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【逆説の日本史】多くの歴史書に書かれていない張作霖とバボージャブの「因縁」

NEWSポストセブン 2024年9月11日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その6」をお届けする(第1429回)。

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 モンゴル史に触れるにあたって先に「モンゴル人に姓は無い」と書いたところ、読者から反論というか質問があった。元横綱の朝青龍の本名は、ドルゴルスレン・ダグワドルジというらしいが、これは「姓と名」ではないのか、ということだ。たしかに彼の本名はダグワドルジだが、ドルゴルスレンというのは姓では無く父親の名前だ。つまり、現在は父親の名前の後に自分の名前を記し「姓名」のようにするという習慣ができているのだが、いま問題にしている大正初期にはそんな習慣は無かった。だからバボージャブはただのバボージャブであり、念のためだがチンギス・ハンの「ハン」も称号である。

 さて、そのバボージャブだが、悲劇の英雄と言っていいだろう。勇気もあり統率力もあるから、荒くれ者揃いの馬賊集団のなかでリーダーになれた。愛国心いや愛民族心と言ったほうがいいが、まさにチンギス・ハン以来の「モンゴル民族大統一」の理想を抱き、その道をまっしぐらに進んだ。彼にとってモンゴル族、それも自分の生まれた内モンゴルを弾圧と懐柔で支配してきた満洲族の清朝が滅んだことは、まさに大統一への絶好のチャンスだった。

「敵の敵は味方」という言葉がある。バボージャブにとって、清朝に代わって内モンゴルの支配を継続しようとしている中華民国、いや袁世凱の中華帝国は最大の敵であり、大隈内閣のもと「排袁(袁世凱打倒)」を国是として決定した大日本帝国は、最大の味方となった。

 ところが、バボージャブの理想にとっての最初の躓きは、前回述べたように彼が馳せ参じたボグド・ハーン政権が中華民国およびロシア帝国とキャフタ協定を結び、外モンゴルの自治権獲得だけで満足して矛を収めてしまったことだった。それでも、「独立軍」となったバボージャブを日本は引き続き支援した。むしろ、日本にとってはボグド・ハーン政権の「紐付き」で無くなったことは「使い勝手」がよくなり、利用価値が高まったとすら言える。

 ところで、満洲は清朝時代の行政区画で言えば東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)であったが、このうち奉天省を根拠地とし馬賊集団から地方軍閥の長に昇りつめた男がいた。名を張作霖という。『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』では、項目執筆者の倉橋正直が次のように紹介している。

〈中国の軍閥。字(あざな)は雨亭。奉天(ほうてん)省(現、遼寧(りょうねい)省)海城県の人。馬賊から身をおこし、日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍。のち清(しん)朝に帰順。辛亥(しんがい)革命のとき、奉天(現瀋陽 (しんよう))市内に入り警備にあたる。1916年、奉天将軍の段芝貴(だんしき)を追って督軍になる。1918年、東三省巡閲使、その後、黒竜江、吉林(きつりん)両省を支配下に収めて、東三省全体に君臨する奉天軍閥を形成した。(以下略)〉

 まだまだ記述は続くのだが、これから先は多くの人が知っているだろう。これより十年後の一九二八年(昭和3)、国民党の蒋介石に敗れた張作霖は満洲へ引き返したが、日本の関東軍参謀河本大作大佐の工作によって奉天駅付近で乗っていた列車を爆破され、殺害された。日本では真相を隠し「満洲某重大事件」と呼んだ。これで田中義一陸軍大将が首班であった内閣は崩壊したが、関東軍の首謀者は軍法会議にかけられることも無く、結局これが満洲事変そして日本による満洲国の建国につながった。

 ちなみに関東軍の名称にある「関東」とは、万里の長城の東端の山海関のさらに東の地域、具体的には満洲(東三省)を意味する。遊牧民であった満洲族が清朝を建てるまでここは「中華」では無く、長城の外側つまり「化外の地」であったが、清朝の成立によって中国の東北地方となり、三つの省が置かれたというわけだ。前出の百科事典では項目を次のように締めている。

〈張作霖は日本の後援を受けて軍閥として成長し、日本もまた彼を利用して東北に進出しようとした。その点で両者は互いに利用しあう関係にあった。しかし、彼が東北の枠を越えて全国的な規模の軍閥に成長すると、アメリカなどとのつながりが生まれ、かならずしも日本のいうことに従わなくなったのが、殺されたおもな理由であろう。〉

