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【逆説の日本史】「プランB」として放棄された内モンゴル独立運動

NEWSポストセブン 2024年8月27日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その4」をお届けする(第1427回)。

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 ここで内モンゴルのハラチン(カラチン。中国語表記は「喀喇沁」)右旗の長であったグンサンノルブが、一九〇六年(明治39)に日本の実践女学校に留学させた女子学生三名の名前を記しておこう。中国名はそれぞれ「恵貞(何慧貞)」「保貞(于保貞)」「淑貞(金淑貞)」であり、「カラチン右旗王府重臣の娘たちであった」(『1906年におけるモンゴル人学生の日本留学』横田素子中国・内蒙古大学客員教授著 『和光大学総合文化研究所年報「東西南北」2009』所収)。

「ハラチン」と「カラチン」の「ハ」と「カ」の違いは発音の問題である。ちなみに、男子留学生はいなかったのかと言えば、もちろんいたが来日は女子よりも数か月あとだった。儒教の影響が強かった東アジアでは、きわめて珍しい事例と言えるのではないか。

 グンサンノルブは、このようにして日本との絆を固めていった。これ以後の彼の行動を見ると、清国が健在であるあいだは清国の支配下にある内モンゴルの王侯貴族として忠節を尽くすが、その忠節の対象である清国が滅んでしまえば、もともとは漢民族とも満洲族とも違うモンゴル人は、当時世界的に流行していた民族自決の道を歩んでもいいという態度だ。

 具体的に言えば、内モンゴルの「旗」そして「盟」をあらゆる手段でまとめて清国から独立すべきだということで、その場合は外モンゴルと一体になる可能性もある。もともと同じ民族だからだ。「大モンゴル主義」である。

 一方、日本にとってもグンサンノルブの「モンゴル独立運動」を支持する価値はあった。と言うのは、グンサンノルブの「領地」であったハラチン右旗(これはあくまで「地名」であることに注意)は、「内蒙古を南北に貫く熱河大道の要衝で、露国運輸動脈の要所チチハルを北にしており、露国にとっては側面を守るためにも背面に備えるためにも重要な地区」(引用前掲論文)であったからだ。

 では、具体的な場所はどこであったのかと言えば、現在の中華人民共和国内モンゴル自治区の赤峰市の南西にある、錦山鎮(人民政府の拠点)あたりに王府があったようだ。万里の長城のすぐ外側である。ここが日本の勢力下に入れば、それまでまったく日本の力が及ばなかった内モンゴルに楔を打ち込むことができる。

 しかし、その試みは結局失敗した。

 まず、清国が崩壊し清王朝が滅亡したことを「内モンゴル人」は絶好のチャンスとはとらえなかったことだ。前回、司馬遼太郎の見解を紹介したが、中原を支配し「中国人」となった満洲族は元遊牧民で、遊牧民の恐ろしさを知っていたこともあるだろう。漢民族以上にモンゴル民族を警戒し、とくに内モンゴル人に対してはあらゆる弾圧、分断、懐柔の限りを尽くした。

 その結果、「誇り高いモンゴル人」が満洲族の鼻息を窺うようになってしまった。だから、民族意識に目覚めたグンサンノルブがいくら呼びかけても、内モンゴル人は彼の下で一つにはならなかった。グンサンノルブ自体のリーダーシップも不足していた。それは彼が日本における室町幕府の創設者足利尊氏のように、ほかの大名を飛び越える身分では無く、いわば「同輩」であったからだ。

「なぜ、お前の下につかなければならないのだ」と考える旗長が少なからずいたということだ。この点、足利尊氏は戦争に勝つことにより新田義貞のようなライバルを排除したが、グンサンノルブにはそれができなかった。できなかった理由はいくつかあるが、最大の理由は日本が武器援助を中止したからだ。その理由については後で述べるとして、グンサンノルブは女子教育を重視したことでもわかるように、どちらかというと文人肌でチンギス・ハンや尊氏のような武闘派では無かったこともある。

 それでも、外モンゴルが強力な独立国家となり、ロシア、中国の対抗勢力となって「大モンゴル主義」を標榜すれば流れは変わったかもしれないが、時代はそのように進まなかった。たしかに一九一二年(明治45/大正元)一月の辛亥革命によって清朝が滅び中華民国が成立したとき、それを待っていたかのように外モンゴルのハルハ地方から独立を宣言する集団が現われた。これは一時軍備を整え「独立国」となったので、歴史上はボグド・ハーン政権と呼ぶ。

