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〔佐藤優×山口二郎〕岸田政権で進んだ「派閥の脱個性化」解散しても残る“派閥のようなもの”

NEWSポストセブン 2024年9月24日 11時14分

 自民党総裁選の火ぶたが切られ、岸田文雄政権がひっそりと幕を下ろそうとしている。新総裁を迎える前に、岸田政権とは何だったのか総括すべきではないか。佐藤優・元外務省主任分析官と山口二郎・法政大学教授が指摘する(共著『自民党の変質』祥伝社新書より抜粋。前後編の後編。前編から読む)。

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派閥の効用(佐藤)

 岸田さんが総理総裁になって、もっとも変わったのは、派閥のありようです。派閥の解散が決まる前から、すでに自民党の派閥は変質していたのです。派閥がなくなれば、総裁選も党内でのポピュリズム選挙になるでしょう。

 山口さんも言われたように、派閥には弊害ばかりでなく、効用もあります。

 一九九四年だったと記憶していますが、私がモスクワの日本大使館に勤務していた時、政治学者の佐藤誠三郎さん(東京大学名誉教授。大平正芳内閣[一九七八~一九八〇年]・中曽根康弘内閣[一九八二~一九八七年]のブレーンと言われる)が来訪され、当時の渡邉幸治大使と一緒に食事をしたことがあります。その席で、派閥や日本の政局が話題になり、渡邉大使は佐藤さんにこう尋ねたのです。

「橋本龍太郎さん(第八二~八三代首相)は、次の総理総裁になりますか?」
 佐藤さんは即答しました。
「本人以外の全員が反対するでしょう」

 私は、この言葉が非常に印象に残っています。当時の橋本さんは国民の人気は高かったですが、派閥の長ではありませんでした(二〇〇〇年に平成研の会長)。要するに──派閥の長になれないような人物は人間性に問題がある。そんな人が総裁選に出ても応援する人はいないよ──と、佐藤さんは言ったわけです。

 派閥とは、政党という中間団体のなかの第二次中間団体です。そこで日常的に他者と接することによって、個々の人間性、リーダーシップ、見識、国家観などがわかってくる。また、派閥の長になる人は、長たるべき素養を備えていることが多い。

 ですから、派閥内で政治家同士、切磋琢磨することは政治家にとって必ずしもマイナス面ばかりでなく、効用もあると思います。

派閥の脱個性化(山口)

 自民党の派閥は変質しました。岸田さんは、そのシンボルのような存在です。一言で表すと、「脱個性化」です。

 かつての派閥は、総理総裁になりたいボスが一族郎党を集めてつくった「軍団」でした。軍団を維持するには子分に配るカネが必要ですから、ボスには集金能力が求められました。この構図は「三角大福」=三木武夫(第六六代首相)・田中角栄(田中眞紀子元外相の父、第六四~六五代首相)・大平正芳・福田赳夫(福田康夫元首相の父、第六七代首相)や「安竹宮」=安倍晋太郎(安倍晋三元首相の父、中曽根内閣で外務大臣)・竹下登・宮澤喜一、そして渡辺美智雄さん(宮澤内閣で副首相・外務大臣)くらいまで存続しました。

 今は、このような「上から下へ」のカネの流れ・配分ではありません。政治資金パーティ券を売りさばき、上納させるのですから、マルチビジネスのようです。軍団としての派閥は崩壊しました。特に小泉政権以降、派閥は意味を失っていきました。

 佐藤さんから橋本龍太郎さんの話が出たので、当時の政局を確認しておきましょう。

 一九九五年九月二二日の自民党総裁選では、一九九三年から総裁だった河野洋平さん(河野太郎デジタル相の父)が立候補を断念。小渕派(現・平成研)が橋本さんを担いで総裁にしました。河野さんは自社さ連立政権で副首相・外務大臣、橋本さんは通産大臣(通商産業大臣、現・経済産業大臣)です。

 一九九三年から一九九六年にかけて、日本の政局は激しく流動化しました。まず一九九三年八月、不信任案を受けた宮澤喜一内閣が退陣し、日本新党代表の細川護熙さん(第七九代首相)を首班とする連立政権(日本新党、社会党、新生党、公明党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合)が発足します。五五年体制を築いた自民党は、三八年ぶりに野党になりました。