 そのとおりかもしれないが、多くの歴史書に張作霖は「爆殺事件(満洲某重大事件)」の被害者、そして満洲地域の軍閥の長として突然登場するような形で書かれている。実際はそんな単純なもので無いことは、おわかりだろう。組織でも人間でも一朝一夕には成り立たないし、当然その成立過程には多くのしがらみがある。

 たとえば、張作霖は日露戦争のときに一時はロシア側スパイとして動き、日本軍に捕らえられたことがある。スパイは直ちに処刑してかまわないというのが戦場のルールだが、彼はなぜか命を助けられた。日本軍のトップにいた児玉源太郎大将の計らいであり、これには若いころの田中義一中佐もかかわっていたという話もある。これが本当なら、張作霖にとって日本軍は「命の恩人」だったわけである。

 また、多くの歴史書で書かれた張作霖の経歴について一つ欠けている部分があるのだが、それはなにかというとバボージャブとのかかわりだ。バボージャブがボグド・ハーン政権と縁を切って独立勢力となった一九一六年(大正5)七月、日本から武器弾薬および食料の援助を受けたバボージャブ軍は内モンゴルから奉天をめざして南下し、これを迎え撃った張作霖軍と激戦して見事勝利を収め、吉林省の一角を占領したのである。

 このまま日本の援助が続けば強力なバボージャブ軍は袁世凱の手先である張作霖の妨害を払いのけ、大モンゴル統一に一歩も二歩も近付いたかもしれない。

 なぜ張作霖が袁世凱に味方したかと言えば、もちろん経済的利益もあるがやはり日本が対華二十一箇条を中華民国に突きつけたことが大きいだろう。前にも述べたように、このあまりにも強硬な要求は中国民衆を憤激させ結果的に袁世凱の権力を強化する結果を招いた。もっとも、それで民衆の支持を固めた袁世凱が調子に乗って皇帝になろうとしたために、多くの中国人が彼を見捨て日本の大隈内閣も「排袁」に転じたため、結果的にこのことはバボージャブには追い風となった。

 一方、張作霖は張作霖でいまさら革命勢力と手を組み袁世凱と対決するよりは、権力の座にある袁世凱にとりあえずは従う姿勢を見せておいたほうがよい、という判断を下したのである。

機銃掃射を浴び戦死

 ところで、日本が張作霖を爆殺しようとしたのは昭和三年が初めてでは無く、少なくともこれは二回目だったということをご存じだろうか? バボージャブ軍が奉天に向かう二か月前の五月に、三村豊予備役少尉率いる一隊が奉天駅頭で張作霖を待ち伏せし、馬車ごと爆殺しようとした。

 普通の場合、予備役は大佐などの佐官あるいは大尉あたりまで勤め上げた軍人がいったん現役から引退する(召集があれば即応する)ための制度だが、少尉で予備役とはきわめて珍しい。陸軍士官学校を出て少尉に任官して、すぐ軍人を辞めたということだ。もちろん辞めたのは戦争から離れるためでは無く、むしろ大陸浪人のグループに入って陸軍を側面から応援するためだっただろう。

 三村は川島浪速の推進する「満蒙独立運動」に深く共感していた。川島の「満蒙独立」は「内モンゴル独立」より「清朝復活」に力点を置いたものだ。大陸には清朝が滅亡した段階でその再興をめざす宗社党という秘密結社が誕生していたが、三村のグループはこの一団とも交流があった。一方、バボージャブは清朝が完全に復興し内モンゴルを支配し続けることは望んでいないが、日本にとっては「敵の敵」であり「味方」ということになる。

 関ヶ原の戦いに喩えれば、合戦が始まる前に敵の大将徳川家康を殺してしまえばいいという考え方と同じだが、三村グループはその目的で張作霖に爆弾テロを仕掛けたのである。まずは同志の一人がイスラムの過激派テロのように爆弾を体に巻き付け馬車に体当たりしたが、二台の馬車のうち体当たりしたほうには張は乗っていなかった。そこで三村自身が爆弾を投げつけたが狙いが外れ、これが三村自身の命を奪った。張はじつに好運だった。

