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【逆説の日本史】「ビリケン内閣」成立の大正五年に起きた「注目すべき事件」とは?

NEWSポストセブン 2024年10月3日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その8」をお届けする(第1431回)。

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 モンゴルも含めた対中国政策の失敗と総括していいだろうが、その責任を問われて大隈重信首相は退陣に追い込まれた。一九一六年(大正5)十月四日のことである。辞表を提出した大隈は、前にも述べたように政党政治そして英米協調路線の後継者として加藤高明を後継に推したのだが、「対華二十一箇条」を袁世凱に突きつけたときの責任者(当時外相)としてその政治手腕を疑問視する傾向が強く、政党政治を推進する姿勢を見せていた元老西園寺公望の支持さえ得られなかった。

 代わって、その日のうちに長州閥の後継者である陸軍大将寺内正毅に大命が降下した。長州閥の頂点に立つ元老山県有朋が推薦したのが大きいが、すんなり決まったのは西園寺もしぶしぶ賛成したからだ。「政党政治の有力な後継者はいない」というのが、西園寺の苦々しい思いだったろう。寺内内閣は政党政治を軽視した超然内閣の復活であり、山県は喜んだに違いないが。

 思い出して欲しい。大正元年に吹き荒れ、長州閥の直系だった桂太郎内閣を倒した護憲運動のスローガンは「閥族打破憲政擁護」だったのに、時計の針はそこまで戻ってしまったのだ。その点は、西園寺だけで無く政党政治の後継者と目されていた加藤高明や犬養毅や原敬らも感じていたはずである。

 思い出して欲しいと言えば、司馬遼太郎が寺内正毅を強く批判していた(『逆説の日本史 第26巻 明治激闘編』参照)ことも、だ。あのときも紹介したが、寺内は「重箱の隅をつつくような細かいところがあり、官僚タイプの軍人」(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊)であった。そして、このようなやり方で元老伊藤博文が亡くなった後の韓国統治を、第三代韓国統監として「つつがなく」やり遂げたと評価されたのである。

 韓国併合とは、韓国側にもそれを望む勢力があったことは『逆説の日本史 第二十七巻 明治終焉編』に詳しく述べたところだが、それもあって初代韓国統監でもあった伊藤博文は強引な併合は望まず、韓国の自治権を広く認めていこうという考えの持ち主であった。しかし、その伊藤が韓国人の安重根に暗殺されたことによって「やはり韓国人は愚かだ。一から叩き直すしかない」と考えていた強硬派が勢いづいてしまい、桂太郎首相と寺内正毅統監のコンビが韓国人の強い反感を買うような「弾圧的近代化」を進めることになってしまった。

 もっとも、このころになると頑迷固陋な韓国人の保守派も、近代化自体は認めざるを得なくなった。わかりやすく言えば「火縄銃ではライフルに勝てない」ということだが、朱子学という亡国の哲学によって日本ですらこの当然の事実を認めるのに長い時間がかかったことは幕末史のところで何度も説明したが、曲がりなりにも近代化に成功した日本が日清戦争、日露戦争に勝つことによって世界の列強に伍する国家になったことを見て、韓国人も日本に頼るしかないという考えに傾いたということだ。

 しかし、そうは言っても韓国人のプライドを尊重していた伊藤博文では無く、「重箱の隅をつつく」寺内正毅が併合事業を進めたことによって、後で大きなツケが回ってくることにもなった。このツケについてはいずれ述べるが、この大正五年時点での寺内への評価は、「単なる軍人では無く、朝鮮統治もなんとかこなした。政治家の才能もあるのではないか」ということだった。大隈の、とくに大陸政策が「軟弱」だと批判を浴びたこともあり、「強引」な寺内にお鉢が回ってきたのである。

 もっとも政党内閣では無いので、寺内の容姿がアメリカのビリケン人形に似ていることもあって寺内内閣はビリケン内閣と揶揄された。「非立憲(びりけん)」ということだ。

 さて、この年、注目すべき事件がいくつかあったのでそれに触れておこう。まず、日本において社会主義が徐々に浸透してきたことを示す二つの出来事で、一つは寺内内閣成立のちょうど一か月ほど前の九月に、河上肇が『大阪朝日新聞』に『貧乏物語』の連載を始めたことである。

