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【逆説の日本史】「虫けら同然の野蛮人」と義兄弟になった清朝皇族・粛親王善耆

NEWSポストセブン 2024年7月31日 17時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その2」をお届けする(第1425回)。

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 満蒙独立運動のキーマンは、日本側が「大陸浪人」川島浪速、清国側は粛親王善耆だったが、いかに清王朝の皇族であったとは言え、彼クラスの大物は他にもいる。それでも彼がキーマンとなったのは、第一に皇族のなかでももっとも開明的であったことだろう。もちろん開明的と言っても、あくまで皇帝制の枠内での話だ。

 思い出していただきたい。清朝末期の中国では西太后が国を私物化し、北洋艦隊の充実より頤和園の造成を優先し、日清戦争敗北の一因となった。そののち欧米列強や日本を排除するため民衆の間から義和団の乱が起こると、西太后は一度はこれを全面的に支持し列強に宣戦布告したにもかかわらず、形勢不利と見るや彼らを見捨てて北京を逃げ出した。このとき随行したのが、粛親王善耆である。

 西太后は貧しい庶民に変装し、危機を脱したという。つまり、正規の護衛兵を連れて行ける状態では無かったということで、こういうときに選ばれるのは、側近中の側近である。暗殺される危険があるからで、善耆が選ばれたのは西太后に深く信頼されていたということだ。

 しかし、善耆は西太后のような超保守主義者では無かった。そして日清戦争敗北にあたって国家の近代化を進めるべきだと考えた善耆は、「日本人に学ぶ」政治姿勢をとった。具体的には、明治期の日本における「お雇い外国人」のような形で近代化推進のスタッフとして日本人を雇ったということだ。そうしたなか、中国語が堪能な川島と深い交わりを持つようになった。そして、西太后の意向には反する改革を促進した。

 めざすは、皇帝を中心とした立憲君主制である。気骨のある優秀な人物であったことがわかる。なぜわかるかというと、この間宮廷を仕切っていたのはやはり西太后であったからだ。光緒帝は幽閉されていた。つまり西太后は超ワンマンで、気に食わない家臣を死刑にできた。

 決して誇張では無い。現に義和団の乱のとき、欧米列強に宣戦布告するのは自殺行為で絶対にやめるべきだという正論を唱えた家臣を、西太后は自分の意に沿わぬ者として処刑している。この乱の敗北で、さすがの彼女も改革の必要性は認めたのだが、それでも超ワンマンの彼女がいつ考えを変えるかわからない。つまり、改革は命懸けなのである。それに日本人と親しく交わったということも、きわめて重要だ。

 善耆は皇族であり、「中華の民」の頂点にいる。そこから見れば日本人など野蛮人の極致であり、川島は皇族ですら無いただの日本人だ。つまり、善耆から見れば「虫けら」同然なのである。しかも、ただの虫けらでは無い。全世界の支配者である中国皇帝に対し、「そちらが皇帝なら、こちらは天皇だ」と東アジアのなかで唯一主張した傲慢無礼な民族の一員であり、さらに日清戦争では多くの清国人を殺した連中の仲間でもある。にもかかわらず、善耆は「日本人に学ぶ」姿勢をとり、川島と深く交わった。その深い交わりを象徴する存在が、川島芳子である。

《きんへきき 【金璧輝】
Jin Bihui
本名:愛新覚羅顕  字:東珍 日本名:川島芳子
1906[光緒32]~48・3・25
清朝の皇女、日本のスパイ。
満洲ジョウ(かねへんに襄)白旗、粛親王善耆の14女。清朝復辟(ふくへき)をめざす実父、善耆が盟友の川島浪速に養女として託し、1915年[大正4]から日本で教育をうけた。バボージャブの次男ガンジュールジャブ(1903~68)と結婚した[27]がほどなく離婚、その後、溥儀の妻婉容を天津から大連に護衛するなど、関東軍の依頼の下で秘密活動を行う。〈満洲国〉崩壊後、北平(北京)で国民党軍に捕まり[45]、死刑判決をうけ[47]、北平第一監獄にて銃殺。〈男装の麗人〉〈東洋のマタ・ハリ〉として当時からメディアを賑わした。》
(『世界人名大辞典』岩波書店刊)

 いま放映されているNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』に、女性なのに男装しかしない人物が登場し、「素敵!水の江瀧子みたい!」と声をかけられる場面があった。

