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【逆説の日本史】「新ロシア帝国」の成立を阻止すべく「皆殺し」にされたニコライ2世一家

NEWSポストセブン 2024年10月14日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その9」をお届けする(第1432回)。

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 E=mc2ならぬM=e/c2、つまりM(物質の質量)はe(エネルギー)の結晶であることがわかれば、もし物質をすべてエネルギーに変換できたら莫大なエネルギーが得られることがわかる。これが、アルバート・アインシュタインの発見した特殊相対性理論の「功績」である。もっとも、一般には物質というものはきわめて安定していてエネルギーに変えることは不可能である。たとえばダイナマイトがいくら爆発力があるからと言っても、あれは爆発つまり急激な燃焼という化学変化を利用しているだけで、物質がエネルギーに変わったわけでは無い。

 では、どうやってそれを達成するかと言えば、自然界にある質量がきわめて大きく壊れやすい(核分裂しやすい)ウラニウムに、人工的に刺激を与えて核分裂を促進するという方法がある。これは一九三八年(昭和13)に、物理学者のオットー・ハーンらが発見した。簡単に言えば、ウラニウムの原子核が壊れて別の物質(バリウム同位体)に変わるとき、物質の一部がエネルギーに変わる、というわけだ。

 ダイナマイトの爆発力などとはくらべものにならないので、ダイナマイトの場合「t(トン)」単位で表示する爆発力を、原爆の場合は「Mt(メガトン)」で表示する。1メガトンは1トンの10の6乗倍である。つまり一九三八年以降、「原子爆弾」というアイデアがSFでは無く現実の問題となったのだ。

 アインシュタインは原爆には反対だった。だからこそ、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに「原爆開発の可能性」を警告した。ナチス・ドイツがひと足早く実用化するのを恐れたのである。それを受け取ったアメリカでは、独自の原爆開発計画が進められマンハッタン計画という形で結実した。 広島・長崎に落とされた原爆は、この計画によって製造されたものである。

 ちなみに、人類は二十世紀末まで情報の「貯蔵」を紙に依存してきた。書籍(本)や書類がそうだが、ちょうどいまそれが、紙から電子媒体(USBやDVDなど)あるいはインターネット上のクラウドに変換しつつある。これらの利点は膨大な情報を詰め込めることで、だから情報の総量が単なる「バイト」ではなく「メガバイト」や「ギガバイト」で表示されるようになった。革命的な技術革新は、このような変化を社会にもたらす。

 ちなみに明治から大正初期ということで言えば、主要な「エンジン」が外燃機関から内燃機関へ変換されていったことも、きわめて重要である。なぜなら、蒸気機関を代表とする外燃機関は燃料が石炭でいいが、ガソリンエンジンや蒸気タービンを代表とする内燃機関は燃料が石油でなければいけないからである。つまり大量に石油を確保していなければ、艦隊を運用するなど不可能な世の中になっていったということだ。

 もちろん、陸上でも機甲化部隊を使うためには大量のガソリン(原料は石油)を必要とするということだ。これは自国で石油を産出するアメリカ、石油が豊富に産出する中東を抑えているイギリスやフランスが、戦略的にきわめて有利になったということでもある。

 さて、現在分析している一九一七年(大正6)には原爆はまだ「夢の話」だが、大隈内閣に代わり寺内内閣が前年十月に発足しており、この年の一月にはとりあえず袁世凱の「後継者」で中華民国の「黒幕」段祺瑞を支持する(満蒙独立運動からは手を引く)方針を定めた。

 段祺瑞とは何者かと言えば、

〈[1865~1936]中国の軍人・政治家。北洋軍閥安徽(あんき)派の首領。合肥(安徽省)の人。字(あざな)は芝泉(しせん)。袁世凱(えんせいがい)の腹心として、辛亥(しんがい)革命後、陸軍総長。袁の死後、北京政府の実権を握り、南方革命派を弾圧した。トアン=チーロイ。〉
(『デジタル大辞泉』小学館)

 そして、そうした方針の下に、じつに「姑息な」援助を行なった。

 西原借款という。

〈第一次大戦中、寺内内閣が北京の軍閥の段祺瑞(だんきずい)に供与した1億4500万円の借款。首相の私設秘書西原亀三が担当した。段派の権力失墜により回収不能となり、内外の非難を浴びた。〉
(前掲同書)

