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西條奈加氏『バタン島漂流記』インタビュー「人格者よりも欠点がある人の方が面白いし、ロマンよりも生活感を私は書きたいんです」

NEWSポストセブン 2024年7月21日 16時15分

 幕府開闢から65年。四代家綱の世に、江戸で尾張家御用の植木類を積み込んだ弁才船が三河沖で遭難し、フィリピン・バタン島まで33日間の漂流を強いられた史実を、直木賞作家・西條奈加氏の最新刊『バタン島漂流記』はモデルとする。

 直接のきっかけはテレビ。『池内博之の漂流アドベンチャー』(2016~2019年、全4回、NHK BS)という番組で、西條氏はその印象的な島の名前を初めて知ったという。

「江戸~明治期の漂流譚と同じことをヨットでやってみるシリーズの、確か第2回だったと思います。船の上で海水から真水を作ってみたり、退屈が最大の敵だったり、バタン島へと向かうその回が特に印象に残ったんです。あの島にはその後も何回か日本の船が漂着した記録も残っていて、海流の関係で流れ着きやすいみたいです」

 そして、本書の主人公で七番水夫の〈和久郎〉にしろ、運よく生還できたから記録に残っただけだとも著者は言い、〈板子一枚下は地獄〉をまさに地で行く計15名の島に着くまでと着いてからを、手に汗握る虚々実々の物語に描くのである。

「私も『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』は好きでよく読みましたし、あと漂流物ではないけれど、『小公女』で全てを失った主人公が生活を一から設えていく場面が大好きで、いつか自分でもそういった物語を書きたいという気持ちはありました。

 ただ史実物って得意じゃないんです。何作か書いてはいますけど、どうしても表舞台に立った偉い人の話になりがちですし、戦や政治には興味が持てなくて。それよりは市井の人や武士でも下っ端の人を私は書きたいし、漂流記でもロマンがどうこうより何を食べて、衣服や寝具はどうしたのかとか、そっちが気になる。

 たぶん私が書きたいのは生活感で、今回も何もない状況下で何とか生き延びようとする和久郎達の生死のかかった生活感が、うまく描けていれば嬉しいです」

 船頭の〈志郎兵衛〉以下、楫取の〈巳左衛門〉と賄の〈久米蔵〉が三役を務め、 38歳の碇捌〈五郎左〉らが中堅。その下に17歳の八番水夫〈淀吉〉までがいて、さらに弱冠15歳で半人前の炊〈桟太〉がいる布陣は、名前こそ架空だが出身地や年齢は史実のままだという。

「船頭が54で最年少の炊が15歳。その間に20~40代がバランスよくいて、ちょっとした会社みたいですよね。船名は少し変えて〈颯天丸〉にしましたけど、船主が知多郡大野村の廻船問屋、権屋で、船員も15人中7人が大野村出身なのは史実の通りで、当時〈ランビキ〉と呼ばれた方法で真水を精製したり、外洋では意外と魚が釣れず、僅かな米と〈豆茶雑炊〉で15人が1か月食い繋いだのも、調書に残っている通りです」

 和久郎は25歳。同じ大野村出身で、賄補佐も務める三番水夫の〈門平〉に水をあけられたのも、和久郎がかつて船大工を志しながら、修行先で悩み、挫折したからだ。が、そんな彼が船に乗れるよう口を利いてくれたのも門平で、力は強いが口は重い和久郎と、〈船乗りは、船の上に自前の店をもつようなものなんだ〉と廻船業の面白味を語る聡明な門平は昔から馬が合った。

 颯天丸は陸沿いに寄港と風待ちを繰り返す〈地乗り航海〉の廻船で、この時も寛文8年10月に江戸を出ていったん下田に寄港。再び下田を出た11月4日の夜に〈大西風〉と呼ばれる突風に煽られ、黒潮に呑まれた後、黒潮再循環流という南西に逆行する流れに乗り、バタンまで運ばれたらしい。

