Infoseek 楽天

《標高3000メートル密着ルポ》槍ヶ岳で医療ボランティアが支える“雲の上の診療所”、時代とともに変わる山頂のリアル「雪はどんどん減り、熱中症の登山客が……」「人手が足りず週末しか開所できない診療所も」

NEWSポストセブン 2024年9月6日 7時15分

 天を衝く槍の穂先のような頂から「槍」の名前を冠する槍ヶ岳(標高3180メートル)。長野県と岐阜県の境に位置する日本で5番目の高さの山で、その特徴的な形と簡単にはたどり着けない険しさから多くの登山家が憧れ、富士山に次ぐ人気を誇る山でもある。

 その山頂の100メートルほど下から、岩肌に取り付いて頂上に挑む登山客を見守る人たちの姿があった。槍ヶ岳山岳診療所の医療従事者たちだ。

 国内には富士山のほか、槍ヶ岳などがそびえる北アルプスを中心に約20か所の山岳診療所(夏山診療所)がある。その多くが大学病院等によって夏季限定で運営され、医師や看護師、また医学部の学生らによる無償のボランティアで成り立っている。

 その中でも数が限られる標高3000メートルを超える“雲の上の診療所”とは、どのような場所なのか。東京慈恵会医科大学が運営する槍ヶ岳診療所に密着取材した。

 8月上旬、記者は撮影機材などを含む約10キロの荷物を背負い、上高地(長野県松本市)を出発。中継地の「槍沢ロッヂ」(標高1820メートル)で一泊し、翌朝、「槍ヶ岳山荘」(標高3080メートル)に併設されている診療所を目指した。

 ロッヂを出てしばらくすると森林限界を超え、清々しい高山の景色が広がる。だが、日が昇るにつれ、遮るものがない登山道を厳しい日差しが容赦なく照り付ける。何度も休憩をはさみ、水分と行動食を補給しながら急勾配の岩稜帯を登り続け、5時間をかけて診療所に到着した──。

開設から74年、24時間対応の槍ヶ岳山岳診療所

 槍ヶ岳診療所は、戦後間もない1950年に「槍ヶ岳山荘」の協力を得て、慈恵医大山岳部によって開設され、今年で74年を迎えた。

 今季は7月21日から8月18日まで約1か月間開所され、慈恵医大付属病院や他の病院からのボランティアが交代しながら入所し、登山中に体調を崩したり、ケガを負ったりする人たちの救護を担っている。現地での対応が難しい症状の場合は、都内の慈恵医大付属病院にリモートで指示を仰ぐほか、警察などと連携してヘリコプターによる救助要請をすることもある。

 取材時は、前日に入所した国際山岳医の鹿野颯太医師、慈恵医大山岳部の学生2人と、この日登ってきた看護師2人による計5人の体制が敷かれていた。彼らは診察室と8畳ほどの居室からなる診療所に寝泊まりし、食事は山荘から無償で提供を受け、手が空いている時は山荘の手伝いもしながら24時間で対応する。記者も診療所で寝食を共にしながら3日間取材した。

 この日の午前中までに、不調を訴える登山客7人を診察した鹿野医師は苦笑いを浮かべながら語る。

「高山病や熱中症とみられる方、山頂から降りる際に転倒して軽い外傷を負った方などを治療しました。どなたも大事には至らず、本当によかったです。

 高山病とみられるうちの一人は小学生くらいのお子さんでした。シャイな性格なのか、何を聞いても首を横に振るか、うなずくだけで問診が大変で……。その子は翌朝4時にもう一度診察し、無事に下山していきました。想定外のことが起きてしまうのが山ですが、こうしたケースは予想していませんでしたね」

 幸いにも午後から翌々日までの患者はゼロ。天候にも恵まれ、落ち着いた時間が続いた。

 こうした空き時間には、医療従事者たちはパトロール中の山岳遭難救助隊の隊員らと共に登山客に声をかけて体調を確認するほか、診療所の屋根の上で布団を干し、山荘名物のプリンを食べて休憩することもあった。そして、夕方になると山荘の厨房やバックヤードを手伝い、宿泊客の食事の後で山荘のスタッフと一緒に夕食をとる。

 1年ぶりに再会する旧知の山荘スタッフとのおしゃべりも欠かせない楽しみのひとつだ。そして、日中は天候と時間によって刻々と変化する槍ヶ岳の雄大な姿を、夜は静寂に包まれた満天の星空を眺める。ボランティアの彼らにとって、山を愛する仲間との時間と絶景が唯一の報酬なのだ。

近年は熱中症患者が急増「低体温症は減ったが、温暖化の影響が出ている」

 一方で、令和の山岳医療の現場では、昭和・平成とは異なる変化も起きている。20年近く槍ヶ岳診療所のボランティアを続けている看護師が話す。

「標高1000メートルを超えるごとに気温は6度下がると言われますが、昔と比べて低体温症で運び込まれる患者さんは少なくなりました。防水・透湿性、速乾性に優れたウェアの普及によって低体温症に陥る人が減ったことが大きいと思います。逆に近年は熱中症になる人が増えている印象です」

「槍ヶ岳山荘」の社長を務める穂刈大輔もまた「悪天候で低体温症になるケースはありますが、ここ数年は例年より気温が高く、熱中症になるお客さんが増えています。夏の雪渓の面積もどんどん減っていますし、温暖化の影響が出ていると思います」と懸念していた。

 さらに山岳診療所が抱える、ある“課題”についてもこう語る。

「山岳診療所の中には勤務医を派遣してもらっている所もありますが、ほとんどの場合がボランティア頼みです。人手が足りず、週末しか開所できない所もあると聞きます。そんな中、槍ヶ岳診療所はボランティアにもかかわらず、手厚い体制でよくやってくれています。

 槍ヶ岳診療所のありがたみを特に感じたのが、2020年のコロナ禍でした。当時は近隣の他の山小屋や山岳診療所はすべて閉鎖していましたが、慈恵医大の槍ヶ岳診療所だけは感染症対策をしながら開所してくれました。槍ヶ岳は北アルプスの登山道の交差点でもあるので、この山荘と診療所がないと無理をする登山客が後を絶たないのです。山荘で発熱した登山客を隔離しなければならないケースもあり、一番相談したい時に身近に医療従事者がいてくれたのは本当に心強かった」(前出・穂刈社長)

 この夏の約1か月間の開所中、槍ヶ岳診療所は数十人を救護した。登山客でにぎわう9月14日から16日のシルバーウィークにも再び医療従事者が入所し、診療と閉所作業を行い、今年の業務を終了する予定だ。

 高山では、誰もが体調を崩し、負傷する可能性がある。しかし、そのリスクを理解したうえで、見てもらいたい景色がある。だからこそ、登山の愛好家でもある医療従事者たちは、無償で山岳診療所を支え続けている。

<取材・文・撮影/中野龍>

【プロフィール】中野 龍(なかの・りょう)/フリーランスライター・ジャーナリスト。1980年生まれ。東京都出身。毎日新聞学生記者、化学工業日報記者などを経て、2012年からフリーランス。新聞や週刊誌で著名人インタビューを担当するほか、社会、ビジネスなど多分野の記事を執筆。公立高校・中学校で1年2カ月間、社会科教諭(臨時的任用教員)・講師として勤務した経験をもつ。

この記事の関連ニュース