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【逆説の日本史】第二次満蒙独立運動の「主役」に躍り出た武闘派の内モンゴル人

NEWSポストセブン 2024年9月7日 7時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その5」をお届けする(第1428回)。

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 民主的な共和国(君主のいない国)に「進化」したはずの中華民国が、こともあろうに帝国(皇帝の支配する国)に戻ると宣言した。しかも、その宣言は「民主国家」の大総統であった袁世凱によってなされた。一九一五年(大正4)末のことだ。前にも述べたように、当時日本は大隈内閣だったが、このとき日本人がこの事態をどのように考えたか、おわかりだろう。それは、「やっぱり中国人はダメだ」「自力で近代化する能力は無い」だったろう。

 日本の歴史学界は思想や宗教を無視して歴史の解析を進めているので、こうした心情が歴史を動かすことにも考えがおよばない。たとえば、現代の日本人が「空気のようにあたり前」だと思っている「人間は皆平等」という「思想」も、人類の長い歴史のなかでは「ここ二百年」のあいだにようやく確立された思想で、その成立には欠かせない条件がある。その最大のものが「平等化推進体(人間皆平等であることを定着させる存在)」である。

 これについては何度も説明したので再説しないが、中国つまり儒教文明にはそれが存在しない。だから、選ばれし優れた人間が他の愚かな民を統治するのが正しい、という考え方をどうしても捨てられない。それは現在も続いていて、中国共産党の一党独裁が続いているのも、それが理由だ。

 香港人や台湾人はこうした中国本土の政治風土に反撥しているが、それは香港も台湾も外国の植民地支配を受けた結果「民主マインド」が注入された結果であって、ほとんどの中国人はいまだに民主主義(=万民平等)など信じていない。信じていれば中国共産党の独裁に対してもっと「反乱」が起こるはずだが、そうなってはいない。

 この時代も事情は同じで、たしかに民主主義を信奉する孫文や宋教仁などのリーダーはいたが、いずれも袁世凱に屈した。それは民衆が最終的に袁世凱を支持した、ということだ。だからこそ、袁世凱は皇帝になれると考えたのだ。袁世凱の心情を代弁すれば、「対華二十一箇条」を要求してくるような傲慢な日本と対決するためには、帝政のような強力な独裁体制を敷かなければならない、であったろう。

 少なくとも「日本との対決」については中国民衆もそのとおりだと考え、袁世凱を支持した。皮肉なことに、大隈内閣の実施した強硬な要求は袁世凱の権力を強化する結果を招いたのだ。そこで自信をつけた袁世凱は、まさに調子に乗って皇帝になろうとした。さすがに、この「時計の針を逆に回す愚行」は多くの中国人の反撥を招いたが、それでも支持する民衆がいたことを見逃してはならない。

 あたり前のことだが、「まったく実現不可能」と誰もが考えることなら、奸智に長けた袁世凱が実行に移すはずがないではないか。袁世凱は、ひょっとしたら「日本と戦っている英雄である自分がナポレオン・ボナパルトのように皇帝となってなにが悪い」と思っていたかもしれない。多くの人が忘れているが、「共和国を成立させたリーダーが自ら皇帝に即位し国家を帝国に変える」という前例は存在したのである。

 ただ、袁世凱のやり方はあまりにも古色蒼然としていた。人は常に新しいものを求める。実質的な皇帝制であってもなにか新しい形を取っていれば、その野望は実現したかもしれない。こう言えば、現在の中華人民共和国の習近平主席がめざしているものが見えてくるだろう。「赤い皇帝制」である。

 それに対して香港などはともかく、中国本土からは大きな反撥の声が起こっていない。それは必ずしも中国共産党の言論および思想統制が成功しているからだけでは無い。そもそも中国には、万人平等の思想がいまも昔も根付いていないからだ。この点、「戦前」の日本人のほうがこうした中国人の民族的特質を理解していた。中国を統治するには、皇帝制のほうが多くの民衆の支持を得られる、ということだ。ならば、日本の手強いライバルである「成り上がり」の袁世凱を潰すためには、「本物」の皇帝を担ぎ出して対抗させればよいことになる。

