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《ちあきなおみ・デビュー55周年でサブスク解禁》圧倒的な“存在感”と“説得力”で人々を魅了した“憑依型歌手” 城之内早苗は「凄まじい衝撃を受けた」

NEWSポストセブン 2024年8月2日 12時13分

 圧倒的な歌唱力で人間の情感を歌ったちあきなおみ(76)。表舞台から姿を消して30年以上経つが、デビュー55周年を機に全曲の配信が解禁された。サブスクと呼ばれる定額制のデジタル配信で、レコード会社の垣根を越えた全300曲以上を聴くことができる。かつてファンだった若者たちは今、再び彼女の美声に酔いしれている。(文中敬称略)【前後編の前編】

「これはただもんじゃない」

 メディア研究が専門の同志社女子大学教授の影山貴彦(61)は最近、嬉しい体験があったという。

「先日、研究室の20~21歳のゼミ生たちと、カラオケで何を歌うかという話題で盛り上がった際、1人は『喝采』だと答えたんです。昭和通の友人の影響で、ちあきさんを知ったそうです。サブスクの解禁によって、多くの若者が彼女の音楽に触れられるようになることは、ファンの私にとっても大歓迎です」

 影山自身がちあきと出会ったのは10歳だった。

「『喝采』(1972年)でレコ大を受賞したのを目にし、彼女の存在感というか、悲しみをたたえた説得力というか、包容力というか……。“これはただもんじゃない”とランドセルを背負いながら思っていました(笑)。

 当時は歌謡曲全盛期でもありましたが、天地真理や麻丘めぐみ、南沙織といった面々のなかでもずば抜けた存在でした」

 そんな影山は1986年に毎日放送に入社する。ドラマやバラエティの番組作りに忙殺されていた頃、ふと耳にしたちあきの曲が、今も忘れられないという。

「どちらもカバーソングの『星影の小径』や『黄昏のビギン』が発売された1990年代初頭は、バブルの余熱があって、世間もテレビ局も浮かれていた時代でした。そんな時、彼女の歌声が沁みるように耳に入ってきた。ふと、来し方を振り返る気分にさせられたのを覚えています。自分を忘れたらあかんよな、とちあきさんに教えられた思いがしました」

歌詞を全曲書き写した

 裏社会事情に精通するフリーライターの鈴木智彦(58)は、サブスク解禁以来、毎日、スマホでちあきの曲ばかり聴き続けているという。

「(サブスク解禁は)待ちに待っておりました。初めて聴いた『喝采』がヒットした1972年はまだ6歳でしたが、札幌生まれの私にとって、地元で冬季五輪が開かれたこの年の記憶だけは鮮明です。

 当時、一緒に『喝采』のレコードを買いに行った父親が、『日本語がわからない外国人に歌詞を訳して教えてやりたい』と力説していました」

 以来、長ずるにつれ、ちあきの表現する世界観の虜になった。

「ちあきなおみは歌詞に取り憑かれてしまう“憑依型歌手”なんです。それは技術ではなく、持って生まれた才だと思う。

 ある時、取材で付き合いのあった暴力団幹部が検挙されたので拘置所に面会に行ったら、『ちあきなおみが聴きたい』という。曲は届けられないので、歌詞を全曲分、正確に書き写して手紙で渡したこともあります」

 ちあきのヒット曲には『四つのお願い』など明るい曲調もあるが、鈴木は「暗いほうが彼女に合っている」と評する。

「『夜へ急ぐ人』(1977年)を歌う彼女は、“狂気”を見事に演じていたんじゃないでしょうか。歌手がただ歌うだけでは表現できないものを目の当たりにして、本当は明るいことより暗いことのほうが多い、人生の真髄を突かれた気がしました」