 張作霖の好運は、バボージャブの不運でもある。それでもバボージャブは進軍し、張作霖軍を撃破して拠点を確保したうえで奉天まであと一歩の距離に迫った。戦はやってみなければわからないし、野戦と違って攻城戦では張作霖軍もむざむざやられはしなかったかもしれない。しかし、仮に張作霖が勝ったとしてもその勢力は相当に消耗するはずで、バボージャブにとっても日本にとっても邪魔な張作霖を排除する絶好のチャンスであった。それに、当初の約束では関東軍も部隊を派遣しバボージャブを支援することになっていた。

 ところが、なんと関東軍からバボージャブに「待った」がかかった。張作霖軍とは戦わず内モンゴルに引き揚げるように、という勧告があったのだ。なぜそんなことになったのか? これこそバボージャブにとって最大の不運と言うべきかもしれないが、その年の六月に袁世凱が病死したことで、日本政府の方針が一八〇度転換したのだ。

 選択肢としては、このままバボージャブ軍を全面的に支援し奉天を制圧しモンゴル独立の機運を高めるという道もあったはずだが、大隈内閣が選んだのは、袁世凱のあとに政権を引き継いだ黎元洪とさまざまな懸案を解決していくという、まったく逆の道であった。黎元洪は、袁世凱の死後すぐに中華民国大総統になった。この時点で袁世凱はすでに皇帝制を廃していたので、中華帝国は民国(共和国)に戻っていたのだ。

 バボージャブ軍がいかに精強とは言え、総数三千である。それにくらべれば、まさに「腐っても鯛」と言えば言い過ぎかもしれないが、大隈内閣の気分はそんなところであっただろう。黎元洪は漢民族の中華民国の代表なのである。

 ここで黎元洪(1864~1928)の経歴に簡単に触れておくと、もともと清国海軍の軍人で日清戦争では黄海海戦に参加したこともある。その後に革命派に転じ.その功績で孫文が中華民国臨時大総統に推戴されたときはその下で副総統を務め、大総統が袁世凱になった後も引き続き副総統を務めた。こう言えばおわかりのように、ナンバー2に徹し自分の主義主張を面に出さないタイプだった。袁世凱の帝政復活にも異を唱えずナンバー2の座にとどまっていたため、袁の病死で政権が転がり込んできた。大隈内閣は「ストロングマン」袁世凱より扱いやすいと見たのだろう。

 しかし、文字どおり「ハシゴを外された」形のバボージャブは怒り狂った。軍の意向を受けた川島浪速の説得でしぶしぶ内モンゴルに引き揚げることになったが、それを知った張作霖はここぞとばかり追撃した。この際、バボージャブ軍に決定的な打撃を与えようとしたのだ。そしてその目論見は成功した。内モンゴルの入口にある林西の攻防戦で、バボージャブは機銃掃射を浴びて戦死した。享年四十二だった。

 この状況だが、私は無謀な攻撃だったと思う。百戦錬磨の彼にしては相応しく無く、わざわざ機銃の的になりに行ったように見える。前途を悲観しての絶望的な突撃か、そこまでいかなくても日本軍の手のひら返しに激怒し、冷静さを欠いていたのかもしれない。いずれにせよ、絶対的なリーダーの死によってバボージャブ軍は解体・消滅した。

 日本人も彼の戦死に対して、なにかしらの後ろめたさを感じていたふしはある。彼の三人の遺児は、いずれも日本に引き取られ教育を受けたからだ。

 以前、川島浪速と粛親王善耆の深い交流を述べたとき、善耆の娘が川島の養女となり日本名「川島芳子」として活動したことを紹介した。そして人名事典から彼女の経歴について「バボージャブの次男ガンジュールジャブ(1903~1968)と結婚したがほどなく離婚」を引用した際、私が「川島芳子の夫となったバボージャブの次男ガンジュールジャブや父バボージャブのことも気になるかもしれないが、これは後ほど語らせていただく」と書いたことを覚えておられるだろうか。

 この一行の背景を解説するためには、これだけの紙数を必要とした。川島が手塩にかけて育てた芳子の婿になぜバボージャブの次男を選んだのか、川島にはバボージャブを見捨てたという後ろめたさがあり、一方ガンジュールジャブには養育してくれた恩はあるにせよ、父を見捨てた日本への憎しみがあったのだろう。だから結婚はうまくいかなかった。

 このバボージャブへの「手のひら返し」、じつは後で大きなツケになって回ってくる。

(第1430回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年9月20・27日号

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