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《貴景勝が大関陥落の名古屋場所もあと2日》【故・第37代木村庄之助が語った大相撲「行司」の世界】「立行司が腰に差す短刀の意味 所属は「相撲部屋」だが「行司会」定員は45人の“狭き門”

NEWSポストセブン 2024年7月27日 11時15分

 大相撲名古屋場所(7月場所)も残すところあと2日。13日目は直接対決となった横綱・照ノ富士がV10に王手をかける一方、9度目の角番だった大関・貴景勝の大関陥落が決まった。力士と同じ土俵に立ち、間近で取組を見守り、勝敗の判定を行っているのが「行司」だ。歴史と伝統に裏打ちされた、その他のどんな競技の審判員とも異なる独特の存在である。かつて「第37代木村庄之助」を務めた畠山三郎氏は2022年7月場所中に72歳で亡くなったが、『審判はつらいよ』の著者・鵜飼克郎氏は亡くなる数日前まで畠山氏を取材していた。鵜飼氏が、第37代木村庄之助が語り残した大相撲「行司」の奥深い世界を紹介する。(前後編の前編。文中敬称略)

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 大相撲の「審判」は誰か? 土俵上で東西の力士を合わせて取組を裁き、勝者に軍配を上げる「行司」と、多くの人が思うだろう。

 しかし、それは不正解だ。日本相撲協会の審判規則には「審判委員(勝負審判)」の定義があり、それは「相撲協会の審判部に所属する親方衆」のことである。協会HPでも審判部は「本場所相撲における勝敗の判定及び取組の作成も行なう部署」としている。

 行司は土俵上での勝負判定を任されているが、微妙な勝負で物言いがついた場合、発言権はあるが決定権はない。土俵を囲むように配された5人の審判委員に判定が委ねられる。

 実はその5人の審判委員たちは自分たちの目よりも「機械」を信じる。審判長がビデオ室に待機する審判委員に連絡し、ビデオ室では映像をコマ送りして勝敗を確認する。その結果が伝えられると、5人は土俵上から所定の位置に戻り、審判長が場内放送で勝ち力士をアナウンスする(「同体取り直し」の場合もある)。

 行司はそれに従って勝ち名乗りをあげるが、最初の判定と逆の結果であれば「行司差し違え」となる。大観衆の前で誤審を指摘され、自らそれを認める所作をしなければならないのだから、行司にしてみれば屈辱的な瞬間である。

「実力主義」の行司は昇格するたびに名前が変わる

 中でも責任重大とされるのは、横綱の取組を裁く行司の最高位・立行司だ。立行司は左腰に短刀を差す。“差し違えたら切腹する”という伝統に基づいている。実際に切腹こそしないものの、差し違えた立行司は相撲協会に「進退伺」を提出しなければならない。

 その短刀について「第37代木村庄之助」の畠山三郎に訊いたことがある。畠山は少し困った表情でこう答えた。

「“そういう覚悟”で土俵に上がっているのであって、実際に判定を間違えるたびに切腹させられたら、たまったものではありませんよ(苦笑)」

 行司の序列は最高位の立行司から、最下位の序ノ口格行司まで8段階(高い順に、立行司、三役格、幕内格、十枚目格、幕下格、三段目格、序二段格、序ノ口格)。階級によって装束、履物、軍配につける房の色まで細かく規定されている。

 経験・実績に加えて軍配の正確さ、土俵上での作法、さらには土俵外での働きなど、さまざまな評価で番付が上がる。行司名はそれぞれの格ごとに決まっているので、昇格するたびに名前が変わっていく。力士の最高位である横綱の取組を裁けるのは「木村庄之助」と「式守伊之助」の立行司2人だけ。中でも木村庄之助は式守伊之助より格上とされ、担当するのは結びの一番のみ。力士でいえば“東の正横綱”に相当する。

 実力主義で出世していくので、最高位の木村庄之助が不在となることもある。結びの重要な一番を任せるに値しないと見なされれば襲名はできないのだ。立行司にも降格がなく、昇進の条件を満たす力士が誰もいなければ横綱不在となるのと同じである。

 実際、第37代木村庄之助の畠山が2015年に定年退職(65歳)して以来、木村庄之助は長く空席が続き、角界では後継者問題が悩みのタネになっていた(2024年1月に第38代が襲名)。

“選手”と“審判”が共同生活!?

