦で最悪の年であり、私と蒋夫人は危機感を共有し、一致団結して奮闘し、最後の勝利を勝ち取ろうとしている。〉(前掲書より)
それを聞いた側近の一人は、なぜ戦時中の重大な時期に最高幹部を招集して、こんな話をするのかと、怪訝に思ったという。
「宋美齢はもう中国に戻らないのでは」との噂も
翌日、宋靄齢と娘夫婦は、医師から病気治療を勧められていた宋美齢を誘って一緒に重慶を離れ、ブラジルへ飛んだ。ブラジルでは靄齢の懸案だった投資案件の処理を済ませ、9月6日、全員でニューヨークへ移動した。靄齢と孔祥煕は、このとき中国に保有していた巨額の資産を南米へ移したと噂された。
宋美齢はニューヨークで、その2年前にも入院したプレスビテリアン病院に1カ月ほど入院した。その後、マンハッタン北部のリバーデールにある孔祥煕の邸宅に移った。邸宅からはハドソン川が眺められた。
中国では、宋美齢はもう祖国に戻ってこないのではないかと、噂になった。
その間にも、世界は動いていた。イタリアやドイツが連合国軍に対して降伏し、残る枢軸国は日本だけになった。
宋美齢が頼みの綱としていた、フランクリン・ルーズベルト大統領が脳出血で倒れたのは、そうしたときだった。大統領の権限は、副大統領のハリー・S・トルーマンが急遽引き継いだ。
1945年8月、米国は広島、次いで長崎に新開発の原爆を投下し、20万人もの命を一瞬にして奪い去った。その惨状を目にした天皇は終戦の詔勅を発して、「ポツダム宣言」を受け入れることを国民に伝えた。
そして宋美齢は、日本が降伏したと聞いて、矢も楯もたまらず帰国したのだった。
【プロフィール】
譚ロ美(たん・ろみ/ロは王偏に「路」)
作家。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。同大訪問教授などを務めたのち、日中近現代史にまつわるノンフィクション作品を多数発表。米国在住。主な著書に『中国共産党を作った13人』『阿片の中国史』『帝都東京を中国革命で歩く』『中国「国恥地図」の謎を解く』など。最新刊は『宋美齢秘録 「ドラゴン・レディ」蒋介石夫人の栄光と挫折』。