 その間、磁石も持たない船頭以下が、帆柱を切り、荷を捨て、または髷を落として〈船魂さま〉に捧げる様を西條氏は克明に活写し、〈暇は隙になり、隙には気鬱が宿る〉からこそ相撲や〈歌会〉を催し、事がうまく運べば全て〈神仏のおかげ〉とした船頭らの知恵と工夫は、中でも興味深い。

「私も会社に20年いたので、いろんな人の技量が事態をうまく回す話は好みですし、何事も合議制で決めていたのは事実らしく、とにかく一々〈神籤〉を引くんです。でも考えてみるとそれが一番平等を保てる方法で、全部神様のせいにした方が、誰かの責任にしなくて済む。自暴自棄に陥る隙を与えないよう気持ちをうまく散らしてあげるのも、上の人の役目なのかなと思います」

なぜ1人だけが島に残ったのか

 四番水夫の〈徒佐八〉がかつて見たという漂流船の逸話も忘れ難い。遺体には明らかに仲間と争った跡があり、〈誰も彼も獣みてえな面相で死んでんだ〉〈せめて人として、あの世に送ってやるのが人の道だと、頭は仰っていた〉と彼は言い、不満分子の襲撃から頭を守ろうと和久郎を護衛に誘う。実はそれを促したのは門平で、〈おめえには、素直な耳がある〉という友の評価に又聞きながらも励まされた和久郎は、不安に苛まれた者の声に真摯に耳を傾け、〈船に修羅が降る〉事態を避けることに一役買うのだ。

 そもそも一見端正で滋味深い江戸の人情噺に、突如、人間の愚かさや惨いほどの闇が顔を覗かせる西條作品は、まさに板一枚の世界。

「イイ人や人格者って書きづらいんですよね。欠点も相応にある方が書いていて面白いし、主人公も豪快な船乗りどころか、現代風のモチョモチョ悩む系男子になってしまいました(笑)」

 だが上陸直後にいきなり船を壊され、奴隷扱いさえされた彼らが、船を自力で再建して故郷に帰る計画を共有できたのも、和久郎の挫折あってこそ。その間に身についた船作りの基礎や、〈アダン〉や〈カラム〉といった彼を慕う島の子供達の協力もあって、新生颯天丸は約2年後に島を出る。

 その時点で3人が落命し、1人は島に残ることを決意。さらに残りの11人が日本に着くまでや着いてからも、鎖国の禁を破った彼らには幾多の試練が待つのである。

「最初の村で奴隷同然に酷使され、南京まで船があるからと唆されて脱走までして移った次の村でもその話が嘘だったり、記録自体はあっさりしているんですが、短いわりにいろいろな話の要素が詰まっているんです。

 個人的には1人で島に残ったという男の心境が最大の謎で、なぜ彼は1人で島に残ったのか、余程のひねくれ者か、あるいは逆に情が深すぎたのか。延々考えながら書いていきました」

 島では〈ビニエベフ〉と呼ばれるバナナの甘さなど、「島ならではの天国感」も書きたかったものの1つだといい、人の強さも弱さもこの世の光と闇も、作家の目は無機質な記録の向こうに見透かしてしまうらしい。

【プロフィール】
西條奈加(さいじょう・なか)/1964年北海道生まれ。会社員を経て2005年『金春屋ゴメス』で第17回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。2012年『涅槃の雪』で中山義秀文学賞、2015年『まるまるの毬』で吉川英治文学新人賞、2021年『心淋し川』で直木賞を受賞。他に『善人長屋』シリーズ(2022年にドラマ化)や『ごんたくれ』『無暁の鈴』『曲亭の家』等。「うちの家は父が歯科技工士、祖父も時計職人で、だから物を作る場面に惹かれるのかも。私は不器用ですけど(笑)」。157cm、B型。

構成/橋本紀子

※週刊ポスト2024年8月2日号

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