 スポーツ競技の審判員は、当該競技団体に属しているか、競技団体から大会・試合ごとに打診・依頼されるパターンが大半だが、行司の世界は全く違う。

 行司になるための条件は「義務教育を修了した15歳から19歳未満の男性」だ。

 彼らが所属する“勤務先”は相撲協会ではなく、それぞれの相撲部屋である。昔は力士を目指して入門したものの体が小さいために行司に転身するパターンが多かったが、近年では最初から行司を志望する者が増えたという。

 相撲部屋に入門すると、履歴書や保護者の承諾書、部屋の親方の採用願などを揃えて協会に提出し、行司会と相撲協会の面接を経て協会員になる。ただし行司会には定員(45人)があるので、空きが出ないと採用されない。条件は緩いが、狭き門ではある。

 行司の新弟子は最初の1年間は行司会の役員である「行司監督」について行司の基本を教わる。その後の2年間は部屋や一門の先輩行司の指導のもと、さまざまな実務を実践で学ぶ。この3年間が養成期間にあたる。

 行司の給料は相撲協会から支払われるが、相撲部屋から“食”と“住”が提供されるため、幕下格までの月給は10万円足らず。それとは別に装束手当や場所手当が支払われる。

 昇格・昇給は年1回。毎年9月場所後に勤務評定があり、次の1年間の階級と待遇が決まる。基本的に年功序列だが、力士でいう関取格(十両以上)として扱われる十枚目格以上には22人の定員があるため、行司としての実力も考慮されるようになる。

行司になるには熱意、そして時の運が必要

 行司の“姓”は「木村」と「式守」の2つ。一門や部屋ごとにどちらを名乗るかは決まっている。入門直後は本名を下の名前に使い、出世していく中で由緒ある行司名を継承して三役格まで進む。そして立行司の式守伊之助、さらに木村庄之助の順で昇進していく。

 2023年6月に相撲協会に採用された押尾川部屋の式守風之介は、中学1年の時に大相撲中継で式守伊之助(当時。現在の第38代木村庄之助)の所作に憧れて手紙を書いた。それから2年間もLINEでやり取りを続け、中学卒業と同時に伊之助から押尾川部屋を紹介された。押尾川部屋は元関脇・豪風の押尾川親方が2022年2月に創設した新興部屋で、部屋には行司がいなかった。しかも当時の行司会の定員に空きがあった幸運も重なり、新弟子として採用された。行司になるには熱意、そして時の運が必要なのだ。

 第37代木村庄之助の畠山は1965年、中学卒業と同時に入門した。生まれ育ったのは相撲が盛んな青森県上北郡六戸町。地元に来ていた大相撲関係者が行司を探していることを耳にし、進学か就職かで迷っていた畠山少年の心は決まった。畠山は当時を「人のやらないことをやろうと思って志した」と振り返っていた。

 採用されると、相撲部屋で力士たちと共同生活する。判定の公平性の観点から、ほとんどのスポーツ競技では審判と選手が親しくすることは禁止されているが、親交どころか、一つ屋根の下で両者が寝食を共にする競技は大相撲ぐらいだろう。同部屋の力士には情も移るだろうし、微妙な判定にそれが影響しないとも限らない。

 この奇妙で異質なスタイルは、地方巡業を一門単位で催行していたことに由来する。一門内に行司や呼び出しなどの“裏方”がいないと巡業ができないからだ。

 伝統が変わった時期もある。1958年に巡業が協会の一括管理となった際に、中立・独立を保つ目的で「行司部屋」が創設された。畠山も第4代木村玉治郎(後の第27第木村庄之助)に弟子入りし、高島部屋(現大島部屋)に預けられた。しかし1973年に行司部屋は解散し、行司たちはそれぞれの相撲部屋へ帰された。当たり前ではあるが、行司部屋には人気者(力士)がいない。そのため有力なタニマチ(後援者)がつかず、経済的に立ち行かなくなったのだ(先述した「行司会」はこの時に発足)。

 中立を掲げて独立したのに、経済的な都合で旧来のスタイルに戻す。“伝統を大切にする”といえば聞こえは良いが、“公平な判定は二の次”という見方もできる。その意味でも、大相撲の行司は他のスポーツ審判と同列に語れない。

(後編に続く)

※『審判はつらいよ』(小学館新書)より一部抜粋・再構成

【プロフィール】
鵜飼克郎(うかい・よしろう)/1957年、兵庫県生まれ。『週刊ポスト』記者として、スポーツ、社会問題を中心に幅広く取材活動を重ね、特に野球界、角界の深奥に斬り込んだ数々のスクープで話題を集めた。主な著書に金田正一、長嶋茂雄、王貞治ら名選手 人のインタビュー集『巨人V9 50年目の真実』(小学館)、『貴の乱』、『貴乃花「角界追放劇」の全真相』(いずれも宝島社、共著)などがある。大相撲の行司のほか、野球やサッカー、柔道、飛び込みといった五輪種目を含む8競技のベテラン審判員の証言を集めた新刊『審判はつらいよ』(小学館新書)が好評発売中。

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