 しかし細川内閣は、わずか一〇カ月後の一九九四年四月に総辞職。次いで新生党党首の羽田孜さんが第八〇代首相に指名されて組閣しますが、社会党(一九九六年一月から社会民主党=社民党)が連立から離脱したことで、こちらも二カ月あまりで退陣(六月三〇日)しました。そして誕生したのが、前述の自民党、社会党、新党さきがけによる、自社さ連立政権です。首相(第八一代)には社会党委員長の村山富市さんが就きました。村山内閣の発足で、自民党は政権与党に戻ります。

 村山内閣では、「主要閣僚を自民党から出してもらわなければ政権を維持できない」という判断が働きました。そこで、河野さんが外務大臣、橋本さんが通産大臣になったのです。他に自民党からは、前田勲男さん(法務大臣)、与謝野馨さん(文部大臣)、大河原太一郎さん(農林水産大臣)、亀井静香さん(運輸大臣)、野中広務さん(自治大臣)らが入閣しました。

 ところが、その村山さんも、首相就任から一年半で内閣総辞職を表明します(一九九六年一月五日)。この時の記者会見で、村山さんは次のようなことを述べました。

「ある意味では、事件や事故に追いまくられてきた一年でもあったというふうに言っても過言でないような年であったと私は思います」

 村山さんの言う「事件や事故」とは、阪神・淡路大震災(一九九五年一月一七日)、オウム真理教による地下鉄サリン事件(同三月二〇日)、沖縄県でのアメリカ海兵隊員による少女暴行事件(同九月四日)、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故(同一二月八日)などを指します。

 こうした危機対応の不備だけが退陣の理由ではありませんが、いずれにせよ村山さんは政権を放り出し、「じゃあ、次は橋本で」と自社さ三党が協議し、自民党総裁の橋本さんを首班とする政権ができたのです。流動化する政局のなかで、国民受けする人、テレビ映りのいい人を総理総裁にしようとする自民党の思惑がありました。すなわちポピュリズムです。本来の自民党のルールではありえないことでした。

 小泉純一郎さんは、その延長線上にいます。二〇〇〇年四月、小渕恵三さんが脳梗塞で倒れると森喜朗さんが首相になりましたが、あまりにも不人気で支持率は八・六%(「読売新聞」世論調査)にまで落ち込みました。だから国民的人気があり、田中眞紀子さんの大衆扇動的とも言うべき応援演説も受けた小泉さんが首相に選ばれたのだと思います。

 以上の文脈から言えるのは、派閥を固めて仲間を増やし、他派閥とも交渉しながら同盟を組んで総裁選に臨むという自民党内の典型的な戦い方は、二〇世紀の終わりとともに終焉したのです。一九九八年七月二四日の総裁選で小渕さん、小泉さん、梶山静六さんの三人が熾烈な戦いを繰り広げましたが、それが最後だったでしょう。

 個々の政治家から見れば、数百人の議員が集まる自民党にあって、いきなり「おまえ一人で何かやれ」と命じられても困ります。やはり適当なサイズの中間集団すなわち派閥に所属する必要があるわけです。そして副大臣、党副幹事長、国会対策委員会委員長代理などのポストを回してもらい、政治家としての勉強をする。だから派閥には、学校における学級のような機能があります。

 ただ「学級」に所属して、ポストを与えてもらったり、選挙の時に有名人に応援に来てもらったりするためには、当然その対価を支払わなければなりません。それが二一世紀になって始まったと言われる、パーティ券収入の上納システムに繫がったのでしょう。

 岸田さんは、宏池会という学級の委員長ではありましたが、いきなり生徒会長になってしまいました。とはいえ、「軍団」のボスが「大親分」になったわけではありません。前述したとおり、派閥という軍団の個性が失われた「脱個性化」のシンボルです。

 今の派閥は、二つの面──政治闘争と、政策思想・理念において個性がありません。さらに言うなら「軽質化」です。ライトになりました。各派閥が解散の方針を表明しましたが、それでもライトな“派閥のようなもの”は残るでしょう。

【プロフィール】
◆佐藤優(さとう・まさる) /1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館書記官、国際情報局主任分析官などを経て現職。著書に『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞)、『知性とは何か』など。

◆山口二郎(やまぐち・じろう)/1958年生まれ。法政大学法学部教授。東京大学法学部卒業。北海道大学法学部教授、オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ客員研究員などを経て現職。専門は行政学、現代日本政治論。著書に『民主主義は終わるのか』、『政権交代とは何だったのか』など。

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