 ここに至って、辛亥革命のときには「プランB」として封印された満蒙独立運動が再び脚光を浴びることになった。なぜなら、「プランA」つまり孫文の主導する民主的国家の中華民国と付き合っていけばいいという方針が袁世凱によって潰されてしまったからだ。ただし、その「第二次満蒙独立運動」のキーマンは「第一次」と同じ大陸浪人川島浪速、清朝皇族粛親王善耆、内モンゴルのハラチン右旗長のグンサンノルブだけでは無かった。もう一人、バボージャブという内モンゴルの「軍人」が加わった。いや、こちらのほうがむしろ「主役」だった。

 もちろん、それには理由がある。簡単に言えば、辛亥革命のときには無かった内モンゴルと日本の絆が生まれていたからだ。清朝が滅ぼされた辛亥革命の時点では、内モンゴルは清国に完全に取り込まれていた。グンサンノルブの妻が清皇室出身の愛新覚羅善坤であったのがその象徴で、こうした例は他にもある。だから、この時点での「満蒙独立」とは「清」を「内モンゴル」が助けて中華民国に対抗するというものであった。

 そして「孫文の中華民国」が一度は成立したので、日本は「満蒙独立」という「プランB」は捨てた。しかし、内モンゴルとの交流を絶つのも惜しいと考え援助は続けた。そこで結果的に、辛亥革命以前には存在しなかった内モンゴルとの絆が生まれた。

 そうした積み重ねのあとに、袁世凱が「孫文の中華民国」を破壊し「中華帝国」をめざすという暴挙に出たのである。ならば日本の後押しする「満蒙独立運動」においては、一方では清朝の復興を援助するとしても、内モンゴルまで清朝に渡すことはない。むしろ内モンゴルとの絆を生かし本当に中国から独立させればいい。そうすれば、日本は中国大陸に新たな拠点を得ることができる。

 そういう観点から言えば、日本のパートナーとしてよりふさわしいのは、清朝をあくまで尊重するグンサンノルブでは無く、もっと民族意識つまり中国からの独立志向が強い武闘派の内モンゴル人がよい、ということになる。

 それがバボージャブだった。

精鋭部隊の長から厄介者に

〈巴布扎布 バボージャブ 1875-1916
モンゴルの独立運動家。
内モンゴルの出身。辛亥(しんがい)革命後、全モンゴル独立をめざすボグド=ハーン政府の運動に参加。1915年キャフタ協定で外モンゴルにのみ自治がみとめられると、約3000の騎兵をひきいて独自行動をとる。川島浪速(なにわ)らの満蒙独立運動と連携するかたちで内外モンゴルの統一をめざすが、1916年10月8日中国軍との戦闘により戦死。42歳。バブチャプ、パプチャップとも。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)

 バボージャブは、そもそも日露戦争のときは馬賊の首領としてロシア軍の後方攪乱を担当するなど、その姿勢はきわめて「親日的」であった。なぜそうなったかと言えば、子供のころ彼が育った内モンゴルの「旗」に、清朝の政策によって漢人(=農民)が大量に移住してきたからである。内モンゴル人は羊のエサ場である草原を奪われ、困窮した。だから彼らは馬賊となって反清国のゲリラ活動に従事し、当然日清戦争で清国と戦った日本ともよしみを通じるようになった。

 ちなみに馬賊とは民間の騎兵集団で、もともとは集落の自衛のために生まれた組織だった。中国大陸は広く、清朝の末期は警察や軍隊もまともに機能せず、治安は乱れに乱れていたからである。この点、平安時代末期の武士が生まれたころの日本と似ているが、騎兵中心になったのは彼らが遊牧民で馬の扱いには慣れているからだ。また、そういう集団は完全な自由競争で出自は関係無く、優秀な人間がリーダーとなる。

 後に日本軍の手強いライバルとなる張作霖ももとは馬賊のリーダーだったし、その軍事顧問を務めた日本人・伊達順之助(伊達政宗の末裔)も馬賊のリーダーとなった。小説『夕日と拳銃』(檀一雄作)は、彼をモデルにした作品である。

