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【独白5時間】超老老介護の果てに、長年寄り添った妻・節子さんを殺害した吉田友貞さん(80)が涙ながらに語った“幸せだった日々”「それなりに女も酒も…」華やかなシングルライフの果てに50歳で結婚「花が好きだった妻とお互い信頼しあっていた」

NEWSポストセブン 2024年7月29日 16時55分

 平均寿命が延び世界でも指折りの超高齢社会となっている日本。“老老介護”は65歳以上同士の夫婦や兄弟姉妹間での介護を指す言葉とされるが、近年は“超老老介護”という言葉も生まれた。75歳以上同士の“老老介護”がそれに当たる。被介護者だけでなく、介護をする側も高齢による体や心の不調を抱えているケースも多く、社会問題となっている。

 東京地裁で6月20日、ある刑事裁判の判決があった。世田谷区にある3階建ての都営住宅で夫婦2人暮らしをしていた吉田友貞さん(80)は2023年10月1日頃、自宅で妻の節子さん(当時85)の首を絞めて殺害した。東京地検は「妻の言動に腹を立てての犯行で、強固な殺意に基づく」として、懲役7年を求刑していた。しかし、地裁の島戸純裁判長は、吉田被告は“超老老介護”によって「自覚のないまま疲労や疲弊感を蓄積させた」として情状酌量の余地があると判断し、懲役3年、執行猶予5年の判決を言い渡した。

 長年寄り添った妻の命を奪ったという悲惨な事件。殺人罪の法定刑の下限(5年)を下回り執行猶予がついた異例の判決の背景には何があったのだろうか。殺人現場でもある吉田さんの自宅をNEWSポストセブンの記者が2人で訪問すると、吉田さんは時折涙を見せながらもしっかりと取材に応じた。【全5回の第1回】

小学生の頃は全校生徒を代表して答辞を読んだ

 吉田さんは身長160cmくらいの痩せ型だ。年季の入った薄い青色のポロシャツに、白色のズボンで、どこにでもいる優しそうなお爺さんという印象だった。とても妻をその手で殺した殺人犯には見えない。慎重に言葉を選びながら話す吉田さん。しかし取材が進むと、心を許してくれたのだろうか、さまざまな感情も垣間見えた──。

 吉田さんは妹2人、姉1人の4人きょうだい。唯一の男性として、1943年に生まれた。

「現在の大田区の蒲田で生まれました。もう戦争も末期じゃないですか。お祝いに配給で鯉が入っていたようでね、親も栄養状態が良くはないわけだから、母乳が出るようにね、鯉の生き血を飲ませるとか、そういう時代でした」

 父親は旧逓信省の役人で転勤が多かったといい、きょうだい4人の生まれた所はみんな違った。吉田さんは小学校3年生から高校を卒業するまでは栃木の日光で暮らしており、父親の影響で卓球を行っていた。

「個人戦ではね、県大会まで行ってるんですよ。中学3年の時かな。結構その頃は田舎の学校では有名になってね。県でね、11位かな。負けた相手が準優勝して強豪だったんですよね。高校でもやりました。

 勉強はあんまりでしたが、小学校の時は全校生徒を代表して答辞を読んでいましたよ。親父は戦後何年か経って、逓信省を辞めて叔父の会社で働きました。お袋は優秀だったね。新潟から出てきて、やっぱ逓信省に入って。そこで結婚したみたい。お袋はね、先生の資格を持ってたらしくて、結構うるさかったです」

 高校を卒業した後は、老舗百貨店の横浜支店で勤務したという。日本経済が右肩上がりで成長する中、華やかな業界に身を置いた。

「1番初めはね、呉服部寝具係の寝具和装部門。簡単に言えば、売り子です。結婚式の布団なんかを注文で作っていました。結果も出して転勤で銀座に移ったんですよ。そこでは食料品の担当でした。合計で百貨店には10年か11年ぐらい勤務しました。そこで、たまたま食料品の取引先の会社からどうだって話があってね。そのハム会社は品川の近くにあってね、そこは製造販売と、レストランもやっていた。なぜか、そのレストランの責任者から、こっち来いと言われたんです。

