Infoseek 楽天

【『内村プロデュース』が19年ぶり復活】内村光良の「静かな革命」 デビュー当時を知る共演者が明かしたコント王の原点

NEWSポストセブン 2024年9月28日 16時15分

 ウッチャンナンチャンの内村光良(60)は、コント師として一線に立ち続け、今も多くの芸人仲間や後輩から慕われる存在だ。還暦を迎えた今年は、19年ぶりにかつての冠番組『内村プロデュース』(テレビ朝日系=9月28日放送)が特番で復活し、錚々たる芸人が出演して祝福した。なぜ内村は今日の地位を築くことができたのか。その源流をノンフィクションライターの中村計氏がレポートする。(文中敬称略)

「ライター貸してくれる?」

 常に百円ライターを2つ持ち歩いている。そんな妙な癖がついてしまったのはウッチャンナンチャンの内村のせいだと話すのは、後輩の漫才師・笑組のゆたかだ。

 1986年から毎月1度、渋谷で開催されている若手の修行の舞台「ラ・ママ新人コント大会」の楽屋での出来事だ。ラ・ママの楽屋は中央に大きな机があり、その机を取り囲むように四方の壁際に椅子が並んでいた。ゆたかと内村はもっとも隣接する一辺の端っこの椅子にそれぞれが腰掛けていた。斜めすぐ前に互いを感じる距離だ。

 笑組は2005年までウンナンと同じマセキ芸能社に所属していた。ゆたかは内村の相方である南原清隆とは頻繁にコミュニケーションを取っていたものの、内村に自分から話しかけたことは一度もないと話す。

「内村さんはみんながいても1人で大人しくしていることの方が多かった。怖いわけではないんですけど、近寄りがたい雰囲気はありましたね」

 ゆたかは内村と言葉を交わした記憶は数回しかない。そのうちの1回が、ラ・ママの楽屋でたまたま隣り合わせになったときだった。ゆたかは仲間内では「ゆた」と呼ばれている。

「ゆた、ライター貸してくれる?」

 ゆたかは慌ててライターを取り出し、内村の顔の前で火を点そうとした。しかし内村に制され、代わりに差し出された手のひらの上にライターを置いた。すると内村はタバコに火をつけ、何事もなかったかのようにライターを自分のシャツの胸ポケットに収めた。ゆたかが回想する。

「ネタのことを考えていたんでしょうね。頭がいっぱいだったんだと思います。返してくれとも言えないじゃないですか。百円ライターでしたし。ただ、それ以降、何が起こるかわからないと思って、いつでもライターを2つ持ち歩くようになっちゃったんです」

芝居のセンスで勝負

 1985年にプロデビューを果たしたウンナンは、センス溢れる斬新なコントで瞬く間に若者のハートをつかんだ。そして、数年後には「西のダウンタウン、東のウンナン」と称されるほどの人気者となる。

 コンビの頭脳である内村はこれまでいくつもの冠番組を持ち、自らネタを披露するだけでなく、他の芸人をプロデュースする役割も果たした。また、時に映画監督としてメガホンを取り、2017年から2020年にかけては紅白歌合戦の総合司会も務めた。お笑いタレントとしてひとつの頂に立ったと言っていいだろう。

 だが、並び称されるダウンタウンがいかにも芸人らしい数々の豪快な伝説をもって語られるのに対し、内村に関するその類いの逸話は実に地味で控え目だ。

 バラエティー番組の金字塔『笑っていいとも!』を立ち上げたディレクターとして知られる放送作家の永峰明は『冗談画報』や『笑いの殿堂』などのネタ番組でウンナンの新たな魅力を掘り起こした。その永峰は内村の特異性をこう話す。

「内村は人間的にはごく普通なんで。芸人というより、芝居系の人なんですよ。酒もそんなに好きじゃないけど、そういう場で仕事の話をするのは好き。南原は有名になって女にモテたいみたいのもあったと思うんですけど内村はそれもない。何よりも芝居を、コントを作りたい人なんです。だから、飲みに行くのでもそういう系の店には行ったことがないですね」

 そういう系とは、つまり女の子がいる店のことだ。永峰が続ける。

「笑組は浅草芸人の流れを汲んでいますけど、この頃、東京のお笑いの世界でそうじゃない人たちが出始めた。それが内村みたいな演劇系の人たちだったんです。出川(哲朗)らと『劇団SHA・LA・LA』もやっていましたしね。芸人のセンスじゃなくて、芝居のセンスで勝負する人たち。芸人は素がベースだけど、芝居系の人たちは演技がベースにある」

 その頃の演劇界は新劇と呼ばれる難解なものに取って代わり喜劇性の高いものが主流になりつつあった。柄本明が座長を務める劇団東京乾電池や、佐藤B作が主宰する劇団東京ヴォードヴィルショーなどもそうだ。

「お笑い」と演劇が接近し、コントに出演することは芝居の勉強にもなった。1987年に劇団内でSET隊というコントグループを組み、そこから役者として成功を収めた岸谷五朗や寺脇康文などは新ルートの代表格だ。

 内村と南原は高校卒業後、1983年に横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に入学している。内村は映画監督、南原は役者を目指していた。学校には漫才の授業があり、そこで2人は初めてコンビを組んだ。その際、講師を務めていた名漫才コンビ、内海桂子・好江の好江に才能を見いだされ、同コンビが籍を置くマセキ芸能社に入ったのだ。

