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京都国際・小牧憲継監督が明かした「名刺を捨てられたことも」「過去の謹慎処分」 前任の在日3世監督も語った「あの学校、環境でよくぞ……」

NEWSポストセブン 2024年9月6日 15時58分

 甲子園優勝直後に「韓国語の校歌なんてどうでもいい。選手らのプレーを取り上げたって欲しい」と本音を明かした京都国際の小牧憲継監督(41)。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、同校野球部の歴史をレポートする(全3回の第2回。第1回から読む)。

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 京都国際は2021年の春にセンバツで甲子園に初出場して以降、5度にわたって甲子園に出場し、今夏は初の日本一になった。監督の小牧憲継は言う。

「短期間でいきなり強くなったと思われるかもしれませんが、17年前に京都国際に来て、ずっと積み重ねてきたものがようやく結果に結びつくようになっただけやと思っています」

 小牧と京都国際の縁は、25年前の高校時代まで遡る。1999年、京都国際の前身である韓国系民族学校の京都韓国学園に、野球部が創部された。京都成章の1年生野球部員だった小牧は同年夏、京都韓国学園戦に出場し、34対0で勝利した経験を持つ。

 小牧が京都国際で指導を始めたのは、京都成章の同級生に京都韓国学園の中等部出身の選手がいたことがきっかけだった。その縁から、小牧は高校野球を引退した2001年夏以降、関西大に進学してからも時折、京都韓国学園で球児たちに野球を教えていたという。

 京都韓国学園が経営難に陥ると、2004年に日本の一条校となって校名を変更した。小牧が京都国際の社会科教諭として採用されたのは2007年だ。

 当時の野球部はPL学園のOBで、在日3世となる李崇史(リ・スンサ、現・長崎県の私立島原中央高校監督)が率いていた。小牧より2歳上の李が、関西大時代の小牧について振り返る。

「京都国際となり、日本の高校生が入学してくるようになったとはいえ、私が監督をしていた頃の京都国際は在日の子が多く、毎年、韓国からの留学生もいました」

 その頃、京都国際の試合となると、観客席や相手ベンチから「助っ人外国人に頼りやがって!」というような心ない野次も飛んだという。

「留学生といっても、高校野球部の少ない韓国国内の競争に敗れた子ばかりで、身体能力は高いけれども、野球が下手な選手が多かった。そういう選手に対して大学生だった小牧は投げ出すことなく丁寧に技術指導し、高3の夏には立派な野球選手に育てていた。小牧の情熱と指導はチームの力になる。そこで彼が銀行に就職してからも、教師になれと誘ったんです」

「コンビニで夜間バイトしながらコーチ」

 ところが、2008年に李による指導中の暴力が発覚し、日本学生野球協会から3か月の謹慎処分が下った。学校とも対立を深めた李は学校を離れた。

「学校からもより重い処分を言い渡されて、私は“やってられへん”と投げ出してしまった。銀行員を辞めてまで京都国際に来てくれた小牧を裏切る形となり、恨まれていても仕方ないんですが、私を頼って入学してくれた子たちを監督となった小牧が責任持って卒業まで指導してくれた。感謝しかありません」

 京都国際のグラウンドはレフトが70m、センターとライトが60mという狭くて歪な形状をしていて、練習試合どころか、外野ノックもままならない。このハンデのある練習環境で、小牧は16年間の監督生活で11人のプロ野球選手を輩出した。李が言う。

「あの学校で、あの環境で、よくぞこの成績を残せた。『すごいな』の一言しか浮かびません」

 小牧が脱サラして高校野球の指導者となった当時を振り返る。

「僕は野球以外、なんの取り柄もない人間で、ATMの使い方を知らないのに銀行員になったぐらいなんです。1年目(2006年)の11月に退行し、翌年4月までは実家が経営するコンビニで夜間バイトをしながら、京都国際でコーチをしていました」

 甲子園を目標に掲げるのではなく、大学や社会人まで長く野球を続けられる野球選手を育てることに重きを置く指導者としての姿勢は、李に教わったものだという。

「それはPLの教えでもあると思いますが、試合はいわば舞台発表の場という位置づけなんです。京都国際はグラウンドが狭いし、満足なチーム練習はできない。徹底的に個の技術を磨き、身体能力を高め、個の力を結集して試合で発表する。その舞台が甲子園であれば最高という考え方でした」

名刺を捨てられた

 2008年の監督就任当初は選手勧誘も小牧が担当し、中学野球の現場にも足を運んだ。しかし、韓国の学校という先入観が先行し、勧誘しても相手にされないことが続いた。

「目の前で名刺を捨てられたこともありますし、高校野球関係者を集めた会合に僕だけ呼ばれないこともあった。チーム関係者や親御さんからしたら、こんな得体の知れない学校ですから(笑)、それも仕方なかったと思うんです。それでもひたすら通って誠意を見せ続けていたら、協力してくれる人が出てきた。中学野球関係者の方に言われた一言は今も心に残っています。『京都国際に(教え子を)預けるんちゃうぞ。信頼するお前に預けるんや』って」

 京都国際の監督を辞めたくなることは幾度もあった。その度に、協力者のその言葉が浮かぶ。

「声を掛けて来てもらった以上、その生徒への指導を投げ出して、僕だけ他の条件の良い学校に移ることなんて絶対にできない。覚悟を持って来てもらう以上、こちらも覚悟を持って接しているつもりです」

 報道陣の前では常にニコニコしている小牧も、曽根海成(現・広島)が主将を務めた2012年頃、練習試合中に曽根に暴力を振るい、3か月の謹慎処分を受けた過去がある。小牧にしてみれば、蒸し返されたくない話題だろう。だが、この件にも逃げずに向き合う。

「まだまだ選手のレベルが低く、曽根の実力だけが突出していたチームだったんです。試合中、仲間のミスに曽根がイライラして、自分の思い通りにいかないことにふて腐れた態度をとっていた。『お前がキャプテンとして下手なヤツらをカバーして、引っ張っていかんとあかんやろ』と、つい手が出てしまいました」

 昭和の高校野球ならよく見かける光景かもしれないが、現代では許されない指導法だ。本人も「もちろん、今では生徒に手を上げることは絶対にない」と言う。

日本一を可能にした「指導者4人体制」

 現在の京都国際は、2013年頃にコーチに就任した岩淵雄太(33)が、小牧に代わって選手勧誘を担当。そして小牧が野手、小牧の京都成章の同級生である部長の宮村貴大(41)が投手の育成を担当する。さらに昨春からは小牧よりも年配の男性コーチを寮監として招き、選手たちの父親代わりとして寮での生活基盤を支えている。

「4人の指導者が担当を完全に分担して指導にあたっています。日本一を達成できたひとつの要因ではあると思います」

 この夏の京都国際はエース左腕の中崎琉生が初戦の北海道・札幌日大戦(7対3)と3回戦の福岡・西日本短大付戦(4対0)で完投し、やはり2年生左腕の西村一毅が2回戦の新潟産大付戦(4対0)と準々決勝の奈良・智弁学園戦(4対0)と2戦連続で完封した。ふたりの左腕が交互に先発・完投することでチームは勢いづいてきた。

 そして準決勝・青森山田戦では西村が中崎を好リリーフして勝利を呼び込み、決勝・関東第一(東東京)戦では攻守に渡って大車輪の活躍を見せた。西村の覚醒――それは小牧をはじめ誰もが予想していなかったことだった。

(全3回の第2回。第3回に続く。文中敬称略)

■柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。2016年に『永遠のPL学園』で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。他の著書に『甲子園と令和の怪物』がある

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