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《俳優・田村亮が知る亡き兄の素顔》母は田村「正和」ではなく名前は「和子」に決めていた、隣接する兄弟の自宅が2階で繋がっていた意外な理由

NEWSポストセブン 2024年10月13日 10時58分

 山村美紗サスペンス『狩矢父娘シリーズ』(テレビ朝日系)や『暴れん坊将軍』シリーズ(テレビ朝日系)などの時代劇で活躍してきた俳優・田村亮さん(78)。大正の無声映画時代から昭和の初めにかけて活躍した大スター・阪東妻三郎さん(享年51)の4男で、長兄・高廣さん(享年77)、三兄・正和さん(享年77)と“田村3兄弟”として知られる。ともに活躍した家族とのエピソードを聞いた。【全3回の第2回。第1回から読む】

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 僕は阪東妻三郎の4男として生まれ、2番目の登司麿(としま)兄貴以外の僕ら3兄弟は役者になりました。兄弟それぞれ「オヤジに似てる」と周りからよく言われるのですが、僕らは誰も「自分は似てる」とは思わないんですよ。役者になることも、長兄の高廣兄貴も僕も、もともとは考えていなくて、なりたい、と最初から思っていたのは、正和兄貴だけでした。

 オヤジは僕が小学校1年生のときに亡くなったので、僕が役者になることについて賛成とも反対とも聞いたことはありません。オヤジが人気俳優だというのはわかっていましたが、役者としての顔を家で見せることはありませんでした。ただ、自宅の離れにあったオヤジの事務所に、セリフが書かれた巻き紙が壁にズラッと貼ってあるのを見たことはありました。それを歩きながら読んでセリフの練習していたんだ、と聞いたことはあります。

だから、僕にとっては、オヤジは外では大スターでも、家では優しいお父ちゃんでした。怒られるどころか、大きな声を上げるのを聞いたこともありませんでしたから。僕が良い子だったから、というのもありますけどね、ホント(笑)。やっぱり、オフクロに厳しくしつけられていましたからね。

オヤジはお節句や七夕などまつりごとのときは、よく一緒に遊んでくれました。お節句のときは家中を回って、豆まきをしました。といっても、豆をまくのはオヤジで、僕はオヤジが「障子を開けろ!」「鬼が入ってくるから早く閉めろ!」という声に合わせて開け閉めしていただけ(笑)。オヤジがいちばん無邪気に、子どものようにはしゃいでいたんです。

頻繁にあった兄弟ゲンカ

 でも、普段は忙しくて、オヤジはほとんど家にいない。高廣兄貴は18歳も年上だから、僕が物心ついたときにはもう家を出ていました。だから、僕が子どもの頃の田村家の食事は(父方の)祖母、オフクロ、登司麿兄貴、正和兄貴、僕の5人でとっていました。

 登司麿兄貴も8歳も年上。一緒に遊んで育った、といえば、やっぱり3歳年上の正和兄貴ですね。幼い頃はしょっちゅう取っ組み合いのケンカもしました。オフクロによると、「ふすまや障子を破るようなケンカは見たことがなかった」というから、正和兄貴が手加減してくれて、品よくケンカしていたのかな。

 幼い頃の3歳差は大きいですからね。高校や大学になると、「今、幸照(亮さんの本名)とケンカしたら負けるからやらないよ」と言われて、ケンカをすることはなくなりましたっけ。

仲良すぎの田村家「正月の風景」

 僕ら兄弟は仲がいいんです。これもオフクロの采配がうまかったんだと思います。僕らは男同士ですから、ベタベタした付き合いはしませんが、正月は必ずオフクロのいる僕の家にみんなで集まって、酒を飲んでおせち料理を食べていました。僕はごまめ(田作り)が好きだから、自分で作ったりもして(笑)。兄弟みんな酒が好きだから、正月にみんなで飲む酒量はすごかったですよ。

 兄弟で集まっても、芝居の話はいっさいしないんです。ケンカになるから。だから、たいした話はしません。みんな真面目で無口なほうですしね。昔、オヤジのお弟子さんで、よく遊んでくれたあの人は最近どうしてるとか、兄貴んちの子どもは中学生になったんだなとか、そんな話。僕の女房がいちばん年下だから、「正和さん、美味しいなら美味しそうな顔して食べてくださいよ」なんて軽口叩いたりしてね。そんな僕らの周りを、子どもたちが賑やかに走り回っている、というのが田村家の正月の風景でした。

 両親の法事でも、よくみんなで京都の二尊院に集まりましたから、法事のあと子どもらも連れて、小さなお茶屋さんで飲み食いしたり、兄弟で京都の祇園の小さなクラブで一緒に飲んだりしたこともあります。高廣兄貴は日本酒が好きで、飲むと怒りっぽくなることもありました。僕らに対してじゃなくて、世の中の理不尽なこととかに対してね。正和兄貴と僕は、ビールを飲んだ後、白ワイン。正和兄貴は飲んでも物静かでした。僕は今じゃめっきり弱くなって、ワイン2杯がせいぜいです。

 母が元気な頃、正和兄貴がジャージを着て正月の挨拶に来たことがありました。ジャージといっても、高級ブランドのものだったのですが、オフクロが「新年の挨拶にジャージは良くない」と小言を言ったものだから、正和兄貴はすぐに自宅に戻って、今度はタキシードに着替えて颯爽と現われたんです。驚いたし、家族中で大笑い。正和兄貴はそんなお茶目なところがあったんですよ。

 余談ですが、両親は男の子が続いたので、正和兄貴が生まれる前は「今度こそ女の子だ」と「和子」という名前を用意していたんだそうです。生まれてみたら男の子だったので、正和にしたんだそうですよ。僕のときも「今度こそ女の子を」と思っていたらしいんだけど、4人目も男だったからがっくりして、オフクロは産んだときのことを覚えていないそうです(笑)。

田村正和が生前に抱いていた「夢」

 オフクロは僕の家族と暮らしていましたが、僕の家と正和兄貴の家は隣同士で、2階を繋げて自由に行き来できるようにしていました。だから、正和兄貴もよく家に来て、オフクロに顔を見せていましたよ。息子のそばで暮らせて、オフクロは幸せだったんじゃないかな。

 オフクロが平成5年に92歳で亡くなった後は、正和兄貴の家とも離れて暮らすようになりましたが、女房同士で連絡を取り合ってくれていて、正和兄貴が亡くなる3カ月ほど前にも「元気で散歩をしている」と聞いていました。だから、2時間ほど前に亡くなった、と兄貴の奥さんから電話がきたときは、「誰の兄貴が亡くなったの?」と聞いてしまったほどでした。

 お寺の小さなお堂で、兄貴の希望で身内だけで静かに送ったのですが、ずっと亡くなった実感は湧きませんでしたね。ときどき、ふと「あ、いないんだ」と思ったりして……。やはり寂しいですよ。最後に会ったのは、亡くなる3年ぐらい前。「どう、体調は?」と聞いたら、「仕事を休んでるから、すごくいいんだ」と言っていました。

 テレビドラマで人気を得た兄貴でしたが、本人としては、オヤジが20~30歳代で出演した作品を舞台でやりたい、という思いをずっと持っていたようです。まだ30代だった1978年に、『雄呂血』という、オヤジが剣劇スターとして一躍人気を得た無声映画の舞台版を、名古屋の御園座で主演しましたが、もっとやりたかったんですね。でも、年齢が上がってくると「もう舞台はキツいよ」と、断念したようでした。

(第3回に続く。第1回から読む)

◆取材・文/中野裕子(ジャーナリスト) 撮影/山口比佐夫

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