 この時代、子供でも知っていた「国民の合言葉」を思い出していただきたい。「十万の英霊と二十億の国帑」である。日露戦争で二十億円もの国費が投入されたということだ。それにくらべれば少ないとは言え、膨大なカネであることはわかるだろう。しかも、その巨大な借款が大日本帝国では無く首相の個人秘書名義で貸し出され、しかも「貸し倒れ」になったというのである。

 もちろん、最終的には国民の負担となった。それにしても、いくら「個人秘書名義」とは言え、寺内内閣の意向であることはミエミエであり、だからこそ「姑息」と評した。じつは、これは寺内内閣のこれからの政策全体を表すキーワードになる。ご記憶されたい。

「皆殺し」は歴史の法則

 このような状況のなか、この年一九一七年の二月(じつは3月)に、世界史を揺るがす重大事件が起こった。人類初の共産主義国家ソビエト連邦の誕生である。

 まずは、その前段階として二月革命というのがあった。ロシア暦二月二十三日に起こった革命だ。この時代、ロシア帝国は他のヨーロッパ諸国とは違う暦、つまりユリウス暦を使っていた。ユリウス暦はローマ帝国初期から使われていた暦だが一部不正確な部分があって、西ヨーロッパではそれを修正したグレゴリオ暦を使っていた。ローマ教皇グレゴリウス13世の命令で作られた暦である。それゆえに、ロシア正教のロシアは採用しなかった。二月革命なのに「じつは3月」というのは、そういうことだ。

 ロシア帝国は、第一次世界大戦では英仏側に立って参戦した。「勝ち組」に乗ったわけで、それなのになぜ革命が起こったかと言えば、日本が明治維新でやったようにロシア帝国を近代化できなかったからだろう。

 日露戦争に敗れた後も、ロシア帝国は軍備の近代化等がスムースに進まなかった。じつは一九〇五年(明治38)一月に旅順要塞が日本に陥落させられた直後、ロシア帝国では民衆の不満が爆発し改革を求める暴動が起こった。あわてたニコライ2世は国会開設などを約束し混乱を収拾したのだが、結局この約束は守られず仕舞いだった。これを「第一次ロシア革命」と呼ぶ向きもある。

 一方、ドイツ側から見れば本国はフランスとロシアに挟まれており、地政学的には不利な状況にあったが、ドイツ軍はロシアには強かった。その象徴がタンネンベルクの戦い(1914年)で、ドイツ軍は数に勝るロシア軍に大打撃を与え撃退した。

 専制国家では君主は外国との戦争に勝ち続けなければならない、そうしなければ民衆の支持を失う。戦争に弱かったナポレオン3世の例はすでに述べたところだが、日露戦争に敗れた皇帝ニコライ2世は国会開設の約束も果たさず、ドイツとの戦いで面目を失った。また経済状況も悪化し、国民は食糧不足に悩まされるようになった。

 フランス革命もそのきっかけは「パンをよこせ」だったが、ロシア革命も同じで二月二十三日(グレゴリオ暦3月8日)の「国際女性デー」にあたり、女性労働者の「パンよこせ」デモを皮切りにロシア全土がゼネスト状態に入った。そしてこうした場合デモの鎮圧にあたるはずの軍隊までが民衆に呼応したため、ついにニコライ2世は政権を放棄した。ロマノフ王朝は打倒され、ロシア帝国は崩壊したのだ。

 ただ、この二月革命はフランス革命と同じくブルジョアジーによる専制政治打倒であり、共産主義体制をめざすものでは無かった。また、このとき各地に自然発生的に生まれた労働者と兵士の合同組織をロシア語で「ソビエト」といった。のちに国号が「ソビエト連邦」になるのは、それが由来である。

 当初成立したこのブルジョワ政権は、弁護士出身のアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが首班となり、ケレンスキー政権と呼ばれたが、この二月革命は長続きはしなかった。戦争継続の姿勢を取り、国有財産の分配も徹底したものでは無かったからだろう。そこで、弾圧を逃れてスイスにいた革命家ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、「敵の敵は味方」とばかりにドイツと交渉しロシアへの帰還を支持するよう求めた。

 前にも述べたように、ドイツはロシア攪乱の好機と考え、レーニン一行を「封印列車」でロシアへ送り込んだ。ロシアに戻ったレーニンは、その後紆余曲折はあったものの同士のボルシェビキ(本来は「多数派」の意味)のリーダーとなってケレンスキー政権を打倒し、新たな共産主義に立脚する政権を樹立した。これが十月革命であり、ソビエト連邦の始まりである。

