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【逆説の日本史】戦前の青年の多くが抱いていた支那大陸「大草原へのあこがれ」

NEWSポストセブン 2024年8月14日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その3」をお届けする(第1426回)。

 * * *
 アジアの遊牧民の生態と歴史に関する最良の入門書は、国民作家司馬遼太郎の『街道をゆく 5 モンゴル紀行』(朝日新聞出版刊)かもしれない。一九七三年(昭和48)八月に取材して『週刊朝日』に寄稿した(その後単行本化)もので、「旅行情報」としては古過ぎるが「背景説明」は面白い。ちなみに、ご本人は大阪外国語学校蒙古語部(現在の大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)卒なのだが、こんな具合である。

〈清朝末期には内蒙古の地は漢民族の人口のほうが多くなり、モンゴル人は遊牧の適地の多くを失って、その牧畜生産力は大いに衰弱した。それだけでなく、清朝がモンゴル人の民族的活気を殺ぐためにラマ教をすすめたことも、衰弱に拍車をかけた。生産を支える男子の多くが僧になったことと、さらにはラマ教には僧が初夜権をもつという奇習があり、しかもその性的権威を通じ、僧が梅毒を蔓延させるということなどもあって、人口まで激減してしまった。(中略)その上、漢民族の商人が、モンゴル人の商業的無知につけ入って搾取し、いよいよ貧窮化させ、ついには家畜すらうしなって草原をうろつく窮民が清朝末ごろから出てきた。草原では乞食が成立しないのである。窮死するしかない。〉
(引用前掲書)

 日本で言えば、「シャモ(内地人)」が純朴なアイヌ民族からサケやクマの毛皮を「収奪」したのを思い起こさせる(『逆説の日本史 第17巻 江戸成熟編』参照)。ただ遊牧民族であるモンゴル人と違って、狩猟民族であるアイヌは「窮乏」はしても「窮死」はしなかったし、「シャモ」も梅毒を広めるようなことまではしなかった。この違いは日本人の優しさ(笑)によるものでは無く、同じ土地を「草原(羊のエサ場)」のままとするか「田畑」に変えるかという、遊牧民と農耕民の究極の争いに由来するのだろう。

 この争いには妥協の余地が無いが、日本列島における縄文人と弥生人の争いは土地を「森林」のままとするか「田畑」に変えるかの争いであって、平安時代初期までは東国と西国で平和的共存が成立していたし、桓武天皇が征夷大将軍坂上田村麻呂を派遣して東国を征服し「田畑」に変えた後も、アイヌの本拠である蝦夷地(北海道)までは征服しようとはしなかった。

 再三述べたように、彼の地では稲作が不可能だったからである。つまり、日本人の立場から見ればアイヌは「窮死」させる必要は無く、むしろ「サケやクマの供給者」として「生かして」利用すべき、ということになる。それが日本列島の歴史である。あらためて、「万里の長城」という境界線は作られたものの、遊牧民と農耕民が妥協できずに土地を争った中国大陸とは、日本列島と違ってじつに苛烈な環境であったことを思い知らされる。

 こういうことを知っていれば、司馬遼太郎の次の「冗談」も深く味わえるのではないだろうか。それは外蒙古つまり外モンゴルに建国されたモンゴル人民共和国(当時)で野菜が生産され食されていることを、通訳の女性から知らされたときである。

〈「おどろいたな」
「なにが?」
「モンゴル人が野菜を食べるなんて」
 堕落だな、と言おうとしたが、彼女のほうが脂肪のたっぷりした白いのどくびをみせて大笑いした。農業といっても人間のためのそれは小麦か何かぐらいのもので、主として家畜の飼料をつくるのだ、と教えてくれたのである。私は、ひそかに安堵した。偉大なるモンゴル民族が野菜を食ったがために滅びたなどというようなことがあれば、紀元前から営々(?)とそれを拒否してきた先祖に対して相済まぬではないか。〉
(引用前掲書)

 ここで、大正初期の満蒙独立運動に話を戻そう。大陸浪人とは言っても、頭山満のような「孫文(中華民国)応援団」と立場を異にする川島浪速は、「義兄弟」の清朝皇族粛親王善耆と組んで中華民国に滅ぼされた清朝再興をめざした。そのような形で清朝再興を成功させれば、当然日本はその新国家に強い影響力をもつことができるからだ。そして川島は、清朝に取り込まれた「内モンゴル人」ならば味方として使えると考えたのだろう。

