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【逆説の日本史】清朝皇族と大陸浪人の交流から生まれた「満蒙独立運動」

NEWSポストセブン 2024年7月24日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その1」をお届けする(第1424回)。

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 大隈重信内閣が基調とする英米協調路線は、英米対決路線よりははるかに「穏健な」方針だが、それは決して平和、それも日中平和をめざすものでは無かった。両路線とも帝国主義を推進し植民地を獲得するという方向性は同じで、中国に対しては可能な限り領土を奪取し利権を獲得しようとするものであった。

 ずっと以前に述べたように、当初はイギリスと、そのイギリスの横暴な植民地支配に反発して独立したアメリカとは、路線が少し違っていた。中国に「開国」を求める際、イギリスはアヘン戦争とアロー戦争で多くの中国人を殺したが、アメリカは日本に対してそのような野蛮な行動には踏み切らなかったし、フィリピンに対してもインドに対するイギリスのやり方を真似しなかった。

 だからこそ、第一次世界大戦の緒戦において中華民国・膠州湾で日本がドイツを駆逐したときも、イギリスは日本がドイツの利権を継承することに反対はしなかったが、アメリカは日本の中国に対する領土的野心を強く警戒した。

 これに対して日本は、前にも述べたようにアメリカの意向は無視し、イギリスと対立しつつもイギリスのやり方は見習うという形を取っていく。たとえば、標的とする国の内部の対立を煽り、中国式の「遠交近攻」で植民地を広げていくというやり方である。イギリスは大国インドをこの方式で植民地化した。国土の面積で言えばインドよりはるかに小さいイギリスが、勝利を収めたのである。

 となれば同じやり方で、中国よりもはるかに国土面積が少ない日本も、中国の一部を奪うことができるはずである。そしてイギリスのやり方を見習うとしたら、現地の民族対立を煽ることだ。だから日本は漢民族の孫文によって「駆除」の対象にされてしまった満洲族をバックアップして、最終的には満洲国を作った。そして、もう一つ漢民族に対抗する勢力として日本が期待した民族がある。それが蒙古族であった。

 そもそも蒙古族と満洲族には、大きな共通点がある。蒙古族は「元」、満洲族は「清」という中国本土を支配する王朝を建てながら、いずれも最終的には漢民族に敗れ故郷の地に追放されたことである。当然漢民族は再び「中原の地」を彼らに奪われることを警戒し、彼らに対しては弾圧的な政策をとった。

 そもそも根っからの農耕民である漢民族と違って、蒙古族も満洲族も遊牧民である。漢民族とは本来まったくそりが合わない。逆に、漢民族の側から見れば彼らを服属させるということは、彼らの故郷である草原地帯を支配し、遊牧をやめさせ農耕に従事させることである。そんなことは文字どおり「まっぴらごめん」であるのが彼らだ。

 この状態は日本から見れば「敵の敵は味方」であり、取り込みようによっては頼もしい味方になるということだ。そこで日本は満洲族だけで無く、蒙古族にも接近した。「蒙古」という言葉は「邪」馬台国のように中華思想を奉ずる漢民族が彼らを馬鹿にして当てた漢字だから、これからは原史料による表記は例外として、原則としては「モンゴル」と表記する。では、モンゴル人(あるいはモンゴル民族)とはどのようなものか?

〈12~13世紀にチンギス・ハンに率いられてアジアからヨーロッパにまたがる一大帝国を築いた遊牧民族。中国での漢字表記では蒙古族(もうこぞく)。狭義にはモンゴル国(外モンゴル)の人口の大多数を占めるハルハと中国、内モンゴル自治区に居住するチャハルをさすが、広義にはロシア領バイカル湖周辺のブリヤート、ボルガ川下流域のカルムイク、モンゴル国内に居住する若干の少数民族(デルベト、バイト、ザフチン、オリョト、トルグートなど)、さらに中国のトンシャン(東郷族)、ダフール(達斡爾族)、トゥ(土族)、ボウナン(保安族)なども含まれる。人口はモンゴル国に約182万(1996)、中国内モンゴル自治区に約480万(1990)である。体型的には典型的なモンゴロイドで、平坦(へいたん)な顔つき、目に厚い蒙古ひだがあるのが特徴的で、四肢は短いが、体つきは全体的に頑健である。(以下略)〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者佐々木史郎)

