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ユリ・ゲラーと超能力ブームの思い出“スプーン曲げ少年少女”が多数出現、大槻ケンヂは「給食時間にスプーンを手に『曲がれ、曲がれ』」

NEWSポストセブン 2024年8月15日 16時15分

 1974年に日本列島を席巻した超能力ブームは、同年3月7日に放送された『木曜スペシャル 驚異の超能力!! 世紀の念力男ユリ・ゲラーが奇蹟を起す!!』(日本テレビ系)から始まった。『木曜スペシャル』の衝撃は大きく、あらゆるジャンルの雑誌がユリ・ゲラーを取り上げた。

〈ユリ・ゲラーが、カナダから念力!あッ古時計が動き出した〉(週刊平凡)、〈これは奇跡! ユリ・ゲラーの念力で加山雄三の足がなおった!〉(女性セブン)など、芸能誌、女性誌は肯定的。小学生向け学習雑誌、少年漫画誌なども同様だった。一方、〈ユリ・ゲラーの「超能力」を見破らんとする「真贋」のまなこ〉(週刊新潮)、〈謎の超能力青年ユリ・ゲラーの“真相”に冷静にせまる〉(週刊大衆)など、男性誌は懐疑的だった。

 テレビ番組でも「超能力」の話題が席巻した。4月からGWまでの5週間で、確認できただけでもワイドショーを中心に17の番組が取り上げている。ほぼ2日に1回のペースだ。しかも、深夜にひっそりと放送されていたわけではない。

 ユリ・ゲラーの影響で多数出現したのが「スプーン曲げ少年少女」。そのなかからマスコミに頻繁に登場し、寵児となった少年も現われた。日本に不在のユリ・ゲラーに代わり、テレビが扱ったのは、そうした少年少女や、卑弥呼や密教と超能力との関係などだった。

 当時の雑誌記事を調べると、当初は単純に「凄い!」「あり得ない!」と反応するものが多かったが、次第に学者も加わって真贋論争が繰り広げられ、カメラの連続撮影技術を使った検証も行なわれるようになった。そうした論争、検証もブームの一環であり、懐疑や否定も含めて「超能力」は社会の関心事だった。決してマニアだけの話題ではなかったのだ。

ユリ・ゲラーが受け入れられた背景

 実は、超能力が席巻する下地が当時の日本にはあった。

 来日の前年、1973年3月に小説『日本沈没』(小松左京著)が発売されると、年内に380万部以上を売り上げていた。人類の滅亡を予言する『ノストラダムスの大予言』(五島勉著)が同年11月の発売から、3か月で100万部を突破。これらが象徴するように、超常現象や終末論が広く社会に受け入れられていた。また1973年10月に第4次中東戦争が勃発すると原油価格が急騰、国内物価も急上昇し、トイレットペーパーの買いだめ騒動が起こるなど社会不安が広まっていた。

「超能力」という人知を超えた存在を受け入れる土壌ができていた。そこに、“真打ち”として登場したのがユリ・ゲラーだった。

小学校の給食時間にスプーン曲げが大流行

 ミュージシャンの大槻ケンヂが、当時の興奮を振り返る。

「当時小学生だった僕がユリ・ゲラーさんを初目撃したのが『木スペ』。両親と、兄の家族全員で観ていて、ユリさんがフォークを曲げた瞬間に一同どよめいたのを昨日のことのように憶えています。僕も兄もフォークを持って念じましたが、ピクリともしなかったです。翌日の学校も話題が持ち切りで大騒ぎでした。僕も友達も毎日、給食時間にスプーンを手に『曲がれ、曲がれ』とやっていましたね。この頃からオカルトどっぷり小僧になりました。今も趣味はオカルトです。

 50年前のあの夜、日本中の家庭で同じ光景が広がっていたと思います。今も『木スぺ』のユリさんの衝撃が日本人の心をとらえるのは、超能力に加え、1台のテレビを囲み、家族揃って『曲がれ』と心を合わせた昭和の古き良き時代の思い出が重なるからかもしれませんね」

【プロフィール】
大槻ケンヂ(おおつき・けんぢ)/1966年生まれ、東京都出身。ロックバンド「筋肉少女帯」「特撮」のボーカル、作家など幅広く活躍。大のオカルト(超常現象)好き。

取材・文/鈴木洋史、上田千春

※週刊ポスト2024年8月16・23日号

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