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体調崩した兄・田村正和さんが病室で残した“唯一の助言”、田村亮「70代にとっては1年が貴重で惜しい時間」の現在

NEWSポストセブン 2024年10月14日 10時59分

 銀幕の大スター・阪東妻三郎さん(享年51)を父にもち、高廣さん(享年77)、正和さん(享年77)を兄にもつ俳優・田村亮さん(78)。望まずして俳優の道へと進んだが、デビュー60年が間近に迫る今も現役を続けている。初出演作や代表作、そして俳優という仕事について、振り返って思うところを聞いた。【全3回の第3回。第1回から読む】

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 僕はもともと商社マンになりたくて成城大学経済学部に進んだぐらいで、俳優になる気はなかったんです。まだ、高校時代だったかなぁ。阪妻13回忌企画ドラマ『破れ太鼓』をNHKさんが制作するというので、「4兄弟が出てくれたら話題になるから」と言われ、すでに俳優をやっていた兄貴2人に迷惑をかけられないと思って出演したんです。

 当時は素人だから、わけもわからないまま、ただ居ただけ。本読みのとき、立派な俳優さんやディレクターがコの字になって座るでしょ。木暮実千代さん、十朱幸代さん……「キレイだなあ」って、女優さんの顔ばかりボーッと見惚れていました(笑)。で、僕の番が来たら、ただ読むだけでした。高廣兄貴や正和兄貴のすごさもわからないし、兄貴たちも兄貴たちで僕に「ああしろ」「もっとこうしろ」とは言いませんでした。言われても、何もできませんしね。

 大学に進むと、稲垣浩監督というオヤジととても懇意にしていた方から声をかけられ断れず、『暴れ豪右衛門』で映画デビューしました。その後、悩みましたが、結局、俳優の道へ。そして、俳優をやるならちゃんと基礎を学ばなければいけないと思い、大学卒業後、演出家の早野寿郎さんが所長を務めていた劇団「俳優小劇場」付属の養成所に入り、発声から学んだんです。

 養成所に入って1年後に東宝と契約し、すぐに『無常』という映画の主演のお話をいただきました。ロカルノ国際映画祭で金豹賞(グランプリ)をいただいた作品で、実相寺昭雄監督からのご指名でした。台本を読んだらおもしろくて、何でこんなに早くいい仕事が来たんだろう、と思いました。

 ずっと京都の旅館に泊まって撮影しました。朝、旅館をたって撮影地に移動するバスの中で、「ちょっとこれ、覚えてくれる?」って紙が配られるんです。セリフが都度都度変わるわけですよ。だから、移動の1時間半とかの間に一生懸命覚えて。難しいセリフが多かったんですけど、「これってどういう意味ですか」と聞く時間もなく、ただ覚えたことをそのまましゃべる、という感じでした。いや、お恥ずかしい。
『無常』は大手の映画会社の作品じゃないから、制作費が限られていたし、難しいセリフがあったりで大変だったけれども評判が良くて、当時は多くの人が注目していた映画雑誌『キネマ旬報』のランキングでも、きっと1位をとるだろう、とスタッフらとみんなで話していたら2位で。1位は山田洋次監督の『家族』。「あっちは家族で楽しめる万人向けの映画、『無常』はR18指定だから仕方がないか」なんて言っていました。

 その後もいろんな作品に出させていただき、1984年に放送された時代劇の連続ドラマ『乾いて候』(フジテレビ系)では、兄弟3人で共演しました。3人で顔を合わせてにらみ合うシーンなんかがあって、照れくさくてしょうがなかったですよ(笑)! 高廣兄貴や正和兄貴には「我慢してやれよ!」なんて言われながらがんばりましたけどね。

 1990年の『勝海舟』(フジテレビ系)でも3人で出演しましたが、主役の正和兄貴が途中で体調を崩してしまったので、僕が代わって勝海舟役を演じました。正和兄貴を病室に見舞ったときは、「現代劇のつもりでやったほうがいいよ」とアドバイスをくれました。

 ドラマも映画も舞台も、どれも面白いし、こだわらずに出演してきました。あえていえば、正式デビューが東宝映画の『暴れ豪右衛門』だったから、根底には映画があるのかもしれません。
俳優の色としては、高廣兄貴は実直、正和兄貴はニヒルなんて言われますが、僕はどうなんでしょうか。真面目でカタい役が多かったかもしれません。実は、僕はそれがつらかった。素顔の僕は真面目ではありますが、人を笑わせるのが好きだったりもして、そんなに堅苦しい人間ではなく、気難しくもないもんですから。

 その点、僕のひょうきんな部分を引き出して、長く演じさせてもらったのが、山村美紗サスペンス『狩矢父娘シリーズ』(テレビ朝日系)ですね。演じていて、楽しかったですよ。藤谷美紀ちゃんが主演で、僕は彼女のお父さん役。娘に、原田龍二君が演じる恋人と「いつ結婚するんだ」とやきもきする、というのがお決まりのパターンで、2000年から2020年まで続きました。ところが、なぜか突然打ち切りに。結局、娘が恋人と結婚するかどうかは描かれず終いでした。

役者でも、サラリーマンでも「結局はがんばった者が勝つ」

 思いがけず役者になって、今、その半生を振り返ってどう思うか、とよく聞かれるのですが、わかりません。だって、ほかの仕事をしたことがないから。比べられません。ただ、どんな仕事に就いたとしても、浮き沈みがあり、良いこともあれば悪いこともある。きっと似たりよったりじゃないか、と思うんですよね。役者でもサラリーマンでも、結局はがんばった者が勝ちなんじゃないかな。まあ、僕はちょっとがんばりが足りなかった(笑)。

 4年前にコロナが大流行して、俳優の仕事ができなくなってしまったときはつらかった。僕ら70代の者にとっては、1年1年が貴重で惜しいですから、1年できなくなる、というのは重いことでした。

 こういうと“演技が命”みたいですが、板の上で死にたい、とは思わないです。死ぬのはどこでもいいのですが、そんなことを考えてちゃいけない、と思います。終活というのも考えない。後ろ向きじゃないですか。死の準備はしちゃいけないですよ。これから始めるつもりで、生きていくために荷物を整理するのはいいと思いますけど。いつまでも健康で家族仲良く、そしていい仕事をしてみなさんに喜んでいただく、というのが僕の願いですね。

(了。第1回から読む)

◆取材・文/中野裕子(ジャーナリスト)撮影/山口比佐夫

 

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