 すでに述べたように、善耆の妹善坤は内モンゴルの王侯貴族に嫁いでいる。この「内モンゴルの王侯貴族」という曖昧な表現を、なぜしなければならないのかを説明するのに、これだけの紙数を要した。この話題に入ったとき川島浪速の経歴を紹介したが、引用した事典の説明に次のような記述があったのをご記憶だろうか。「このころから清朝の粛親王、蒙古王喀喇沁らと親交を結ぶ」。

 せっかく引用したのにケチをつけるようで申し訳ないが、この「蒙古王喀喇沁」という表現は、あまり正確では無い。そもそも、この時代「蒙古王」つまり蒙古全体の王などいない。ひょっとしたら日本の新聞が勝手にそう呼んだことはあったかもしれないが、それにしても「蒙古王喀喇沁」はおかしい。「善耆の妹善坤の夫」のことを指す意図なら、誤りとすら言える。「喀喇沁」は人名では無く、旗の名前つまり農耕民の世界なら地名にあたるものだからだ。

〈ハラチン(喀喇沁)部 ハラチンぶ Kharachin
15世紀以後モンゴル東部に現れる部名、行政区画名。16世紀後半にダヤン・ハン(達延汗)の孫のバヤスハルの支配下に入り、以後その後裔の支配するところとなったが、17世紀前半、リンダン(林丹)の征討を受けて壊滅、残った者は清朝に下って八旗に編入された。清代に内モンゴルのジョソト盟に属したハラチン2旗はこれとは異なり、ウリヤンハン部族の分れで、明代の朶顔衞の後身である。〉
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)

 じつは、いま問題にしている「ハラチン(カラチン)」とは、この記述の冒頭に出てくるものでは無く、それとは異なる「清代に内モンゴルのジョソト盟に属したハラチン2旗」のほうである。つまり、一度途絶えていたハラチンが清朝に「再興」されたということだ。なぜ「2」なのかと言えば、「右旗」と「左旗」があったからだ。

 ちなみに「盟」というのは、いくつかの「旗」によって構成される上位団体のことで、日本で言えば「市」が「県」に所属しているようなものだ。そして、その内モンゴル・ハラチン右翼旗の旗長だったのが「善坤の夫」で、個人名はグンサンノルブ(貢桑諾爾布。モンゴルに姓は無い)という。

渡蒙した日本人女性教師たち

 じつはこの人物、通常の人名事典や百科事典には載っていない。私が経歴をまとめておけば、まず生没年は一八七二~一九三一年。生家はチンギス・ハンの功臣ジェルメの子孫というから、名門である。モンゴル語、中国語だけで無く、チベット語にも通じていたという。その後所属するジョソト盟においても有力幹部となった。

 大阪で開かれた内国勧業博覧会を見学するために一九〇三年(明治36)に来日し、教育者下田歌子と会い女子教育の重要性を教えられ、帰国後ハラチン旗に「モンゴル史」初の近代女子教育機関である毓正女学堂を開校した。そして歌子の紹介で河原操子、鳥居きみ子ら日本人教師を招請し、近代的な女子教育を実践した。ちなみに、下田歌子は今度の新五千円札の肖像となっている津田梅子と並んで日本の女子教育の発展に貢献した重要人物なので、河原操子、鳥居きみ子とともに経歴を紹介しておこう。

〈下田歌子 しもだうたこ 1854-1936(安政1-昭和11)
皇室中心主義、国家主義の立場にたった女子教育者。幼名、平尾鉐(せき)。岐阜県出身。1872年から女官生活、79年結婚し退官。夫と死別後、81年上流家庭子女に純日本的教養を与える桃夭(とうよう)女塾を開設、賢母良妻の育成に努めた。華族女学校開設(1885)に参与し1907年まで皇女・貴女教育に従事。この間イギリスの皇女教育、欧米諸国の女子教育とともにその国情を視察し、1898年、婦人労働問題の未然の防止、国威をそこなう海外醜業婦問題の解決などを願って婦人大衆の教育を企図して帝国婦人協会を創設。貧困女性の教育機関として99年創立の実践女学校(実践女子大学の前身)は協会事業の一環だったが、実際には中・上流家庭子女の中等教育機関となった。1901年以降、この学校では清国女子留学生も受け入れた。(以下略)〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者千野陽一)