 河上肇は一八七九年(明治12)、山口県岩国に生まれ、東京帝国大学を卒業した。当初は理科系の講師として活動していたが次第に経済学に関心が移り、マルクス経済学の強い影響を受けた。出世作となった『貧乏物語』は資本主義社会が必然的に生み出す格差と貧困の問題を追究したものだが、このあと河上は最終的にこの問題を解決するにはマルクス主義しか無いと思い定め、日本共産党に入党し共産主義者として活動。治安維持法違反で投獄されたが転向はせず、一九四六年(昭和21)に病死した。共産主義あるいは社会主義の活動家は、一般人から見ると近寄りがたい雰囲気があったのは事実だが、河上はそうした人々の警戒感を解き社会主義思想の普及におおいに尽くした。

 ちなみに、『朝日新聞』はそもそも一八七九年(明治12)に大阪で創刊された。その後一八八八年(明治21)に東京にも進出し、その新聞は『東京朝日新聞』と銘打たれたが、大阪で発行される新聞はその後もしばらく『朝日新聞』のままだった。「こちらが本家」という意識だろうか、しかし一八八九年(明治22)に「本家」も『大阪朝日新聞』と改称した。

 昔は交通も通信もいまよりはるかに便が悪く、いまではあたり前の全国紙(第一面が東京でも大阪でも同じ)とすることが非常に難しかった。メールどころかファクスも無い。電信と電話という大量に情報を送るには不向きな手段しか無かった。そのため、東京と大阪では「編集が違う」ということを明示する必要があったのだろう。

人類史を変えた重大事件

 河上肇が『貧乏物語』の連載を始めた大正五年九月には、日蔭茶屋事件が起きた。これは登場人物の大杉栄、伊藤野枝、神近市子の来歴がわからないと理解できないので、まずはそれを簡単に紹介しよう。

〈おおすぎ-さかえ〔おほすぎ-〕【大杉栄】
[1885-1923]社会運動家。香川の生まれ。東京外国語学校在学中から平民社に参加。第一次大戦後、無政府主義運動を進めた。関東大震災直後、妻伊藤野枝、甥とともに憲兵大尉甘粕正彦に虐殺された。著「自叙伝」。

いとう-のえ【伊藤野枝】
[1895-1923]婦人運動家。福岡の生まれ。平塚らいてうらの青鞜社に加わり、婦人解放運動に参加。大杉栄と結婚し、夫とともにアナーキズム運動に従事。大正12年(1923)の関東大震災直後、憲兵の甘粕(あまかす)大尉に夫らとともに殺された。〉
(以上、いずれも『デジタル大辞泉』小学館)

〈神近市子 かみちか-いちこ 1888-1981
大正-昭和時代の女性運動家、政治家。
明治21年6月6日生まれ。女子英学塾(現津田塾大)在学中に青鞜社に参加し、大正3年東京日日新聞記者となる。5年恋愛関係のもつれから大杉栄を刺傷、服役。のち「女人芸術」などで文筆・評論活動をおこなう。昭和28年衆議院議員(当選5回、社会党)。売春防止法の成立に尽力した。昭和56年8月1日死去。93歳。長崎県出身。本名はイチ。〉
(『日本人名大事典』講談社刊)

 神近市子の経歴のなかに「5年恋愛関係のもつれから大杉栄を刺傷」とあるのが、日蔭茶屋事件のことだ。そもそも大杉栄は、社会主義をとおり越して無政府主義までいってしまった人物だから、既成のモラルに束縛されることをおおいに嫌っており、しかもいわゆるイケメンだった。そして、伊藤も神近もともに青鞜社に参加するぐらいだから「新しき女」であり、恋愛至上主義者だった。

 大杉は既婚者だったが、離婚しないまま人妻の伊藤野枝と日蔭茶屋つまり当時のラブホテルで逢瀬を重ねていた。いわゆる「ダブル不倫」だったのだが、問題は大杉が神近にも手を出していたことだ。つまり、三角ならぬ「四角関係」ということで、嫉妬に狂った神近が日蔭茶屋に乗り込んだのである。

 神近は、大杉では無く野枝を殺すつもりだったようだが果たせず、結局大杉に重傷を負わせて逮捕され実刑判決を受け服役した。その後の経歴は事典にあるとおりだ。戦後のことだが、この話を「モデル」に映画も作られた。