 新宿の歌舞伎町にあったドイツレストランで働いていました。男のほうが少ない職場だから、彼女らしいのはずっといました。親父も呑兵衛でしたが、僕も呑兵衛でした。毎日飲んでましたね。だからね、母親も僕の結婚は諦めていました」

妻・節子さんとの出会い

 酒に女をたしなむシングルライフを満喫する人生になるであろうと本人も、親族も考えていた頃だった。40歳を目前にして、出会ったのが節子さんだった。

「新宿のお店をオープンする時に、女性スタッフを募集したわけですよ。そこで派遣会社から来たのが節子さんでした。今でもよく覚えているんですが、履歴書を見ると、僕の2つ下になっていた。ほんとは6つ上なのに(笑)。

 節子さんは離婚していて、バツイチでした。渋谷の出身で、元旦那さんは小さな会社を経営されていた。でも不倫されたり暴力があったみたいで、元旦那さんが仕事している間に、子供を連れて逃げ出してきたと聞きました」

 2人で写る写真を手に取る吉田さん。

「最初は好きだとか、可愛いなとかもなかったな。娘がいることも妹だって言って隠してね。節子は仕事が終わると、すぐに帰っていて、周りも俺たち2人が結婚するとは思わなかったと言っていましたよ」

 ドイツレストランは1、2年で閉店し、次に節子さんが働く場所を吉田さんが紹介したことから仲が深まっていく。

「新宿御苑の店を紹介したんだけど、やっぱりたまに顔出すじゃない。働きぶりというか、どうですか、みたいな。それで飲みに通うようになって。それからなんです。

 1991年に同棲を始めて、1994年に籍を入れました。50歳の頃ですね。籍を入れずに一緒に住んでいたら、お袋に怒られましてね。節子に相談したら、彼女は離婚しているし、子供もいるので、あまり乗り気じゃなかったみたい。

 付き合っている時に節子が子宮頸がんをやってるんですよ。入院して、手術もして結構大変でした。5か月ぐらい入院したのかな、そのフォローもしました。そのこともあってね、節子に言われたのはね、お礼で結婚してるようなもんだからって。お互い素直じゃねえからね(笑)」

 結婚後、吉田さんは転職して寿司屋の店長をやり、節子さんはスナックでチーママとして働き、本格的な共同生活を始めた。2人はなかなか休みが合わない上に、節子さんは趣味の社交ダンスにも時間を割いており、2人で過ごす時間はそう多くはなかったという。そんな中で吉田さんが大切にしている思い出が旅行だという。

「あんまり旅行も行ってないんですよ。3回ぐらいかな。節子が退院した直後に一緒に行ったのは箱根です。急にとったもんだから、リザーブだけで3万円ぐらい取られたのかな。食事も何もついてないわけだから高いなと思ってたね。定番だけど大涌谷に行った。ケーブルカーにも乗ったかな。黒い温泉卵を食べてね。

 伊豆の堂ヶ島にも行ったね。50歳前後の時かな。船に乗ったり、温泉に行ったりしてね。『らんの里』という植物園に行ったね。節子は花が好きだったからね。後に目が悪くなってもね、通っていた整形外科に行く途中の花屋に寄って、毎週のように買ってきていたね」

 昔を懐かしみながら、時折笑みも見せて取材に応える吉田さん。50歳で結婚した理由について尋ねると、こう答えた。

「40~50歳になると可愛いとか、愛してるとかじゃないんだよね。もちろん可愛いとかが全くなかったわけではないんだろうけど。なんていうのかな、縁を感じたというか、お互い信頼しあっていたというのが大きかったと思うな。家計とか家事とか家のことは節子に全部任せっきりだったし……。節子は僕を甘えさせてくれていた」

 そんな節子さんをなぜ吉田さんは自らの手で殺めたのか。節子さんの視力が失われ、認知症が進んだことで生活は一変する。

(第2回に続く)

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