〈河原操子 かわはら-みさこ 1875-1945
明治-昭和時代前期の教育者。
明治8年生まれ。女子高等師範(現お茶の水女子大)を中退し、郷里長野県で県立高女の教師をつとめる。下田歌子に師事し、その世話で横浜の大同学校の教師となる。明治36年中国内モンゴルのカラチン王家に家庭教師としておくられ、大陸における軍事情報もさぐって2年後に帰国。昭和20年死去。71歳。著作に「蒙古土産」。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)

 鳥居きみ子については普通の事典には掲載されておらず、これまでは夫の鳥居龍蔵の妻という形でしか紹介されなかった。しかし最近、ようやく「鳥居龍蔵夫人」では無く本人の事績に詳しく触れた児童小説『鳥居きみ子 家族とフィールドワークを進めた人類学者』(竹内紘子著 くもん出版刊)が出版されたので、それを報じた『讀賣新聞』の記事(「人類学 鳥居きみ子の功績」讀賣新聞オンライン2024/02/26 05:00公開。山根彩花記者)を紹介しておこう。

 記事によれば、きみ子は「音楽を学ぶため上京し、東京帝国大学の人類学教室に勤務しながら学んでいた同郷の龍蔵と結婚、子どもを生んだ。龍蔵や子どもとモンゴルに数回渡り、現地の人々の風習や、北方民族国家・遼時代の皇帝の墓などを調べた」ということだ。
 では、そもそも鳥居龍蔵とは何者か?

〈鳥居龍蔵 とりいりゅうぞう[1870-1953]
考古学者、人類学者。日本における人類学の先駆者の一人。徳島市に生まれる。正規の学生ではなかったが東京大学で坪井正五郎に師事し人類学その他を学び、のち同大学助教授になった。国学院大学、上智(じょうち) 大学の教授、中国の燕京(えんきょう) 大学客座(客員)教授も歴任した。鳥居は大正時代における日本考古学の指導者であり、またモンゴル、中国東北地区を対象とする考古学の開拓者であった。民族学の分野でも、千島アイヌ、台湾原住民(中国語圏では、「先住民」に「今は存在しない」という意味があるため、「原住民」が用いられる)、中国のミャオ族の調査、さらに数系統の構成要素からなる日本民族文化形成論の展開など、功績が大きい。鳥居の学説の多くは、今日ではそのままの形では支持できないが、示唆や刺激に富むものが少なくない。〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者大林太良)

 本章に入ってから人物紹介がやたらと続くな、と感じておられる方も多いだろう。そのとおりなのだが、なぜそうなるかと言えば、かつての大日本帝国がモンゴルと深くかかわったという歴史的事実が最近ほとんど忘れ去られているからだ。だから「旗」などという言葉も一から説明せねばならない。戦前はまったく違った。

 そもそも、青年福田定一(司馬遼太郎の本名)が大阪外国語学校の蒙古語部に入った理由の一つに、「大草原へのあこがれ」があった。もちろん、この大草原とはアメリカ大陸では無く中国大陸のことだが、それは彼だけで無く多くの日本人青年の思いでもあった。戦前の青年にとって、狭い日本を飛び出して世界に雄飛しようと考えるならば、その行き先は「支那大陸」であり、「大草原」であったのだ。そうした、その時代の日本人の常識を知らねば歴史は語れない。

 前出の事典の下田歌子の経歴では触れられていない(つまり忘れ去られている)が、彼女の創立した実践女学校には一九〇六年(明治39)、内モンゴルの毓正女学堂から女子学生三名が留学している。もちろん「モンゴル史」で初めてのことで、留学が実現した背景には「カラチン王家の家庭教師」をつとめた河原操子の尽力があった。この「カラチン王家」とはグンサンノルブ・愛新覚羅善坤夫妻のことだが、そのグンサンノルブが創立した毓正女学堂から、河原の帰国に伴い女子学生が同行する形で留学が実現したのである。

 注意すべきは、この時代の中国大陸の常識は朱子学に基づく「女子に学問など必要無い」だったことだ。そこに注目すれば、グンサンノルブがいかに開明的君主であり、日本との絆がきわめて深かったことに気がつくはずである。

(第1427回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年8月16・23日号

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