妄想を書きたくなった

 ちあきの存在は、さまざまなジャンルで活躍する人たちの創作活動にも影響を与え続けてきた。

 ちあきの曲を聴いて「思わず夢を見た」と語るのは、芥川賞作家の村田喜代子(79)だ。

「彼女の『朝日のあたる家(朝日楼)』というアメリカの民謡をカバーした歌を聴いた時、もう鳥肌が立ちました。ニューオリンズにある女郎屋が舞台で、故郷を離れ、そこへ流れ着いた女性が主人公の歌です。

 その曲を聴いた夜、なぜか自分が女郎屋から抜け出すことができずに働く夢を見たんです。それは、夫が大動脈瘤を発症した頃でした。当時、夫はいつ血管が破裂するかわからない状況で、車の運転も禁止されていました。私自身、手術までの日々を見守ることで心労が重なっていた。そんな時に見た出口の閉ざされたような夢の世界は、『朝日楼』の世界観とどこか似ていたんです」

 夫の闘病経験を元に執筆したのが、村田の小説『あなたと共に逝きましょう』(2009年)だった。

「連載中、何度もちあきさんの『朝日楼』が頭をよぎりました。彼女の歌声を聴くと、胸が焼けるような悲愴感に包まれ、底知れない恐怖も感じる。人生を落ちるところまで落ちて行った歌の凄みが、今も私の胸を震わせます」

 映画監督で作家の森達也(68)も、青春時代に『喝采』『夜へ急ぐ人』でちあきの虜になった1人だ。

「『喝采』が出た1972年は高校生になったばかりでしたが、歌の凄さは圧倒的だと思いました。1977年の紅白で見た『夜へ急ぐ人』のパフォーマンスは圧巻で、サビで“おいで、おいで”と左手を伸ばして指をくねらせる時の表情たるや。歌というより、感情そのものを表現するひとり劇でした」

 森は2007年に上梓したエッセイ『ぼくの歌・みんなの歌』(講談社刊)にちあきを登場させている。

「メディアから姿を消して10年以上経過しても、頭の中ではずっとちあきなおみが気になっていた。どこかで生きているわけだから、うちの近所にいてもいいはずだ。そんな妄想を書きたくなったのだと思います」

 春先に着物姿で日傘をクルクル回しながら歩くちあきなおみ。同エッセイではそんな姿が描かれている。

「今でも生歌を聴いてみたい気がするけど、すっぱり消えたからこそ、語りたくなる。これからもそうした存在であり続けると思います」

「行き詰まった時は今でもちあきさんの歌を聴いています」

 おニャン子クラブ出身で演歌歌手の城之内早苗(56)は、ちあきの曲を聴いたことがきっかけで自身の進む道が拓けたという。

「おニャン子解散後、やりたかった演歌の道に進むことができたのですが、大人たちが敷いてくれたレールを歩むばかりで、恵まれた状況に甘えてしまい、頑張ろうとして空回りする日々が続きました。迷子のようになっていた頃、スタッフの方に手渡されたのがちあきさんのコンサートを収録したカセットテープでした」

 その歌声は、城之内の迷いを断ち切るほど衝撃的だったという。

「『こんな世界観の歌があるのか』と凄まじい衝撃を受けました。曲により印象がガラッと変わるちあきさんの歌を聴き、『ちあきさんのように、私は私の歌を私のままで歌いたい。枠なんかにとらわれなくていいんだ』と思えたんです。聴くたびに心に刺さる言葉が違うので、行き詰まった時は今でもちあきさんの歌を聴いています」

 城之内はちあきの歌声の魅力をこう語る。

「ちあきさんの歌はこぶしのちりばめ方が好きです。特に『役者』は歌い出しの“愛”をどう発声するかが重要です。私なら愛を前面に打ち出してしまうのに、ちあきさんにはわざとらしく誰かに伝えようとするいやらしさがなく、耳元で囁くようなヒキの美学を感じます。ポップス調のバラード『伝わりますか』も、重くも軽くもない、なぞるような歌い方。

 私が言うのはおこがましいですが、美空ひばりさんとちあきなおみさんは特別な歌手。生のステージを見られなかったことだけが悔しい」

(後編に続く)

※週刊ポスト2024年8月9日号

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