 ウンナンは笑組と同じく好江の「弟子」と紹介されることがあるが、ウンナンの場合はあくまで形式上のことだった。当時、好江のカバン持ちをしていたゆたかの相方、かずおが思い出す。

「ウンナンさんは最初、お笑いなんてやりたくなかったと思いますよ。2人は名前を売るためにコントをやるんだと話していましたから。南原さんは師匠のお茶汲みやカバン持ちをやらされるのなら、事務所を辞めるって言ってたぐらいですし」

 ゆたかも南原に「(自分のことを)兄弟子とは言わないでくれ」と釘を刺されたことがある。

「内村さんは何にも言わなかったですけど、内心は同じだったと思います。でも、弟子にならなくてよかったですよ。伝統やら作法やらを叩き込まれたら、あれだけ自由な発想のコントは生まれてないですから。内村さんは化粧もやらないし、衣装も用意しない。セットも簡単なものだけ。芝居の人からしたら横着しているように思われる。でも、それがオシャレに見えたし、コントをやろうとする人たちのハードルをぐっと下げた。裏方さんの仕事も楽になりましたしね。革命だったと思いますよ」

女性ファンに「しーっ!」

 かずおはウンナンの代表作『日比谷線 vs銀座線』を観たときの衝撃をこう振り返る。

「日比谷線と銀座線を人間に置き換えて、互いに罵り合ったり、不平や不満を漏らすんですけど、こんな切り口があったんだ、って。周りの芸人たちも『やられた……』って言ってましたけど、内村さんじゃなきゃ絶対に作れないと思いますよ」

 ゆたかは、内村のこんな仕草を目撃したことがある。

「ウンナンさんが出てくると女の子たちがちょっとしたことでも大笑いしちゃうんです。でも、笑いが収まらないと、次のシーンにいけないじゃないですか。なので、内村さんが客席に向かって『しーっ』ってやったんです。あんなことやる人、初めて見ましたね」

 そのあたりも内村が作り手だったことの証左だろう。

ショートコントを発明

 草創期のウンナンの歴史を紐解くとき、運命的な出会いとして必ず語られるのが音楽グループのジャドーズだ。彼らは音楽の合間に短いネタを披露した。紙を切る音などの音芸や、物真似を披露し、その間を「ジャジャジャジャ、ジャジャジャジャジャ」と口ずさむことでつなぐ。今日ではブリッジと呼ばれるようになった手法だ。彼らのショートネタの影響を受け、ウンナンは「ショートコント、○○」というやり方を始めた。この発明が時代を動かした。永峰が語る。

「それまでも似たような短いコントや漫才はあった。けど、あそこまで自覚的にやったのは彼らが最初でした。あの形が当時のテレビにはまった。ショートコントをやり始めてからは一気に売れていきましたね」

 ウンナンと同期で、数々のテレビやライブで共演したお笑いコンビのうちの1組にピンクの電話がいる。ぽっちゃり体型の竹内都子と、甲高い声とすらりとした体型が印象的な清水よし子からなる凸凹コンビだ。

 2人も、もともとは役者志望だったという。竹内が思い出す。

「うちの事務所の石井光三社長に『あんたらな、一生懸命芝居をやってもひとつセリフをもらうのに10年かかるで。でもコントで売れたら、6分間は主役をできるんや』と言われて。そうかと思ったんです。その頃のテレビのネタ時間は6分だったんで。けど、ウンナンさんが売れ出してからはどんどん短くなって、3分とか1分になっていった。みんなショートコントをやっていましたね」

 清水はショートコントの強みをこう説明する。

「長いネタだと笑わせるまでに時間がかかるんです。でもショートだと、すぐに笑いが来る。お客さんも、ずっと笑っていられるじゃないですか。だから、おいしかったんだと思います」

 ちなみに2人の内村の印象は笑組とはずいぶんと異なる。竹内は言う。

「内村さんは人混みの中でも誰にも気づかれないそうです。昔から『おれはオーラ消しが得意なんだ』と話していて。売れてくると、どうしてもオーラが出てくるものじゃないですか。でも、それを消せるそうです」

 清水の中の内村も庶民派だ。

「偉ぶった感じのまったくない方でしたよ。コンビニが大好きで、たこ焼きとかおにぎりを買って食べるのがお好きでした。コンビニのネタもたくさんありますもんね。私は南原さんの方がメイク室とかで一緒になると、ちょっと緊張しちゃう感じがありました」

 内村はネタに関しては求道者的なイメージもあるが、こんな一面もあったという。清水の証言だ。

「みんな行き詰まって、夜中に『どうする?』みたいになってくると、内村さんがスパッと『ダメ、ダメ。これ以上考えてもいいアイディアは浮かばないから。解散!』って。で、次の日、ちゃんとでき上がるんです」

 内村とピンクの電話はもう20年以上、会っていないそうだ。清水がポツリとこぼす。

「一緒にやっていた頃は仲間っていう感じでしたけど、今はすごい遠いところに行っちゃった人みたいな……。今、ここに内村さんが現われたら緊張しちゃうかな」

 内村は「東の」ではなく「日本の」になった。

【プロフィール】
中村 計(なかむら・けい)/1973年、千葉県生まれ。ノンフィクションライター。著書に『甲子園が割れた日』『勝ち過ぎた監督』『笑い神 M-1、その純情と狂気』など。スポーツからお笑いまで幅広い取材を行なう。近著に『落語の人、春風亭一之輔』と、共著『高校野球と人権』。

※週刊ポスト2024年10月11日号

この記事の関連ニュース