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篠原信一が「銀」に泣いたシドニー五輪「世紀の誤審」から24年 柔道界の鉄人が指摘する「国際試合ならでは」の事情

NEWSポストセブン 2024年7月23日 11時15分

 パリ五輪の開幕が目前に迫るなか、大会初日(日本時間27日)から8月3日まで、連日予選と決勝が行なわれる柔道に注目が集まっている。日本選手団のメダルラッシュが期待されるが、五輪をはじめとする国際大会では、日本人選手が審判の判定に苦しみ、泣かされてきた過去がある。なぜ、そうした事態が起きるのか。かつて選手、指導者、審判員の“三刀流”を長く続けたことから「柔道界の鉄人」と呼ばれた正木照夫氏に、『審判はつらいよ』の著者・鵜飼克郎氏が聞いた。(文中敬称略)

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 日本古来の柔術をベースに誕生した柔道は、いまや「JUDO」として世界200以上の国・地域に競技登録者がいる国際メジャースポーツとなった。

 柔道が世界に広く知られるようになったきっかけは、1964年の東京五輪で正式競技に採用されたことにある。当時は27カ国・地域からの参加だったが、2度目の東京五輪(2021年)では128カ国・地域に拡大した。

 発展に寄与したのが「ルール変更」だ。1968年のメキシコ五輪で「世界的に普及していない」という理由で柔道は正式競技から除外され、復活のためには「全世界で通用するルール」を整える必要があった。その取り組みによってヨーロッパでの競技者が増え、1972年のミュンヘン五輪で正式競技に復帰した。

 だが、世界に「JUDO」が広がっていく一方で、皮肉にも問題が浮き彫りになる。国際審判員として福岡国際女子柔道選手権や国内最高峰の全日本柔道選手権で主審を務めてきた正木照夫は、「柔道の国際化によって誤審が急増した」と指摘する。

 1947年生まれの正木は、拓殖大学時代の1969年に全日本学生柔道選手権無差別級で優勝。大学卒業後に和歌山県の高校教諭となってからも全日本選手権に10度出場し、出場選手最年長の32歳で出場した1979年の全日本選手権では、大会3連覇を狙う22歳の山下泰裕と熱戦を繰り広げた。

 1984年には競技実績を評価されて全日本柔道連盟の審判員となる。1996年に「正木道場」を興す一方で、55歳まで全国教員柔道大会に出場。選手、指導者、審判員の“三刀流”を長く続け、「柔道界の鉄人」と呼ばれた。

「審判員は基本的に元トップ選手が務めます。しかし国際試合となると出場選手とは別の国の審判が務める必要がある。そのため世界各国から審判員が大会に派遣されるが、柔道のレベルが高くない国では、選手として世界レベルで戦った経験がある審判員はほとんどいない。高度な駆け引きに目が慣れていないため、シドニー五輪での“世紀の誤審”のようなことが起きてしまうのです」

シドニー五輪「世紀の誤審」の背景

 2000年9月22日、シドニー五輪100キロ超級の決勝戦。日本代表の篠原信一の対戦相手は、世界選手権覇者で96年アトランタ五輪王者のダビド・ドゥイエ(フランス)だった。

 1分半が過ぎたあたりで篠原はドゥイエの内股に反応し、右脚を高く突き上げて内股すかしで切り返す。ドゥイエは背中から、篠原は横から落ちた。篠原は一本勝ちを確信したが、判定は有効。しかも篠原ではなく、ドゥイエのポイントとなった。

 最も近くにいた副審は篠原の一本勝ちを宣告したが、主審ともうひとりの副審がドゥイエの有効と判定。そのポイントのまま試合は終了し、篠原は銀メダルに終わった。

 試合後、日本は山下泰裕監督と斉藤仁コーチが猛抗議したが認められなかった。後に全日本柔道連盟(全柔連)が抗議文を送り、国際柔道連盟(IJF)は「両者とも技は完全ではなかった」として、ドゥイエ有効の判定を誤審と認めた。

 篠原の勝利に覆ることはなかったが、これがビデオ判定導入のきっかけとなった。

「柔道は相撲と同じように選手が同体で倒れることが多い。相撲は先に落ちたとか、先に土俵を割ったという明確な判定基準があるが、柔道の場合は“どちらの体が死んでいるか”が重要で、判定の難しさでもある。百戦錬磨の選手でないと、“相手に投げられたか、技を返したのか”という違いがわからない。

 シドニー五輪決勝の審判を責めるつもりはありません。主審は篠原やドゥイエの技のレベルを体験したことがなかったからです。あえて言うなら、なぜ彼を決勝の審判員にしてしまったのか、ということでしょう」