 では、水の江瀧子とは何者かと言えば、

《水の江滝子 みずのえ-たきこ 1915~2009
昭和時代の女優、映画プロデューサー。
大正4年2月20日生まれ。昭和3年東京松竹楽劇部(松竹歌劇団の前身)1期生。男装の麗人として人気をあつめ、ターキーの愛称で知られた。14年退団。29年日活プロデューサーとなり、「太陽の季節」「狂った果実」などを手がけ、石原裕次郎らをそだてた。またNHKテレビ「ジェスチャー」などに出演。のちジュエリーアーチストとして活躍。平成21年11月16日死去。94歳。北海道出身。目黒高女卒。本名は三浦ウメ。》
(『日本人名大辞典』講談社刊)

 戦前、いわゆる「男装の麗人」と言えば、人々が思い浮かべるのが水の江瀧子か川島芳子だったろう。川島が男装(主に軍服姿)を始めたのはガンジュールジャブとの離婚後だから、二人の活動開始時期はほぼ同じ一九三〇年代だが、元祖「男装の麗人」は水の江瀧子のほうだったようだ。

 また芳子は「東洋のマタ・ハリ」とも呼ばれたが、マタ・ハリとは何者かと言えば、「パリのムーランルージュで人気を集めたオランダ系のダンサー。第一次大戦中、ドイツのスパイとしてフランス軍に逮捕され、銃殺された。マタ=ハリは芸名で、マレー語で太陽の意。以後、女スパイの代名詞となった」(『デジタル大辞泉』小学館)」である。この人も、戦前の人間なら誰でも知っていると言っても過言では無い有名人だった。

 どうも人名紹介ばかりになってしまったが(笑)、戦前の人間が常識としていたことがわかっていないと、これから先がいま一つ理解不足になるのでお許しいただきたい。

 川島芳子の夫となったガンジュールジャブや父バボージャブのことも気になるかもしれないが、これは後ほど語らせていただく。とにかくここでは、粛親王善耆と川島浪速の関係が当時の常識を超えた深いものであったことを認識していただきたい。

 二人は義兄弟になったともいう。これは日本の歴史にたとえれば、徳川家の血を引く一橋慶喜が一般庶民それも外国人と義兄弟になったということだ。あるいは、南北戦争前のアメリカで白人と黒人が義兄弟になったようなものだと言えば、その関係性がおわかりいただけるだろうか。だからこそ善耆は、娘の養育を「兄弟」に託したのである。

 しかし、いくら開明派とは言え、それは立憲君主制つまり清朝が続くことを前提としてのものであった。だから孫文の長年の努力が実って辛亥革命(1911年)が実現したとき、そして袁世凱が清朝に終止符を打つことを条件に孫文から中華民国大総統の座を譲り受けたときも、最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅溥儀。のち満洲国初代皇帝)の退位に反対した。

 しかし、彼らには袁世凱に対抗できる軍事力が無い。この先の話だが、袁世凱は皇帝になる野望を抱いており、民主派のリーダー宋教仁を暗殺した男でもある。命の危険を感じた善耆は川島の手引きで、当時日本が租借していた旅順に逃げた。事実上の日本亡命である。亡命とは自分が所属していた国の保護を離れて一人になるということだから、よほど信頼できる人間の手引きがなければできるものではない。すなわち、川島がいたからそれができたというわけだ。

 当然、善耆はこののち「清朝復興」をめざすことになる。そこへ、モンゴルとも深いパイプを持っていた川島が「満蒙独立」つまりモンゴル族と満洲族が団結し、漢民族の中華民国から独立すればいいではないかと持ちかけたのである。

満洲族にとって重要な「旗」

 じつは、善耆もモンゴル族と深いつながりがあった。実妹の善坤が内モンゴルの王侯貴族とも言うべき、グンサンノルブに嫁いで妃となっていたからである。

「王侯貴族とも言うべき」などという言い方は曖昧で、歴史をきわめるためには避けるべき用語なのだが、この時代モンゴル族というのはきわめて多様性があって、簡単に一つの言葉ではくくりにくい。まず、大づかみに全体像を説明する。ちなみに、細かく分割された専門家の集団である歴史学界はこうした説明が非常に苦手で、要するに「木を見て森を見ず」ということになってしまっているのはご存じだろう。「井沢の説明は正確では無い」という反応があるかもしれないが、あくまで「大づかみ」な話であることをご理解いただきたい。