 そうした時代風潮のなかで同じく馬賊のリーダーとなったバボージャブも、日本の幕末の志士のように個性的な魅力ある人物だったようだ。幕末にたとえれば、グンサンノルブは王族の出身だから徳川慶喜のような立場で、それに対して叩き上げのバボージャブは西郷隆盛かもしれない。佐幕か倒幕かの違いということだ。

 もっとも清朝を尊重する姿勢を維持していたグンサンノルブも辛亥革命で清朝が滅んだあとは、外モンゴルに誕生した「全モンゴル独立をめざすボグド=ハーン政府」に関心は抱いた。しかしバボージャブとの決定的な違いは、彼が喜び勇んで配下を率いボグド・ハーン(活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世)のもとに馳せ参じたのに対して、グンサンノルブは内モンゴルにとどまったことだ。グンサンノルブには守るべき旗つまり「領地」があった。この点も、遊牧民の常に拠点を移動する、という習慣を維持していたバボージャブとの決定的な違いかもしれない。

 しかし前にも述べたように、ボグド・ハーン政権はラマ教に由来する平和主義もあり武闘派では無かった。結果的には「内外モンゴルの統一をめざす」こと無く、中華民国およびロシア帝国とキャフタ協定(1915年)を結んでしまった。これは、簡単に言えば中露との妥協の産物で、中国もロシアもボグド・ハーン政権の完全な独立は認めないが、ロシアは中国の宗主権下におけるボグド・ハーン政権(=外モンゴル)の高度な自治を認める。その代わりに外モンゴルの経済権益を獲得する、というのものだった。

 肝心なことは、ここで外モンゴルと内モンゴルを統一した「大モンゴル国」を建国するという理想は完全に否定されたことだ。その理想を抱いていたバボージャブにとっては憤懣やるかた無かっただろうし、一方キャフタ協定を結んで事を荒立てたくないボグド・ハーン政権にとっては、バボージャブは頼りになる精鋭部隊の長から厄介者になったということだ。絶対に「中国人(漢民族)の支配」を受けたくなかったバボージャブは、それゆえに「約3000の騎兵をひきいて独自行動」をとったのである。

 すでに述べたように、袁世凱は一九一六年(大正5)一月より新たに元号を「洪憲」と定め、国号を「中華帝国」とし自らは皇帝に即位する形を整えたが、このようなことは突然実現できるわけではない。事前の準備が絶対に必要だ。つまり一九一五年(大正4)、言葉を変えて言えばキャフタ協定が成立したころから、いずれ袁世凱は皇帝になるつもりだと日本も認識していた。

 この袁世凱の「ナポレオン計画」を察知した大隈内閣は、さっそく対策を練った。こうなれば「反漢・反中の精鋭部隊」を利用しない手は無い。孤立したバボージャブは日本に武器や食料の援助を求めたし、日本もこれに応じた。公式に動けないところは、川島浪速らが陸軍の意を体して動いたのは言うまでも無い。こうして、中国本体は清朝皇族粛親王善耆やハラチン右旗長のグンサンノルブの力を借りて「皇帝の首をすげかえる」にしても、内外モンゴルは日本の援助によって独立させるという方針が確立した。だから、この方針が「第二次満蒙独立運動」と呼ばれた。

 一九一六年に入って皇帝に即位した袁世凱に対し様子を見ていた大隈内閣は、袁世凱の野望が民衆はともかく知識人だけで無く軍人・官僚・地方政治家にもきわめて評判が悪いことを知り、ついに同年三月の閣議で「排袁」の方針を決定した。袁世凱政権を潰す、ということだ。もっとも、正面切って日本軍が中国軍に戦いを挑めば国家同士の正面戦争になってしまう。日本とは「無関係」な軍が動いてくれるのが一番いい。つまり、日本にとってバボージャブは切り札と言えないまでも、きわめて有用なカードに昇格したわけだ。

 バボージャブもやる気満々であった。袁世凱が失脚し中国が混乱すれば、間隙を縫って内外モンゴルの不満分子を吸収し、最終的な目的である「大モンゴル国」を建国することも夢では無い。

 ところが、思わぬことが起こった。あまりの国内の反撥に同年三月、しぶしぶ帝政を廃止した袁世凱が、一九一六年六月に五十六歳で急死してしまったのである。

(第1429回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年9月13日号

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