 おそらく、現在六十歳以上の人間なら明確に記憶していると思うが、かつて「蒙古斑」という言葉があった。新生児の臀部に見られる「青いあざ」のことで、かつてこれはモンゴル人と日本人が「同族」である証拠だなどと言われた。もちろんモンゴル人も日本人も人種学的に言えばきわめて近い人種であることは間違い無いのだが、最近はモンゴル人と日本人だけに見られる現象では無いことが医学的に証明されており、最近は「児斑」と呼ばれている。

〈乳幼児の体幹背面、とくに尾仙骨部を中心として現れる青色斑をさし、小児斑ともいう。モンゴロイド(黄色人種)に100%近くみられるところから蒙古(もうこ)斑Mongolian spotとよばれたが、白人でも10~20%、黒人では80~90%もみられるので、児斑または小児斑とよばれるようになった。(以下略)〉
(前掲同書 項目執筆者齋藤公子)

 しかし、こんなことはいまでこそ常識だが当時の人々は知らないし、モンゴル人は農耕民では無いものの、顔かたちは日本人とよく似ている。また言語も中国語と違ってモンゴル語は助詞などを使って主語と述語を「くっつける」膠着語に属する。日本語も朝鮮語も膠着語だ。難しいことでは無い。

 中国語だと「我愛你(ウォアイニー)」で済むが、日本語だと「私(は)あなた(を)愛し(ます)」のように「膠着」させる言葉が必要になるということだ。当然ながら日本語とモンゴル語は(朝鮮語も)語順や文法が同じになるから、中国語よりは覚えやすいことにもなる。ちなみに中国語は、言語学の分類では孤立語という。助詞などを必要とせず「孤立」した単語の配置によって文章を綴れるからだ。

 いずれにせよ、同じ外国語でも日本人にとってはモンゴル語のほうが学びやすい。逆に、モンゴル人にとっても漢民族より日本人のほうが親しみやすいということになる。そこで、農耕民の漢民族とは相容れないモンゴル人と満洲族を日本の力で団結させて中国と対抗させよう、という動きが日本人のなかから出てくることになる。それを満洲族の「満」と蒙古族の「蒙」とを併せて満蒙独立運動と呼ぶ。

 具体的には満洲(中国東北部)および中国領の内モンゴルを中国から分離独立させる計画になる。「内」モンゴルとは、モンゴル人の本拠である大草原地帯(外モンゴル)の南側で中国本土に近い一帯を指す。元の時代には英雄チンギス・ハンが基礎を築いた、外モンゴル、内モンゴル、中原(万里の長城の内側)すべてにまたがる大帝国があったのだが、元が漢民族の明によって滅ぼされると漢民族が草原地帯の南側を支配する形となった。「外」から見れば、本来は遊牧民のテリトリーである草原地帯が農耕民に奪われ、同胞が屈辱の支配を受けている、という認識になる。

独立運動は「満洲族主体」

 ところで、第一次世界大戦の拡大の背景に「大セルビア主義」があったことを覚えておられるだろうか? 世界大戦のきっかけはオーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国の二か国間の限定戦争のはずだった。日本は幸いにして島国なので、民族の一部がほかの帝国に支配されてしまうなどというケースは無かった。しかし、大陸においては珍しく無い。ヨーロッパでもユーラシアでも事情は同じである。

 セルビア人はセルビア王国という独立した国家を持っていたが、少なからずの同胞がオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった。それを分離・独立させセルビア人は同じ国家でまとまろう、というのが大セルビア主義である。ちなみに、帝国というのは国王では無く皇帝が統治する、複数の民族を一つの理念のもとに統合した国家のことだ。

 オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア人の分離・独立など認めない。一つでも認めてしまえば、帝国自体が崩壊の危機に瀕することすらありうる。当然、帝国は分離・独立派を弾圧する。戦争のきっかけは、セルビア人ガヴリロ・プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺したことだったが、その背景にはこうした民族対立があったのである。

