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【有田工が甲子園初戦】 佐賀県勢が日本一に輝いた歴史的な「2本の満塁ホームラン」 九州他県からは「まさか佐賀に先を越されるとは」

NEWSポストセブン 2024年8月7日 7時15分

 甲子園球場が100周年を迎えたこの夏、第106回全国高等学校野球選手権大会の開幕試合で滋賀学園(滋賀)と戦うのが有田工(佐賀)だ。佐賀県勢といえば、がばい旋風に乗って決勝に進出し、深紅の優勝旗を手にした2007年の佐賀北が記憶にまだ鮮明だろう。伝統校・広陵(広島)に4点をリードされた8回裏に、3番・副島浩史の逆転満塁本塁打が飛び出したシーンは、高校野球史に残る大逆転劇であり、ジャイアントキリングだった。

 佐賀北は、夏の全国制覇を遂げた最後の公立校である。しかし、その13年前の1994年にも、全国制覇を遂げた佐賀の公立校があった。田中公士氏が率いて、葉隠れ打線と呼ばれた佐賀商だ。田中氏宅を訪ねると、地元の新聞社が発行した当時のグラフ誌を広げながら、83歳になる田中氏はあの夏を思い返していた。

「本当に奇跡的な出来事でした。うちとしては、ひとつ勝てれば良いという気持ちで甲子園に乗り込みました。佐賀県勢は1回戦で負けることが多くてね。一勝さえできれば、県民のみなさまにも喜んでいただけるだろう、と。全国制覇? もちろん、考えてもいませんよ」

 川上哲治を生んだ熊本をはじめ、野球が盛んな九州にあって、佐賀は他県の後塵を拝していた。秋と春の九州大会で、佐賀県勢との対戦が決まると、思わず喜ぶ他県の野球関係者の姿を田中氏は幾度も目撃していたという。しかし、熊本や鹿児島、宮崎などに先んじて夏の全国制覇を遂げた。

「優勝のあと、佐賀県高野連の理事長として九州大会に行くと、『まさか佐賀県に先を越されるとは思っていなかった』と言われたものです(笑)」

 1回戦で浜松工(静岡)を下して当初の目標を達成すると、岡山・関西、沖縄・那覇商を下し、準々決勝では北海道の北海を撃破。佐賀県勢がベスト4に残ったのも、実に32年ぶりのこと。さらに長野の佐久(現・佐久長聖)も破って決勝に進出した。

「勝ち上がるにつれ、選手たちが自信をつけていった。試合のない日に、練習会場で名門校や伝統校と一緒となると、私は佐賀商の選手と一緒に練習を見学していたんです。すると、うちの選手が言うんですよ。『田中先生、うちとそんなに(力が)変わらん』って。勝つことによって、成長していく。甲子園とはそんな場所ですね」

2つの満塁本塁打

 ベスト8に九州勢が5校も残ったこの大会で、決勝の相手となったのも鹿児島・樟南だった。エース・福岡真一郎と、田村恵のバッテリーで、優勝候補と目されていた。

 樟南が2回裏に田村の安打から3点を先制すると、佐賀商が6回表に追いつき、その後は一進一退の攻防が続いた。4対4の同点で迎えた9回表、佐賀商は一死満塁のチャンスを得る。

「1番打者(宮原俊次)がチームでもっともシャープなバッティングができる、期待の高い子でした。最低でも犠牲フライを外野に打ってくれるだろうと思っていたら、三振してしまった。策を打てなかった私は『しまった』と後悔する場面でした。私には次の西原(正勝)が凡打に終わるイメージしか湧かなかった。これは1点も奪えないかもしれない……そう思った瞬間でした」

 カキーンと甲高い音が球場に響く。一塁側ベンチにいた田中氏はバックスクリーン方向を見上げた。2番の西原がバックスクリーンの左に飛び込む特大のアーチを架けた。

「あのシーンはいまでも脳裏に浮かびます。まだ9回裏の守りがありますから、勝ったとは確信できませんでしたが、4点差がついたことで、選手の気持ちを幾分、ラクにさせたと思います。佐賀に育った教え子たちとともに日本一を達成できたのは、何事にも代えがたい喜びでした。驚きの快挙として報じられましたが、私はその後、取材の度にこう答えていました。『再び佐賀県の学校が優勝することがあると思いますよ』と。そしたらですねえ……」

 13年後、今度は佐賀北が全国制覇を遂げるのだ。田中氏は日本高野連の役員として甲子園で観戦していた。偶然にも——いや、運命的かもしれない。佐賀商の時と同じ満塁本塁打で勝負が決した。

「うちの西原というキャプテンが打った本塁打と、副島君のホームランは同じようなところ(バックスクリーン左)に飛んでいった。打球を見上げながら、とにかくびっくりしましたね。奇跡がまた起きたんですから」

 佐賀商を率いた田中氏の教え子に、香田誉士史氏(現駒澤大監督)がいる。香田氏は駒大苫小牧を率いていた2004年に北海道勢として初めて全国制覇を遂げ、3年連続で甲子園の決勝に進出。2006年夏は、今年の選手権大会にも出場する早稲田実に延長15回引き分け再試合の末、敗れた。そして、2007年が佐賀北のがばい旋風だ。つまり、4年連続で、田中氏にとって縁のある指揮官、学校が甲子園の決勝に進出した。

「幸せな時間でした。私は本当に教え子に恵まれたと思います」

 83歳になった田中氏は高野連の役職も離れ、以前のように球場にも足を運べなくなった。それでも取材には佐賀県高野連のウエアを着て応対した。佐賀の野球人としての誇りは今も失っていない。

■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)

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