 ただし、ソビエト連邦はすんなりと成立したわけでは無い。まったく新しい理念の国家を作ろうというのだ。ついていけない者もいれば、徹底的に反対する者もいる。そこで一九一七年から二二年までの五年間、ロシアは内戦状態となった。共産主義を象徴する色が「赤」であるため、ソビエト連邦を支持する側は「赤軍」、ロシア帝国を支持する側は「白軍」と呼ばれた。

 また、帝政を支持するロシア人は「白系ロシア人」と呼ばれた。いまでもときどき誤解している人がいるが、これは人種的な呼称では無い。白人であろうと黄色人種であろうと、ロシア帝国を支持するロシア人のことを「白系」と呼ぶのだ。

 ただ、同じく滅んだ清帝国の場合、孫文が理性的な措置を望んだこともあり、さすがの袁世凱も「皇帝一家皆殺し」は実行しなかった。何度も説明したように、袁世凱は孫文から「中華民国の総統」の座を受け継いだとき、すでに「新中華帝国の皇帝」になる野望を抱いていたと考えられるのだが、それでも「清王朝の皇族皆殺し」に走らなかったのは、孫文の時代から革命運動のスローガンとして「漢民族の(支配)復興」が掲げられていたからだろう。

 清の皇族はすべて漢民族とは違う満洲族だからだ。つまり、王朝復興を掲げて清の皇族を立てても、漢民族の支持は得られない。逆に言えば、だからこそ満蒙独立運動(実態は清朝再興)は日本人が主導することになり、最終的には満洲国の建国にまで進んでしまったのである。

 これとは事情がまったく異なるのがロシアだった。たしかに十月革命によってロマノフ王朝はいったん滅びたが、ツァーリ(ロシア皇帝)の支配は遡れば東ローマ帝国の時代から続く伝統であり、国家の宗教であるロシア正教とも固く結びついている。革命によって多くの特権を失う貴族層だけで無く、一般民衆も「パンさえ得られれば」ロマノフ王朝を支持する者も少なくない。

 ここは日本の江戸時代を思い出していただきたい。一般民衆は平穏な生活さえできれば、別に声高に権利を主張したりはしない。「お上には従う」。それが庶民というものである。そうなると革命を完成させたい人間にとって、もっとも都合の悪い事態とはなにか? それは「白系ロシア人」たちが「統合の象徴」をロマノフ王朝の皇族に求め、その結果擁立された「新たな皇帝」が「新ロシア帝国」つまり白軍の総帥となって革命に対抗してくることだろう。

 そうなれば、欧米列強や日本も「新ロシア帝国」を承認するかもしれない。いや、承認するだろう。なぜなら、欧米にとっても日本にとっても、大ロシアが二つに分裂することは敵が弱体化することであり、望ましい事態であるからだ。では、この事態を絶対的に阻止するためにはどうしたらいいか?

 おわかりだろう。皇帝一家を皆殺しにすることだ。もちろん、幼い子供だからといって見逃してはならない。平治の昔、平清盛は少年であった源頼朝と赤ん坊であった源義経の命を助けたが、その結果どうなったかはご存じのとおりである。いわば「皆殺し」は、近代以前の人類の歴史の法則でもある。だからこのとき、ソビエト共産党もそれを実行した。

 ニコライ2世は「ボリシェビキが政権をとったあと、1918年4月にエカチェリンブルグ(ソ連時代はスベルドロフスク)に家族(皇后と4人の子供たち)とともに幽閉され、地方のボリシェビキによって射殺された。2000年8月ロシア正教会は、ニコライ2世とその家族を『受難者』として列聖した」(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊)。

 ちなみに、このとき奇跡的に脱出したと称し、後世マスコミを騒がし映画の題材にもなったのが「第四皇女アナスタシア」であるが、公式には彼女は父母きょうだいと同じ日に殺されたとされている。そして、なぜ二〇〇〇年に一家が列聖されたかと言えば、この虐殺は裁判にも法律にも基づかないものであったからだ。いわば一家は、「無実の罪」で殺されたのだ。

 では、ここで当時の日本人の気持ちになって考えていただきたい。日本人はこの革命についてどんな感想を持ったか、ということである。

(第1433回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年10月18・25日号

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