 さて、モンゴル族全体が一つにまとまっていたのは、チンギス・ハンの時代である。その後継者が建てた元が漢民族の明によって滅ぼされたことによって、「モンゴル族は一つ」という時代は永久に終わりを告げた。漢民族はこの手強い遊牧民が大帝国を再建しないように、まず万里の長城の外側にある根拠地の大草原地帯を北と南に分割した。

 これも正確に言えば、漢民族のテリトリーに近い南半分を領有し、そこに住むモンゴル族には、定住そして農業を強制した。その北側の本来の遊牧地帯がのちに外蒙古、漢民族に取り込まれたモンゴル人たちが住む南側は内蒙古と呼ばれた。もちろん清国から中華民国そして中華人民共和国へと国体を変えた漢民族は、なんとかしてこの外蒙古も自分たちの領土にしようとした。それは遊牧民であるモンゴル人から見れば、彼らの「奴隷」となって無理やり農業をさせられるということである。

 そして中国は一九一七年のロシア革命でロシア帝国が崩壊したとき、その弱みにつけ込んで外蒙古に兵を送り占領した。外蒙古の人々たちは当然反発し、ロシア帝国を解体して世界の強国となったソビエト連邦に保護を求めた。結局、ソビエトのバックアップのおかげで外蒙古の人々たちは独立し、社会主義のモンゴル人民共和国を作ることができた。

 ところが、ソビエトも結局は中国と同じだった。根っからの遊牧民である外蒙古モンゴル人(仮にそう呼んでおく)に、農業を強制しようとしたのだ。怒った外蒙古モンゴル人たちは、今度はソビエト連邦が崩壊したときに社会主義との決別を宣言し、新しい国家「モンゴル国」を作った。それがいまのモンゴルである。いまでも多くの国民が遊牧で生計を立て、少なからずの国民が乗馬に長けているのはよく知られている。

 外蒙古モンゴル人は農業にくらべて生産性の低い遊牧に最後までこだわり、中国やソビエトの弾圧を乗り切って民族の伝統を守り切った稀有な存在である。これにくらべて、同じ遊牧民族であった満洲族は完全に中国の伝統に染まり切って農耕民になってしまった。先祖はヌルハチであり姓も無かったが、子孫は愛新覚羅という姓を名乗るようになった。

 姓は一文字が基本(李、陳、楊など)で、二文字(諸葛、司馬など)もあるが中国できわめて珍しい四文字の姓を名乗ったのは「漢民族とは違うぞ!」というこだわりが感じられるが、遊牧は完全にやめてしまい定住するようになった。ただ、その本拠地を地名では無く、川島芳子の経歴に「満洲ジョウ(かねへんに襄)白旗」とあるように「旗」とした。

 では、「旗」とはなにか? そもそも遊牧民とはなぜ「遊」牧と言うのかと言えば、「遊星(惑星)」あるいは野球の遊撃手(ショートストップ)のように、塁(ベース、本拠地)を持たずに移動するからである。

 なぜ移動するのかと言えば、昔はトラックも鉄道も無く、生活のすべてを支える羊の群れのエサ(野草)を運んでくることはできない。これが可能ならば一か所に定住し牧場経営つまり牧畜をすることができるのだが、できない以上は羊がちょうど渡り鳥のようにエサである野草を求めて移動するにあたって人間のほうがついて行くしかない。すなわち定住はできず、遊牧民の本拠地は常に移動するテント村になる。

 農耕民である日本の武士なら、たとえば足利尊氏は「われは下野国足利庄の住人源尊氏なるぞ」と地名を名乗れるのだが、遊牧民にはそれが不可能である。ではなにをもってほかの部族との区別をつけるかと言えば、そのテント村の中央にある「ベースキャンプ」に掲げられている旗をもってする。満洲族は遊牧民の伝統を捨てて定住するようになっても、本籍にあたるものはずっと地名では無く旗だった。それが民族の伝統ということである。

 しかしながら、内蒙古モンゴル人(これも仮にそう呼んでおく)は満洲族ほどでは無いものの、農耕民に近い存在になってしまった。逆に言えば、だからこそ満洲族と共闘できるという考え方にもなる。

(第1426回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年8月9日号

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