 主審を担当したのはニュージーランド出身の柔道家で、実力は「二段」だったといわれる。

講道館ルールとIJFルールの相克

 柔道は「ルール変更」によって国際化が進んでいったが、ルールに則って判定する審判は度重なる変更に翻弄されてきたともいえる。

 日本の柔道は総本山の講道館が規定する「講道館ルール(講道館柔道試合審判規定)」で行なわれてきた。世界大会でも第1回世界柔道選手権(1956年)と東京五輪(1964年)では「講道館ルール」が採用され、第4回世界柔道選手権(1965年)までこのスタイルだった。

 だが、柔道の国際化を目指して1967年に国際柔道連盟が「IJFルール(国際柔道連盟試合審判規定)」を制定し、それ以降の世界大会で採用されるようになった。

 日本でも高校生以上の大会は基本的に「IJFルール」になったが、体重無差別で柔道日本一を決める全柔連主催の全日本選手権や全日本女子選手権は、引き続き「講道館ルール」で行なわれた。2つのルールを使い分けるという歪な構造だが、それには「有効」や「効果」といったポイント制の側面が強い国際ルールに対して、全柔連には「一本勝ち」を重視する“柔道の母国としてのプライド”があったともいわれる。

「日本は『一本勝ち』こそ柔道の王道だとするが、世界は細かいポイントを積み重ねて勝つ『JUDO』を目指してルール変更を繰り返してきた。そのため“美しい技”にこだわる日本勢は国際大会で苦戦を強いられた時代が続いた」

 それでも全柔連は頑なだった。正木は審判委員会で「柔道は日本発祥だが、世界的スポーツになるためには『IJFルール』を取り入れるべきだ」と発言して反感を買ったことがあるという。

「“世界がルールを変える前に、日本が先に改革すべきだ”と言ったこともあります。日本の柔道界は石頭ですから、黒船が来て初めて目が覚める。私はレスリング経験もあったので、そういう発想になれたのかもしれません」

 そんな全柔連が、2011年に主催の大会から「IJFルール」を導入することを決めた。きっかけはその前年に国際柔道連盟が発表した、「組み合わずに対戦相手の脚をいきなり手で取る技」を反則負けとするルールへの変更だった。欧米のレスリング出身選手が得意としていた「朽木倒」「双手刈」といったタックルに近い技を禁止し、「組み合って戦う」という柔道の根幹に関わるルール改正が行なわれたからだ。

「講道館ルールも順次変更すればいいという提案もあったが、すでに全日本選抜柔道体重別選手権などの大会では『IJFルール』が導入されていたこともあり、2つのルールがあると(移行期間に)現場が混乱するという懸念が上回った。しっかり組んで技を出し合うスタイルに戻ろうという意図が日本の求める柔道と合致したこともあり、ついに全柔連主催の大会でも『IJFルール』の導入を決めた」

 このルール改正については、五輪の伝統競技であるレスリングとの差別化を図りつつ正式競技として存続させようとする、国際柔道連盟の狙いがあったといわれる。

 その後も国際柔道連盟では五輪開催に合わせてルール変更を繰り返してきた。北京五輪後に“効果”を廃止していたが、“有効”も廃止して“一本”と“技あり”に限定し、“技あり”2つで“合わせて1本”を復活させた。試合を4分間に短縮し、勝負がつかなければ時間無制限の延長戦突入。さらに旗判定廃止といった変更も行なわれた。

 そのように国際化とともに「IJFルール」が定着する中、全柔連は「講道館ルール」に回帰するかのように、2024年の全日本選手権から「旗判定の復活」「試合時間5分に延長(決勝は8分)」などのルールに変更し、試合時間内で必ず決着をつけることにした。つまり、再び国内で2つのルールが共存する構造だ。

 正木はこう説明する。

「国際大会の過密日程などでトップ選手が全日本選手権を回避するケースが増えた。そこで国際ルールから離れ、世界的に珍しい“体重無差別の大会”を魅力あるものにする狙いがあるようだ。近年は世界的にも頻繁なルール改正が行なわれている。大会によってルールが違うのも柔道ぐらいでしょう。その是非はさておき、審判員も柔道家もルールへの対応力が求められているといえる」

(了)

※『審判はつらいよ』(小学館新書)より一部抜粋・再構成

【プロフィール】
鵜飼克郎(うかい・よしろう)/1957年、兵庫県生まれ。『週刊ポスト』記者として、スポーツ、社会問題を中心に幅広く取材活動を重ね、特に野球界、角界の深奥に斬り込んだ数々のスクープで話題を集めた。主な著書に金田正一、長嶋茂雄、王貞治ら名選手 人のインタビュー集『巨人V9 50年目の真実』(小学館)、『貴の乱』、『貴乃花「角界追放劇」の全真相』(いずれも宝島社、共著)などがある。柔道の審判員のほか、野球やサッカー、飛び込みといった五輪種目を含む8競技のベテラン審判員の証言を集めた新刊『審判はつらいよ』(小学館新書)が好評発売中。

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