『エロス+虐殺』(監督・吉田喜重、主演・岡田茉莉子、細川俊之)で、この作品は建前としてはフィクションなのだが、当時「名士」だった神近はこの映画の公開にあたり、自身の名誉権とプライバシー権の侵害を理由に上映の差し止めを求めて提訴したが、「神近市子の日蔭茶屋事件を扱った映画『エロス+虐殺』のばあいは、素材となった事実が世上公知であり、映画化に当たって低劣不当な意図はないとして、神近市子氏の映画の上映禁止の請求を退けている」(『日本近代文学大事典』講談社刊)。

 つまり、ひと昔前までは、これは「誰でも知っている」事件だったのである。

 この事件、詳しい場所と人名を伏せて、つい最近あった事件だと記述しても誰もが信じるに違いない。そこが明治と大正の違いでもあり、明治時代にはこんな事件は考えられなかった。やはり時代は前に進んでいるのだ。もちろんこういう感覚は明治、大正、昭和といった元号と関連性がある。

 単純に西暦だけを記すやり方は、日本史、とくに近現代史の記述にはそぐわないと私は考えている。第一それでは、大正デモクラシーとか昭和維新とかいった言葉がきわめてわかりにくくなってしまうではないか。やはり、日本史の記述には元号併記が不可欠なのである。

 ところで、もう一つの重要な出来事とは、物理学者のアルバート・アインシュタインが一般相対性理論を発表したことだ。アインシュタインは、すでにこの十一年前に特殊相対性理論を発表しており、世界で一番有名な公式「E=mc2」もそれで知られるようになり、この一般相対性理論によってこれが全人類の常識となった。これは世界史、いや人類史を変えた重大事件なのだが、日本の歴史学界は視野が狭いうえに理科系の話はとくに苦手(笑)なようで、こんな重大なことの意味がさっぱりわかっていない。わかっていたら、私のようにそれを重大事件として解説するはずなのだが。批判ばかりしていても仕方が無いので、解説しよう。

 たとえば、蒸気機関という「エンジン」がある。これはいまでこそ時代遅れだが、発明された当時は歴史を変えた。陸上では蒸気機関車が、海上では蒸気船が稼働するようになり、日本人が黒船と呼んだ蒸気船が明治維新を引き起こしたことはすでに述べたとおりだ。そして、歴史を語る者は必ずしも蒸気機関の原理やメカニズムをすべて理解する必要は無い。すべてを理解するのはエンジニアの役割であり、歴史を語る者はその性能ともたらす効果を認識すればいい。たとえば「蒸気機関のパワーは巨大で、木造帆船では不可能であった重砲の搭載や金属装甲が可能だった」とか「木造帆船のように風待ちをする必要が無いので、年間を通じて運航できた」などである。

 では、アインシュタインの相対性理論がもたらしたE=mc2は人類になにを認識させたのか? Eはエネルギー、mは質量、cは光速を示す。質量とは簡単に言えば「物の重さ」のことで、金属の銅や鉄などを1g、1kgなどとキログラム単位で表現する。つまりこの公式は、質量を持つ物質がエネルギーと等しい、エネルギーと物質は究極には「同じもの」であるということを示しているのである。

 これだけでも物理学の常識を変える大発見だったのだが、さらなる大発見はそれら(質量とエネルギー)がまったく関係無いように見える光速(光のスピード)と、このような等式関係にあることを示したことである。

 ここで、高校あたりで習ったはずの初歩の数学を思い出していただきたい。等式は左右に同じ演算を加えても等式関係は維持される。たとえば、5X=20という等式があれば、両辺を5で割ってX=4という形でXの「量」を知ることができる。では、E=mc2からmつまり質量(物質)とはなんであるかを導くには、どうしたらいいか? 両辺をc2で割ればいい。すると、E/c2=mになる。左右入れ替えてm=E/c2としようか。この公式がなにを示しているか、おわかりだろうか。

 c2とは宇宙で一番速いスピードの二乗である。とてつもなく巨大な数字だ。そして分数というのは、1/10よりも1/100が、 1/100より1/1000が小さい。分母が巨大になればなるほど実体は「小さく」なる。つまり、物質というのは見かけは小さくても秘めているエネルギーは膨大だということだ。SF小説の世界では何十年も前から「角砂糖一個分の銅でもすべてをエネルギーに変えれば地球を吹き飛ばす爆発力がある」というのは常識で、もちろんこの常識はこの公式から導かれたものだ。

 もうおわかりだろう。この公式が、人類に原子爆弾というアイデアをもたらしたのである。

(第1432回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年10月11日号

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