「ボグド・ハーン」は称号である。この人、個人名は別にあったのだが、ラマ教の「法王」ダライ・ラマ12世によってジェプツンダンバ・ホトクトという活仏、簡単に言えば「仏の生まれ変わり」であると認定された。こうした「存在」はこの世の寿命を終えても別の人間に輪廻転生する。だから、このときまでにジェプツンダンバ・ホトクトは歴史上に七人現れたが、その八人目(8世)として認定されたのである。

 だから活仏としてはジェプツンダンバ・ホトクト8世(1869~1924)であり、独立国モンゴルの元首としては「ボグド・ハーン」と呼ばれた。「ハーン」はチンギス・ハンの「ハン」と同じで、ボグドは「聖なる」ということだから、「聖帝」ととりあえず訳しておこうか。

 またまた「人物紹介」になってしまったが(笑)、なぜこうなるかと言えば日本いや大日本帝国はモンゴル人の歴史に対してきわめて大きな影響を与えているのに、日本人はそのことをきれいに忘れているからだ。

 たとえば、日本史において「徳川家康の晩年のライバルと言えば伊達政宗であったかもしれない」などと記すとき、伊達政宗のことを一から詳しく説明する必要は無いだろう。幸いにも大河ドラマなどの影響で、読者つまり国民は政宗に関する一般常識は持っているからだ。ところがモンゴル人やその歴史については、青年福田定一(司馬遼太郎)ら当時の日本人にとっては常識だったことを現代の日本人は忘れてしまった。

 日本人の悪い癖で、大日本帝国の崩壊という「嫌な思い出」を捨て去るため、すべて「水に流して」しまったのである。

 しかし、この稿は「日本史」であって「モンゴル史」では無いのでその後の経過を簡単に述べると、ボグド・ハーン政権は内モンゴル人の支持は得られなかった。簡単に言えば、「弱々しい政権」だったからである。その成立過程を見てもわかるように、この政権はラマ教(チベット仏教)の強い影響下にあった。司馬遼太郎はラマ教を清国がモンゴル族を弱体化させるため「注入した毒物」と見做していたが、どんな宗教にも美点はある。

 ラマ教の美点は平和主義である、無抵抗主義と言ってもいい。それは現在の法王ダライ・ラマ14世が、中国からあれほどひどい目に遭わされたにもかかわらず、非暴力を唱えていることでもわかるだろう。ただ大変残念なことに、こうした宗教は戦争や民族団結の統合原理にはならないのである。

 日本でも、仏教を統合原理とした「藤原三代奥州平泉王国」は源頼朝率いる鎌倉武士に攻め滅ぼされてしまったし、逆に幕末期に欧米列強がアジアを植民地化しようと大挙して押しかけて来たときには、ヒステリックな排外主義を唱える朱子学が逆にプラスに働く統合原理となって、侵略の魔の手を払いのけることができた。

 そもそも人間の作ったものだから長所もあれば短所もあるのが当然なので、だからこそ歴史の教訓からその長所と短所を明確にし将来に備える必要があるのだ。結局前にも述べたように、外モンゴルはソビエト連邦の援助を受けて中国の支配を脱し、そしてソビエト連邦が崩壊した時点で真の独立を確立し、モンゴル人民共和国から現在のモンゴル国になったのである。

「夫と妻の意見不一致」

 では、この稿は日本史なのになぜモンゴル史をこのように記述しているのか? もうお忘れになったかもしれないので(笑)あらためて注意を喚起しておくと、現在の主題は辛亥革命の始まり(1911)から五年後の一九一六年(大正5)に第二次大隈重信内閣がいかにして崩壊したか、である。時系列をたどると、一九一四年に第一次世界大戦が勃発し、大隈内閣は「日英同盟のよしみ」でこれに参戦した。

 日本は中華民国・膠州湾にあったドイツの拠点青島を攻略占領し、袁世凱に「対華二十一箇条の要求」を突き付けた。それは新聞に繰り返し煽動されて、対中国強硬路線を望んでいた国民の熱い支持を得た。だが、この先一転して大隈内閣は崩壊に向かう。そのきっかけが「第二次満蒙独立計画」の失敗だったのだ。