 モンゴル人にも、中国に支配されている同胞を「解放」し「内モンゴル」などという「占領地域」を分離独立させたい、という思いが当然あった。そこで日本人は、満蒙独立運動を国力拡張の一つの選択肢として視野に入れるようになる。そのリーダーとも言うべき存在が、川島浪速であった。

〈川島浪速 かわしまなにわ
一八六五-一九四九
明治、大正、昭和時代前期の大陸浪人。慶応元年(一八六五)十二月七日、信濃国松本藩士川島良顕・栄子の長男として、松本北馬場町(長野県松本市)に生まれる。明治八年(一八七五)一家は東京に移住。のち外国語学校に入学し中国語を学ぶ。同十九年同校を退学、同年上海に渡航し、中国各地を見聞する。同二十二年病を得て帰国。二十七年日清戦争勃発、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦。二十九年台湾総督乃木希典の知遇をえて、台湾総督府官吏となる。三十三年義和団事件では再び陸軍通訳官として派遣軍に加わり、のちには軍政事務官を兼任し、警察業務にたずさわる。翌三十四年警務学堂を創設し、警察官の養成に尽力した。このころから清朝の粛親王、蒙古王喀喇沁らと親交を結ぶ。四十五年辛亥革命により清朝が滅亡すると参謀本部と通謀し、粛親王を北京から旅順に脱出させ、同王を擁して第一次満蒙独立運動を計画し、実行に移したが、政府の計画中止の命令により挫折し、同年帰国した。(以下略)〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊)

 経歴はまだまだ続くのだが、とりあえずこれくらいにしておこう。というのも、川島は生涯二度にわたって満蒙独立計画を実行するのだが、これはその一回目のものだからだ。じつは、その二回目が実行された時期こそ大正初期の大隈重信内閣の時代だったのだが、その内容を深く理解するためには一回目の試みも知っておく必要がある。そのためには、まずキーパーソンである粛親王を知らねばならない。粛親王とは家の名前で、個人名では無い。日本の宮家のようなもので、歴史上「三笠宮」が一人だけで無く何人もいるように、粛親王も世襲で何人もいる。しかし、歴史上「粛親王」と言えば、それはこの時代に活躍した粛親王善耆のことを指すので、彼の経歴を紹介しよう。

〈粛親王善耆
しゅくしんのうぜんき/スーチンワンシャンチー
[1866-1922]
中国、清(しん)朝の皇族。1898年、父の後を継いで粛親王となり、翌年護軍統領となった。1900年の義和団事件では御前大臣として、西安(せいあん/シーアン)へ避難する西太后と光緒帝(こうしょてい)に従った。07年から5年間、民政部尚書として警察行政の改善に務め、首都北京(ペキン)の治安維持に功績をあげた。その間、日本側と親しくなり、とくにいわゆる大陸浪人の一人である川島浪速(なにわ)とは義兄弟の交わりを結んだ。11年の辛亥(しんがい)革命に際しては宣統帝退位に反対する強硬論を唱えた。中華民国成立後は日本の支配下にある旅順に隠棲(いんせい)し、同地で没した。(以下略)〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者倉橋正直)

 満蒙独立運動は、モンゴルでは無く清朝の廃止に反対する粛親王善耆と、大陸浪人川島浪速との交流によって生まれたものだということだ。あくまで満洲族主体のものだった。だから満蒙独立運動は「大モンゴル主義」とは呼ばれない。もちろん、その要素を含むモンゴル独立運動でもあるのだが、これを推進した人々がもっとも重要視したのは、モンゴルでは無く満洲のほうだった。

 このあたり、同じ大陸浪人でも漢民族のリーダー孫文を援助することによって、漢民族主体の新しい中国を作ろうとした宮崎滔天とはまったく違う方向性である。一口に大陸浪人と言っても、めざすものはそれぞれ違ったということだ。もちろん彼らは方法論の違いこそあれ、最終的には「東洋平和」をめざすという点では一致していた。欧米列強の干渉を排除して民族自決の形を作る、ということだ。

 だから川島は、やむを得ない事情もあったものの満洲族を「駆除」するなどというスローガンを出した孫文を援助するのは間違っている、と感じたに違いない。逆に、その川島の行動に対し「孫文応援団」の人々は、「清朝を廃してこそ中国は近代化できる」と反発したのだ。

(第1425回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年8月2日号

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