 これも計画自体が失敗したというよりは、日本つまり大隈内閣のこの問題への関与の仕方がまずかったと評価すべきなのだが、そもそもそうした評価を論じるためには「満蒙独立運動とはなにか」「蒙古と現在のモンゴル国とどこが違うのか」「遊牧民に関してはどんなことを常識として知っていなければならないか」などを述べる必要があった。

 あらためて満蒙独立運動について述べれば、満洲族とモンゴル人それも清朝に協力的な内モンゴル人が一体となって、一度は滅んだ清朝を再興する。それを日本が強力に援助することによって、再興された「新・清国」に強い影響力を持つような形を作り上げることだ。そうすれば、この当時の対中国外交の最大の懸案であった「南満洲利権の延長問題」も簡単に解決することになる。

 ところが、大陸浪人川島浪速と清朝皇族粛親王善耆が画策したこの動きを、「第一次満蒙独立運動」「第二次満蒙独立運動」という流れでとらえるべきでは無い、という見方もある。というのは、粛親王善耆の妹善坤の夫グンサンノルブは、たしかに「内モンゴル独立」をめざしていたが、善耆や善坤にとってはあくまで「清王朝の再興」が目的であり、それを抜きにしての内モンゴル独立はあり得ないからだ。つまり、グンサンノルブの内モンゴル独立運動失敗のもう一つの原因は、「夫と妻の意見不一致」だったと考えられるのである。

 辛亥革命勃発時、陸軍参謀本部は川島浪速の提言により善耆の身柄を保護したこともあった。しかし、結局は川島と善耆およびグンサンノルブへのバックアップを中止した。なぜか? これが「プランB」だったからだろう。アメリカのアクションドラマなどでよく使われる言葉だが、「本命」の計画がうまくいかなかったときの、予備のプランである。戦争で言えば、勝つつもりが負けたときの対応策である。

 本来、参謀本部というのは常にそういうことを考えておかねばならない。全体のプランニングを考えるのが参謀本部の仕事であるし、人間のやることには必ず失敗がつきものだからだ。もっともこの時代から昭和二十年までの日本の歴史は、参謀本部がそうした本来の機能を失い、天皇の御稜威(霊力)に守られた不敗の軍隊という驕りが生まれ、「プランB」を考えない組織になっていくというものだが、辛亥革命当時の陸軍参謀本部はそこまで硬直した組織にはなっていない。

 日本にとって最良と言える結果は、日本びいきの孫文が主導権を握った民主国家が清国に代わって誕生することだった。しかし、孫文は戦争が下手で彼の指導する革命は何度も失敗した。今回は「袁世凱の革命派への寝返り」もあって成功する可能性は高かったが、それでもうまくいかなかったときのことは考えておかねばならない。それがプランB、つまり革命政権が日本の望む形で成立しない場合、逆に清朝を日本の力で再興させ、あわせて内モンゴルも独立させ思いどおりにするというものだった。

 しかし、曲がりなりにも革命は成功し、中華民国が成立した。その後、革命政権のトップの座を孫文から譲られた袁世凱は、じつはいずれ皇帝になるという野心を抱いており、その障害となる民主派のリーダー宋教仁を暗殺するという暴挙に出るのだが、そんなことはこの時点で誰にも読めない。陸軍参謀本部はとりあえず革命が成功したのだから、プランBは必要無くなったと考え、放棄した。

 とは言っても、なにが起こるかわからないのが世の常である。だから積極的軍事援助こそ中止したが、川島を通しての善耆の「保護」は続けた。この間、川島と善耆はさらに親交を深め二人は義兄弟となり、善耆の娘が川島の養女となったことはすでに述べた。参謀本部は積極的応援もしなかったが、それを黙認した。なぜなら、「パイプ」つまり人脈というものは多く確保しておくにこしたことはないからだ。

 そして大隈内閣の時代、その人脈が生かされることになった。袁世凱が自ら皇帝に即位したからだ。そんなニセモノの、しかも反日の皇帝を認めるよりは、本物の清朝皇帝を日本の手で復活させたほうが遥かにマシ、ということである。

(第1428回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年8月30日・9月6日号

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